6  来客









        訪う声が聞こえた、ような気がした。



        気のせいかと思ったがそうではなく、少し間を置いて再び玄関の方から声がした。聞き覚えのない男性の声である。
        居留守を決め込むべきかどうか、束の間考える。しかし一応自分は着物を身につけ直して、人前に出られる格好にはなっている。

        傍らの薫を見下ろす。彼女の拘束は、まだ解いていない。道着の上だけが申し訳程度に腕に引っ掛かっているだけのほぼ素裸で、頬に幾筋もの涙のあ
        とを残したまま、眠っている。疲れきって眠ってしまった―――というか正確には、何度目かの交わりの後、耐えきれずに意識を手放してしまったと言うべ
        きか。


        剣心は、彼女の頬の涙を拭ってやり、白い裸身に布団をそっと被せた。
        鏡をちらりと覗き、髪が乱れていないことを確認してから、剣心は足を玄関へと向けた。










        なんとなく、予想はしていた。



        「楠と申します。薫さんはご在宅でしょうか」



        出稽古で前川が、「楠くんが挨拶に来た」と話していた。
        おそらく「彼ら」は、今日は彼方此方に挨拶回りをしているのだろう。だから、うちにも足を運ぶのではないか、と。頭の隅で考えてはいたのだ。

        果たして、楠はやってきた。
        彼ではなく「彼ら」というのは―――楠が一人ではなく、細君を伴って来たからである。



        「誠に申し訳ないが、今、妻は臥せっておりまして・・・・・・」
        とてもじゃないが、今の薫は人前に出られる状況ではない。剣心がそう答えると楠夫妻は顔を見合わせ、次いで揃って気遣わしげな表情を剣心に向け
        た。
        「お具合が、悪いのですか?」
        「いや、軽い風邪らしくて、大事をとって休んでいるだけでござるよ」
        剣心の言葉に、夫妻は今度はほっとしたような視線を交わした。その様子からは、自然な仲睦まじさが感じられた。


        少し、意外だな、と。剣心はそう思った。
        楠という青年はどんな男だろうと、昨日から色々想像を巡らせていた。
        薫が好きだった男性なのだから、まずは剣術に優れた―――なんとなくだが「強そうな」青年かと予想をしていたのである。

        しかしながら、今目の前にいる楠は、背こそ剣心より少々高いがすらりとした痩身で、人の良さそうな顔に眼鏡をかけている。旅暮らしをしていた証拠に肌
        は陽に焼けていたが、どちらかというと剣術家というよりは書生のような雰囲気だ。竹刀よりも、本を持たせたほうが似合うような風貌である。



        この男を、かつて薫は好きだったのか。
        昨日からいいだけ嫉妬に身を焦がしてきたその相手が、今目の前に立っている。
        しかし―――



        「それでは、また日を改めて伺うことにいたします」
        「そうしていただけるとありがたいでござる。薫殿も、楠殿に会いたがっていたゆえ・・・・・・」

        と、剣心は視線を感じて、楠の細君の顔を見た。
        楠の妻は、美しい女性だった。つややかな黒髪を肩の上で切り揃えており、涼しげな目許が印象的な美人である。その彼女が、じっと剣心のことを凝視し
        ていた。
        剣心がもの問い気な目を細君に向けると、彼女はふっと表情をゆるませ、微笑んでみせた。
        「どうぞ、奥様によろしくと。そして、お大事にとお伝えくださいませ」
        「・・・・・・どうも、かたじけないでござる」
        細君の言葉に、剣心は礼をして答える。
        そうして、楠夫妻は神谷道場を辞した。








        ★








        「・・・・・・どうも、妙だな」



        妙な具合だったので、口に出してつぶやいてみた。
        あれほど嫉妬をして、敵愾心すら抱いていた相手である。その男との対面が、呆気ないほどあっさりと、微塵の動揺もなく済んでしまった。
        これは一体、どういうことだろう。

        よもや、先程八つ当たりのように薫をめちゃくちゃに抱いたことで気が晴れたとでもいうのだろうか。
        いや、そういうわけでもないだろう。そうではなくて―――




        「・・・・・・薫殿?」
        自分の心情に対して自問自答をしながら、剣心は寝室に戻り襖を引いた。その途端、布団の上に横たわる薫と目が合う。楠夫妻の相手をしているうち
        に、目が覚めたらしい。
        「大丈夫でござるか?今、ほどいて―――」
        そう言いながら傍らに膝をつくと、薫はもたげた首をぱたりと剣心の膝の上に倒して、子猫のように頭をすりつけてきた。
        「・・・・・・薫?」
        腕が使えないため、すがりつく代わりにそうしたのだろうが、可愛らしい仕草に剣心は相好を崩しかける。そのまま髪を撫でようとして指を伸ばしたが、薫
        はその手に―――がぶりと噛みついた。

        「痛たたたたたたたっ!かっ・・・・・・薫殿っ?!」
        たまらず剣心が悲鳴をあげると、薫はぱっと口を離した。くしゃりと顔が歪み、涙のたまった目で剣心を睨みつける。
        「剣心の、ばかぁ・・・・・・」
        頼りない声でそう言うなり、両の瞳からぼろぼろと涙がこぼれ出す。剣心は慌てて薫を抱き起こし、ぎゅっと包みこむように抱きしめた。
        「ごめん、薫殿・・・・・・今すぐほどくから」
        剣心は薫の背中に回した腕を動かし、彼女を拘束する襷に指をかけた。結び目をほどいて、腕に絡まる襷を取り去る。


        「ふ、ぁぁ・・・・・・」
        久方ぶりに、腕に自由を取り戻し、薫の身体中からふぅっと力が抜けた。深く息を吐いて、背中にとどめられていた手をぱさりと下におろす。それからゆっく
        りと、両手を胸の高さまで持ち上げた。
        「大丈夫でござるか?」
        「ん・・・・・・大丈夫、ちゃんと動く」
        「痛くないでござるか?痺れていたり、気分が悪かったりは・・・・・・」
        「平気・・・・・・みたい」
        薫は剣心の目の前で、指を閉じたり開いたりと動かしてみせた。剣心はほっと息をついたが、白い腕には赤い蛇が巻きついたように、痕がくっきりと残って
        いた。
        「血のめぐりがよくなれば、消えるでござるかな。今日は拙者が風呂を沸かすでござるよ」
        「そんなの、当然でしょう」
        ぷう、と膨れてみせた薫の頬を、剣心はてのひらで挟んで包み込む。
        「すまない・・・・・・ちょっと、悪ふざけが過ぎたでござるな」
        「まったくだわ」
        「反省してるでござる」
        「してくれなきゃ困るわよ」
        「怒ってるでござるか?」
        「・・・・・・」
        「・・・・・・薫殿?」

        じぃ、と。不安そうな顔で瞳を覗きこまれて、薫は「勿論、怒っているわよ」と返事をする。途端、剣心の眉が情けなく下にさがって―――薫はひとつため息
        をつくと、まだうまく力の入らない手で剣心の襟元をきゅっと握り、首を伸ばした。


        「・・・・・・え?」
        ちゅ、と。小さく口づけられて、剣心は目を白黒させる。
        「怒っているけれど・・・・・・そんな顔されたら、許しちゃおうかなって、思っちゃうじゃないの」

        そして薫は、「むしろ、そう思っちゃう自分に腹が立つわ」と、涙の残る目で拗ねたように言った。剣心は一転してぱっと明るい顔になると、がばっと薫を抱
        きしめて、額に頬にといくつも口づけを落とす。
        「も〜!本当に反省してるの?!」
        薫は怒った声を上げたが、それは剣心に遮られて彼の口の中に飲み込まれた。












        「どんな感じでござった?」


        焙じ茶を飲みながら、剣心は薫に訊いた。
        盆に乗せた稲荷鮨と漬物と、そしてお茶とを寝室に持ち込んでの、今日は少々行儀の悪い夕餉である。
        「どんなって、何が?」
        寝間着に着替えて、肩に半纏を乗せた姿の薫が首を傾げた。布団の上に座った彼女の手には、食べかけの稲荷鮨がある。

        「縛られてするのは、どんな感じなのかな、と」
        にっこり笑っての剣心の台詞に、当然のことながら薫は赤くなる。残った鮨を口に放り込んでから、薫は空いた手で剣心の膝をばしっと叩いた。
        「痛いでござるよ」
        「わたしだって痛かったわよ!ほらっ!」
        言いながら、赤い痕が刻まれた腕を剣心の前に突き出す。襷の痕は先程より幾分薄くなっているようで、剣心は「ああ、もう消えてしまうのか」と内心でこ
        っそり呟いた。
        「いや、しかし痛いだけではないでござろう。いつもよりかなり乱れていたような気が―――痛たたたたたっ!」
        薫は剣心に飛びかかると、抱きつくようにして首に腕をかけてぎりぎりと締め上げた。
        「それはっ!いつもより恥ずかしかったからなのっ!」
        乱れていたことは認めるのかな、と思いながら、剣心は薫の腕を首から剥がして、そのまま彼女を膝の間に座らせた。
        「拙者は、いつもよりそそられたでござるが」
        さらりと言われて、薫はますます赤くなる。顔を隠すように俯きながら「ばか・・・・・・」と呟いたが、耳からうなじまで鮮やかに血がのぼっているのが剣心に
        もしっかり見えていた。



        先程も、こんなふうに白い肌を艶やかに赤く染めて。いつもなら、背中に手を回してすがりついて、あるいは敷布をぎりりと握りしめて、身体の内側に生ま
        れる疼きを耐え忍ぼうとするのだろうけれど―――それができない今日は、過ぎた快感にただ蹂躙されるままで。

        だから、啼き声はいつもよりあられもなく、いつもより激しく身体を震わせて反応していた。きっと彼女自身も、そのことは自覚しているのだろう。
        もう少しからかってみたかったが、これ以上へそを曲げられては困るので、この辺にしておこうかと思う。剣心は手を伸ばして稲荷鮨をひとつつまむと、そ
        のまま薫の口の前に「あーん」と差し出した。薫は大人しく口を開いて、稲荷鮨をひとくち齧る。残った半分を、剣心は自分の口に運んだ。指を差し出すと、
        薫は彼の指に残った甘辛い煮汁を舌でちろちろと舐めとった。



        「・・・・・・さっきね」
        「うん?」
        「さっき、わたしが目を覚ましたとき・・・・・・剣心がいなくて、此処にわたしひとりだったでしょう?あれが、凄く嫌だったの」

        剣心は、首を動かして薫の顔を覗きこんだ。薫は剣心の指にちゅっと吸い付いてから、彼の胸にもたれかかる。
        「ひとりにされたのが、寂しくて怖くて凄く嫌だったから・・・・・・あのとき、思いっきり噛みついちゃったのよね」
        痛くしてごめんね、と薫は言ったが、痛いのは彼女のほうこそよっぽど痛かっただろう。剣心はいや全然と答えながら、薫をきゅっと抱く。
        「でも・・・・・・そんなに怖かったでござるか?確かに、ひとりにはしてしまったが、一瞬だったでござろう?」
        薫がいつ目覚めたのかはわからないが、それにしても彼女がひとりになったのはほんの数分程度の筈だ。赤ん坊でもあるまいし、そこまで怖がることでも
        ないだろうに、と剣心は不思議に思った。
        「・・・・・・わたしも、自分でもびっくりしたわよ」
        言いながら、薫は剣心の胸のあたりに、子猫のような仕草で頭をすり寄せる。
        「いつもなら、そのくらいの事で怖いだなんて思わないけど・・・・・・でも、さっきは身体に力は入らないし腕は動かせないして、ひとりじゃ立ち上がることも無
        理そうで・・・・・・」


        ふと、自分がひとりではろくに動くことすらできない、弱くて小さな生き物になったように思えた。
        そんな状態でひとりでいることが、ひどく不安になった。怖くなった。

        だから、剣心にそばにいてほしかった。
        それだけで安心できた筈なのに、目を覚ましたとき、彼はそこにいなくて―――


        「・・・・・・でも、薫殿をそんなにしたのも、拙者でござろう?」
        今は、できる限り優しく触れて、痛くないよう力を加減して抱きしめているけれど。しかし先程、有無を言わさず君の自由を奪って、怯える君をいいだけ好き
        にした張本人は俺だったわけで、だから。
        「むしろ・・・・・・拙者のことを、怖いとは思わなかったのでござるか?」
        君の初恋の相手に対する、醜く勝手な嫉妬が原因で、酷いことをしてしまった。まるで八つ当たりをするように、「怖い」と思われても仕方がない抱き方をし
        てしまった。
        それにもかかわらず、あんなことをした直後の俺に「そばにいてほしい」と、そんなに強く思ってくれていたなんて―――

        「・・・・・・確かに、びっくりしたし怖かったし、どうしてこんなことをするのかしら、って・・・・・・わけがわからなくて混乱したけれど」
        剣心の胸に頬を押しつけて、彼の体温を感じながら、薫はゆっくりと言葉を選んで喋る。
        ちゃんと正しく、想いが彼に伝わるように。



        「でも、剣心だから大丈夫・・・・・・って、思ったの」



        頭を上げて剣心を見ると、子供のように目を丸くして驚いた顔をしていて、薫は思わず微笑んだ。
        「剣心って、時々わたしに意地悪したり・・・・・・その、恥ずかしいことをさせたりはするけれど・・・・・・絶対に、わたしを傷つけたりはしないでしょう?」
        今日だってそうだった。両腕を拘束しながらも、力一杯締め上げたりはしないで、縛る力にはどこかに躊躇いがあった。
        「酷いことはしない」と言った声は真剣で、だからその言葉は信じられると思った。


        それに―――あなたはわたしが、世界で一番信頼している、どんなときもわたしを守ってくれるひとなのだから。


        「だからね、びっくりしても怖くても、剣心だから大丈夫って。剣心になら、このまま好きにされても心配することなんて無いって・・・・・・そう、思ったの」
        まじまじと薫を見つめていた剣心は、ふっと苦しそうに、眉をひそめた。首を倒して、彼女の前髪と自分のそれを触れ合わせる。
        「拙者は・・・・・・傷つけてきたよ。これまでに何度も、薫殿のことを」

        それは、身体にではなく、心にという意味だけれど。
        けれど、それは紛れもない事実だから。剣心は、敢えてそう言った。
        しかし、薫は「でも・・・・・・『これまで』に、でしょう?」と反証を唱える。


        「『これから』は、そんなことは絶対にないもの。剣心だって、そう思っているんじゃないの?」


        すぐには、言葉が出てこなかった。
        ただ、喉の奥で泣きそうな声で、「かおる」と彼女の名を呼んで、細い身体を狂おしくかき抱いた。



        ただ、君の心に、強烈な痕を残したかった。
        自らの独占欲を、行為によって昇華しようとした。
        そのために―――君の自由を奪った。

        それはとんでもなく身勝手な振舞いだったのにもかかわらず、自由を奪われた薫は、すべてを委ねてくれた。
        彼女を縛ろうとしたとき、徹底した抵抗はされなかった。明らかにいつもとは違った行為を強要したのにもかかわらず、薫は自分を信頼して、身を任せよう
        としてくれた。
        それは、君が無条件に俺のことを信じてくれている証拠に他ならない。
        こんなにも我儘で醜く嫉妬深い俺のことを―――君は信じてくれて、愛してくれている。



        「・・・・・・ありがとう、薫殿」



        ほんとうに―――俺はどこまで我儘なんだろう。
        君から注がれる愛情をいつも感じていながら、更に欲張って君の過去まで手に入れたがって。
        君が昔、心に傷を負ったのならば、その傷に嫉妬するのではなく、俺が癒してやるべきなのに。

        俺が刻みつけた傷と一緒に、君が抱えたほかの傷も、すべて。君がずっと、笑顔でいられるように。
        君を守り、君の傷を癒すのが、俺の役目なのだから。



        薫は剣心の言葉に満足したように、優しく「どういたしまして」と言った。
        しかしその後に改めて「でも、本当にどうしてこんな事をしたの?」と、素直な疑問を口にする。

        君の身体と心のなかに、もっと深く刺さりこみたかったからだよ。
        痕が残るくらい、傷になるくらい、きつく、強く。
        ―――なんて、そんなことを正直言える筈もなくて。


        「いつもと違うことをしてみたかっただけでござるよ」
        「嘘、さっきはいつもと同じって言ったくせに!」
        追及する声はまたしても口づけで阻まれた。「いつもこうするの、ずるい・・・・・・」と薫は呼吸の合間で訴えたが、剣心は聞こえなかったふりをする。
        「また、こんなふうにしてもいいでござるか?」
        「こんなって・・・・・・縛る・・・・・・の?」
        「拙者になら、何をされても大丈夫なんでござろう?」


        今度はもっと優しくするから、と囁くと、薫は目許を朱に染めて「馬鹿」と消え入りそうな声で答えた。
        肯定と受け取っていいのかなと勝手に判断しつつ、剣心は口づけを深くした。














        7 「再訪」 に続く。