4  襷










        お汁粉と団子をそれぞれ食べ終えて、お茶で喉を潤しつつ、剣心と薫は茶店を出た。
        帰り道、屋台で稲荷鮨の折をひとつ買った。
        「ここのお鮨、美味しいわよね」と屈託なく薫が笑う。つい先程の「なんでも言うことを聞く」という約束を、既に忘れてしまったのか。いや、きっと「なんでも」
        の内容をたいして重くとらえていないのだろうな。

        そんなことを思いつつ、剣心はそっと手をのばし薫の指を捕まえた。
        小さな手が、当然のように握り返してくる。
        それは彼女が、自分を信頼してくれている証のようで―――剣心の胸はじりりと疼いた。








        「・・・・・・えっ、やだ、剣心具合悪いの?!」
        薫が驚いたのは、家に着くなり剣心が寝室に布団を敷き始めたからだ。
        「いや、そういうわけではないでござるよ」
        「え、だってお布団・・・・・・ひょっとして、調子が悪いのに無理してつきあってくれたんじゃ」
        おろおろと気遣わしげに尋ねてくる薫に「ほんとに、大丈夫でござるよ」と剣心は笑う。そして、笑いながら彼女の腕を掴んだ。

        「・・・・・・剣心?」
        引き寄せて、いいかげんに敷いた布団の上に座らせる。まだ着たままだった臙脂色の羽織を、するりと道着の肩から引きおろす。
        「なんでも言うことを聞く、約束でござろう?」
        一瞬の間ののち、薫の目が丸くなる。
        敷かれた布団と剣心の声色とで、彼が何を要求しているのか、理解できた。理解はできたが―――


        「で、でも剣心・・・・・・ほら、まだこんなに明るいのに」
        「そうでござるな」
        「それに、汗かいてるし、お風呂に入ってから・・・・・・」
        「そのままのほうがいいでござるよ」
        「ふぇっ?!や、やだっ、何言って・・・・・・」

        真っ赤になった薫を抱き寄せて、うるさい口を塞ぐ。強ばった身体から彼女の困惑が伝わってくるが、強い抵抗はない。
        繰り返し唇を押しつけて軽く歯を立てると、おずおずと口をひらいて応えてくれる。



        ああ、君はほんとうに俺に対して甘すぎる。
        そうやって甘やかすから、俺はどんどんつけあがってしまうのに。



        「ん・・・・・・あっ!」
        体重をかけられ、薫は慌てて腕を伸ばし、剣心にすがりつく。そのままふたりで、敷布の上に倒れこむ。
        遠慮なく預けられる剣心の重みは、薫にとって心地よいものだった。長い口づけに息が苦しくなってきて、互いの舌が絡み合って、ふたりの境目がどこに
        あるのかわからなくなってきて。硬くなっていた身体からはいつしか完全に力が抜けていた。

        こうなってしまったら、彼に散々好きにされるのはいつものことで。ああもう仕方ないわと薫は抵抗する意思をすべて手放す。
        まだ明るいけれどお風呂にも入ってないけれど、なんでも言うことを聞くって約束もしたんだし―――
        と、ふいに身体が軽くなった。一拍おいて、薫は目を開ける。
        身体を起こした剣心が、薫を見下ろしていた。
        表情が、影になってよく見えなくて、薫は彼の髪をかき上げようとして指を伸ばす。
        「きゃ・・・・・・?!」
        しかし、指が届く前に、薫の身体は反転させられた。
        うつぶせになった顔を、敷布が受け止める。
        「力、抜いて」
        そう言って、剣心は薫の腕を掴んだ。


        「な・・・・・・に?」
        直感で、これはいつもと何かが違う、と薫は気づく。しかし、気づくのが遅かった。背中にのしかかる剣心に布団に押さえ込まれている今となっては、逃げ
        出すことは不可能だ。
        剣心は薫の問いに答えぬまま、肘を直角に折り畳むようにして、両腕を背中の方に曲げさせる。
        そして剣心は、片手で懐の中を探った。
        「ねぇ、どうしたの、剣心・・・・・・?」
        薫は首を動かして、うつぶせになった顔を横に向かせて、剣心の様子を探ろうとする。ひらりと、視界の隅を、何か白っぽいものが動いて掠めた。

        「・・・・・・たすき?」
        ああそうだ、今日は干し柿を作るから、襷を持って行ったらと勧めたのだった。そんなふうに、今朝のやりとりを思い出していた薫は、自分の腕―――手首
        から、少し肘に向かうあたりに、その襷が触れるのを感じて、ぎくりとする。
        まさかとは思うが、これは、ひょっとして―――



        「剣、心・・・・・・なに、する気?」
        「なんでも言うことを聞く、約束でござろう?」



        先程の台詞を、もう一度剣心は繰り返す。しゅる、と襷が腕に巻きつけられるのを感じて、薫は半ば反射的に「嫌っ・・・・・・!」と声をあげた。
        「ま、待って!やだ剣心!わたし、こんな事・・・・・・!」
        「あんまりきつく締めないから」
        「そっ・・・・・・そういう問題じゃ・・・・・・!」
        暴れられるのは想定内だったので、剣心は落ち着いて薫の背中にぐっと体重をかけた。腹のあたりが布団につよく押しつけられて、薫は苦しさに身動きが
        とれなくなる。

        「や・・・・・・剣、心・・・・・・」
        くぐもった声が、薫の唇から漏れる。剣心は、自分も身体を倒して、彼女の耳元に口を近づけた。
        「・・・・・・お願いだから、じっとしていて」
        何故か、ひどく思いつめたようなその声音に、薫の肩がぴくりと震えた。
        「痛かったら、途中でやめるから。酷いことはしないから、だから・・・・・・」
        しばらく、動かないで。
        そう言って、剣心はするりと薫の腕を撫でた。

        道着の袖から伸びる華奢な両腕を背中に畳むと、細身な彼女が更に小さくなってしまったように見える。
        諦めたのか覚悟を決めたのか、薫の身体から力が抜けた。剣心は、腕にひと巻きした襷をもう一度くぐらせようとして―――薫が、ほんの少し腕を動かす
        のを感じた。
        ほんの少し、背中から手を浮かせて。腕を縛るために、襷を巻きつけやすいように、隙間をつくるように。



        ―――ああ、君はほんとうに、どこまで俺に甘いんだろう。
        そうやって甘やかすから、俺はどんどんつけあがって―――今、こんな真似をするに及んでいる。



        力をこめすぎないように、痛すぎないように。でも、彼女が腕を襷から抜いたりはできないように。加減しつつ、縛る。
        きゅ、と結び目を作って、薫の上から身体を退けた。負担がかからないよう注意しながら、道着姿の彼女を反転させる。

        「は・・・・・・」
        うつぶせから仰向けに姿勢を変えられて、呼吸が楽になった薫は大きく息を吐く。
        「・・・・・・痛い?」
        短く尋ねると、大きな目が剣心を見上げた。すこし考えてから、「・・・・・・ちょっと、痛い」と素直な答えが返ってくる。
        「・・・・・・そう」
        身を屈めて、彼女の瞳を覗きこむ。
        「我慢できなくなったら、言って」
        それはつまり我慢が続く限り我慢しろということで―――薫の双眸が怯えたように揺れた。いつもと違う扱いを受けて、自由を奪われて。
        これから自分の身に起こることを想像して、でも自分の頭では想像が追いつかないことが怖くて、すがるような目を剣心に向ける。



        怖がっている。
        でも、逃げようとはしない。

        ほんとうに嫌だったら、自由な脚で今すぐ俺を蹴り上げることだって出来るだろうに。
        「こんなことしたくない」と怒って叱りつけられたなら、さながら彼女の門下生の少年たちのように、頭を垂れて謝るのに。弥彦のように、一発くらい殴られる
        のだって甘んじて受けるのに。




        薫から視線をそらさずに、更に顔を近づけて、口づける。
        優しく触れて、くりかえし押しつけて、小さな顎を指で掴んで、口を開かせた。

        背中に、縛られた腕がある所為で、首を苦しげに少し反らせて。それでも、薫はきつく瞳を閉じて、深く求める接吻に応えようとする。
        飲み込み損ねた唾液が、口の端からこぼれて、彼女の顎を伝った。
        それを自分では拭うことができないことに気づき―――薫は羞恥に顔を歪ませた。












        5 「傷」へ 続く。