7  再訪









        次の朝になると、薫の腕に刻まれた襷の痕は、きれいさっぱり消えていた。



        「一晩で、なくなっちゃうものなのね」
        起きぬけに、まだ半分意識を眠りの淵に残している様子で、薫は腕をぼんやりと眺めながらそう言った。
        剣心は横になったままの妻の手をとり、昨日縛った箇所に唇を這わせながら「おはよう」と言った。
        昨日の無体について、薫が怒っている気配はもう感じられなかった。そしていつもと同じように一日が始まったのだが―――ひとつだけ、剣心は後ろめた
        い思いを抱えていた。

        昨日、薫が眠っているときに、楠夫妻が訪ねてきたこと。
        それを、剣心は彼女に伝えそびれている。





        ただ、薫から彼の話を聞いただけで、剣心は楠に対して勝手に嫉妬の炎をめらめらと燃やした。
        しかし、その相手といざ顔をあわせてみると、対面は呆気ないほどあっさりと済んでしまった。

        楠と対面したとき、たしかに胸の中では埋み火のように、悋気が熱をもってぶすぶすとくすぶっていたが―――でも、それだけだった。
        もっと激しい感情が暴れるものかと思っていたのに、そうはならなかった。
        そのことが、剣心は不思議でならなかった。


        「なぁに?どうかしたの?」
        普段着に着替えた薫は、帯揚げを襟元に畳み込みながら首を傾げる。布団に寝転がったまま、じっと薫を見つめていた剣心は、「なんでもないよ」と言い
        ながら身を起こして彼女の足にぎゅっと抱きついた。
        「甘えん坊!」と笑って、薫は手を伸ばし良人の髪を撫でる。その感触に心地よく目を細めつつ、剣心は彼女が楠と一緒にいる姿を想像してみた。
        ・・・・・・しかし、その想像は、どうも上手くいかない。ああ、だからなのかな、と。剣心は心の中でひとりごちる。

        どうも、ぴんとこないのだ。
        彼が―――昨日会った楠本人と、薫が仲睦まじげにしている姿が、どうしても想像できないのだ。
        幼い頃の薫と少年だった頃の楠が、兄妹のように過ごしている様子が、どうしても、思い浮かばないのだ。


        それを妙なことだと思いながらも、だから昨日は割合冷静に応対ができたのだろう、と分析する。
        なにせ薫の初恋の相手である。嫉妬にかられて大人気ない喧嘩腰になったとしても、無理はなかったのだから。
        ひとを、見た目で判断するのは間違いだとわかっているけれど。しかし、どうしてもあの男性が「竹を割ったような気質で、腕もたって、小さい頃から薫が
        『あんなふうになりたい』と憧れていた」人物には見えなくて―――

        それでも、ぴんとこないながらも、やっぱり楠の話をするのは嫌で。だから、彼の来訪を薫に告げないままでいる。
        我ながら、本当に子供みたいだ。彼らはまた日を改めて来ると言っていたのだから、そんなことをしても何の意味もないのに。


        「剣心・・・・・・ねぇ、そろそろ離して?」
        太腿の間に顔をうずめるようにして抱きついたままじいっと考えこんでいたら、いいかげん困惑した薫が途方に暮れたようにそう言った。「気持ちいいからも
        う少し」と剣心が答えたら、頭を撫でていた手で今度はぱしっと叩かれた。







        「日を改めて」の訪問は、それから二日後にだった。








        ★








        「御免ください」



        玄関から聞こえたのは、よく通る、少しばかり低めの女性の声だった。
        どこかで聞いた声だな、と思いながら、夕飯の下拵えをしていた剣心は襷を外す。

        「こんにちは」
        玄関にむかうと、其処にいたのは楠の細君だった。
        楠はおらず、彼女ひとりである。その事と、細君の出で立ちに、剣心は少し驚いたように目をみはる。


        「あの・・・・・・」
        挨拶より先に、疑問の色が滲んだ声が剣心の口からこぼれた。細君はふっと目を細めて、「今日は、わたしひとりです」と先を制してそう言った。
        「改めてご挨拶に伺ったのですが、奥様のお具合はいかがですか?」
        「あ・・・・・・ああ、かたじけないでござる。おかげさまで、もうすっかり・・・・・・今は出稽古に行っているでござるよ」
        「そうでしたか」
        そういえばそんな嘘をついたのだった、と思いながら、剣心はそれを悟らせぬよう自然に答える。細君は安心したような表情になり、次いで落胆したように
        僅かに肩を落とす。
        「あの、もう少しすれば戻る筈でござるが」
        恋敵、とも言える男性の細君とはいえ、二度も無駄足を踏ませてしまうのは心苦しい。「よければ、中で待たれていかれては」と提案すると、細君はにこっ
        と笑い「それでは、お言葉に甘えさせていただきます」と頷いた。そして、

        「甘えるついでに、もうひとつよろしいでしょうか?」
        「はい?」
        「道場で、待たせて頂けないでしょうか」


        剣心は、不躾にならぬよう気をつけながら、改めて細君の姿を眺めた。
        先程剣心が驚いた、彼女の出で立ち。
        それは、先日の着物姿と大きく異なる紺袴の道着姿で、その上に黒の羽織を合わせ、同じ色の風呂敷包みを右手に提げている。確かに、これは母屋より
        道場で待つのが相応しい格好だ。

        その上、左手には「武器」があった。
        竹刀ではなく、彼女の身長をゆうに超える細長い武器。朱色の袋に納められているこの長物は、おそらく―――


        剣術道場の跡取りの妻ということで、彼女も武術をたしなむのだろうか。彼女ひとりで訪ねてきたということは、薫は彼女とも面識があったのだろうか。
        そんなことを考えつつ、剣心は乞われるままに細君を道場へ案内した。剣心に続いて、一礼して道場の戸をくぐった細君は、黒い羽織を脱いでひとつ大き
        く息をつく。
        「今、茶を淹れてくるゆえ、こちらにかけて―――」
        「いえ、それにはおよびません」
        座布団を勧めようとした剣心を、楠の妻はきっぱりと制する。そして、彼から目を離さないまま、手元にある朱の袋を解き始めた。




        慣れた手つきで中から出したのは―――薙刀だった。




        無論、刃の部分は鉄ではなく、竹である。
        石突の部分を右足の斜め前について、細君は薙刀を垂直に立てる。
        「もうひとつ、無理を承知でお願いしたいのですが」
        剣心の姿をまっすぐに見据えながら、細君は言った。



        「わたしと、手合わせをしていただけませんか」



        剣心は、今度こそ心底驚いて言葉を失う。その反応は想定の内だったようで、細君は剣心の返事を待たずにたたみかけた。
        「神谷道場の緋村剣心殿の勇名は、当然存じ上げております。わたくしなどでは相手に不足ということも百も承知ですが―――何卒、お頼み申します」
        力のこもった瞳が、凝っと剣心を見つめる。射抜くような視線は、先日対面した良人のそれより遥かに力強いものだった。





        暫く、無言の時間が続いた後、剣心は「・・・・・・わかったでござる」と頷いた。









        ★









        前にもこんなことがあったな、と剣心は思った。
        こんなふうに他流も者から挑まれた「勝負」を受けることは、まず無い。しかし以前、薫に懸想している少年が、討ち入りといわんばかりの勢いで勝負を申
        し込んできたときは、ふたつ返事で受けた。
        剣術を始めて間もない少年の挑戦は、無謀としか言いようがなかった。しかし、それを受けたのは彼の想いが本気だったからだ。彼が薫に本気で惚れて
        いることを、剣心は知っていた。だから、真剣な思いで恋敵に挑もうとする少年の覚悟に敬意を表して、竹刀を取った。

        あの時と違い、今回は細君の意図は全く読めない。
        自分の良人と親しかった娘の道場に礼儀正しく単身乗り込んできて、その娘の良人に勝負を挑んでくる。これはいったい、どういうつもりなのだろう。


        訳がわからないままに、しかも女性が相手の勝負を受けてしまったのは、やはり―――彼女が「本気」なのがひしひしと感じ取れたからだ。
        意図は読めない。しかし、細君が自分を見据える双眸にこもった気迫からは、興味本位や時間つぶしの為に手合わせを申し込んだわけではないことが、
        伝わってくる。



        「お願いします」
        互いに立礼をし、構える。
        剣心は両腕を下に垂らしたまま無位に構え、細君は薙刀の切先をすっと前方に倒し、中段に構えた。

        立ち姿を見て剣心は、おや、と心のなかで呟く。
        背筋を無理なく伸ばした、しかし静かな緊張感が切先まで行き渡った、美しい姿勢。
        竹刀と薙刀という違いはあるが―――この立ち姿は、薫に似ている、と思った。

        仕掛けてきたのは、彼女からだった。
        足音を殆どたてずに踏み込み、振りかぶって、打ち込む。その一打目を、剣心はすっと身体を横に動かして、避ける。
        細君は振り返して二打、三打と打突を繰り返す。それを竹刀で払い、かわしながら、剣心は「強いな」と細君の腕に驚いていた。


        まだ始まって数打であるが、彼女の動きに全くの無駄がなく、洗練されていることはよくわかった。
        当然、薙刀と竹刀とでは間合いが異なる。幕末、戦場で槍や薙刀といった得物の相手と戦ってきた剣心にとっては、異なる武器との対戦は慣れたものと
        言ってもよいが―――細君もまた、物怖じせずに間合いを詰めて、的確に打突を繰り返してくる。恐らく、薙刀同士ではない、他流の試合も多数経験して
        いるのだろう。
        脛を狙った一打を剣心がかわしたところで、細君はすっと薙刀を後ろに引き、自身も剣心から距離をとった。剣心も同様に一歩引き、互いに体勢を整える。
        両者ともに、息は微塵も乱れていない。
        ゆらり、と。薙刀の切先が高く上がった。左右の手を持ち替えて、八相に構える。すぐさま打突を繰り出せる、攻撃的な構えである。これまでの打ち込みは
        様子見だったのだろう。ここから、攻めに入るつもりか。

        細君の表情は、静かだった。
        しかし、先程から決して剣心から逸らそうとしない瞳からは、確かな闘志が感じられる。
        剣心は、竹刀を青眼に構えた。それを合図にしたように、細君が裂帛の気合いとともに飛び込んでくる。
        「・・・・・・はぁっ!」
        頭上に薙刀の刃先が落ちかかる。面を狙ってきたのを剣心は横に飛んでかわした。空を切った刃先は、しかし直ぐ様あるべき位置へと戻り、剣心の喉を
        狙って鋭く突きを繰り出してきた。
        すっ、と。剣心は膝を折り、身体を下に沈める。薙刀の切先が突いたのは、一瞬前まで剣心がいた空間だった。

        剣心はそのまま柄の下をくぐるようにして、細君に肉薄する。ここまで接近されると、薙刀にはとっては不利だ。しかし細君は、大きく腰をひねって薙刀の
        石突―――刃先ではなく、柄の先を剣心に叩きこもうと動く。
        剣心はふたたび跳んだ。
        剣心の疾さなら、そこで石突の一打が届くより先に、彼女の胴を打ち据えることもできた。しかし、そうはしなかった。跳びすさって、細君の間合いから再び
        距離を取る。


        「・・・・・・お優しいのですね」
        そう言った彼女の声に、皮肉や揶揄の色はなかった。むしろ素直に感心しているかのように、目許をふわりと緩める。

        好機だったのにもかかわらず、剣心が勝負を決めなかったのは、単に「女性を打ち据えたくなかった」からだ。
        ごくたまに、薫から乞われて手合わせをすることがあるが、そんな時も剣心は極力彼女を「痛い目にあわせない」ようにして、勝負をつける。その度に薫は
        「女だからって特別扱いしないで」と憤慨するのだが―――剣心としては単純に、世界で一番好きな相手を竹刀で叩くなんてとんでもない、と思っているだ
        けである。
        この度の相手は薫ではないが、それにしても女性を叩きのめすのは趣味ではない。さて、いかにして勝負を決めようか―――などと考えていたら、構え直
        した細君が勢い込んで間合いを切ってきた。


        既に、表情から笑みは消え、剣心を捉える視線は切れそうに鋭い。
        彼女もそろそろ決着をつけたいのだろう、踏み込んで振り下ろした一撃は今までで一番重かった。
        渾身の打突を、剣心は難なく受けて横に払う。細君は薙刀を返して、続けざまに打ち込んでくる。薙刀と竹刀がぶつかり合う音が、道場に繰り返し響く。

        細君の薙刀が、空を切った。
        上段に振りかぶり、美しい軌道を描きながら、刃先を打ち下ろす。
        狙いは剣心の脚だった。しかし、刃先が触れるか触れないかのぎりぎりのところで、剣心の足が床から離れた。

        薙刀の切先が、がっ、と床に当たって硬い音が響く。
        跳躍に続いて、剣心は刃先めがけて竹刀を打ち下ろした。


        「・・・・・・っ!」


        峰を襲った強烈な一打。その衝撃は柄を伝わり、細君の指を震わせた。
        剣心はそのまま、手首を返した。竹刀はくるりと円弧を描き、薙刀の刃部をすくい上げる。

        ばし、と。
        乾いた音とともに、跳ね飛ばされた薙刀は細君の手から離れ、宙を舞う。
        がしゃん、と更に賑やかな音を立て落下した薙刀が床に転がったときには、既に剣心は細君の懐に飛び込んでいた。



        竹刀の切先は、細君の喉の、紙一重というくらいの手前で止まっていた。
        細君は、視線だけを動かして、喉笛に突きつけられた竹刀を見た。そして、腕をぴんと伸ばして竹刀を握っている剣心の顔を見る。




        「・・・・・・参りました」




        何故か、そう言った唇はほころび、表情は満足そうだった。








        「・・・・・・理由を、お聞かせ願えぬか?」
        さすがに少し息はあがっているが、楠の細君はたいして汗をかいた様子も疲れた様子もなかった。だから剣心は、互いに一礼を交わした後、すぐさま疑問
        を口にした。

        「理由?」
        「何故、拙者と手合わせをしようなどと思ったのか、その理由でござるよ」
        「それは、単純な理由ですよ」
        そう言いながら、細君は床に転がった薙刀に手を伸ばす。
        「薫さんのご主人が、どんな人間なのか知りたかったからです」
        拾った薙刀を、すっと身体の横に添わせるようにして立てて、にっこりと笑う。
        彼女は単純な理由と言ったが、剣心にしてみればその回答ではまだ説明が足りなくて、いやしかし―――と更に問い詰めようとしたとき、戸口でかたりと
        音がした。



        「ただいまー。剣心、お客様なの?」
        剣心がそちらを見ると、出稽古から帰ってきた薫が立っていた。細君も、一拍遅れて振り向く。



        振り向いた細君の顔を見た薫は、驚いたように目を大きくする。
        そして、みるみるうちに薫の頬にはぽーっと赤く鮮やかに血がのぼり、それにつれて表情は輝くような笑顔へと変わってゆく。

        薫の足が、床を蹴った。そのまま一直線に、細君に向かって駆け出す。
        それを見た細君は、「おっと」と言って手にしていた薙刀をそばにいた剣心に押しつけた。





        「晶さんっっっっ!」





        飛びつくような勢いで抱きついてきた薫を、細君は晴れやかな笑顔で抱き止めた。
        反射的に薙刀を受け取った剣心の顎が、かくんと下に落ちた。














        8  「晶」へ 続く。