3  賭け










        自分の好きなひとに、かつてほかに好きなひとがいた。



        それは普通によくあることであろう。
        実際、巴もそうだったのだし。






        巴から、祝言を挙げる筈だった幼馴染がいたと告白されて。そのひとのことがずっとずっと好きで、失ったときは心が壊れかけるほど愛していたと知って。
        正直に言って、一瞬「突き飛ばされた」ような気分になった。いや、「突き落とされた」のほうが正しいか。つまりは、衝撃を受けた。

        でも、それは本当に一瞬のことだった。
        彼女の大事なひとは、既にこの世にいないと知って。彼女が一度幸せを失ったのならば、今度こそ俺が彼女を幸せにしてやろうと思って。
        けれど、彼女から幸せを奪ったのは俺で。そして巴は、その告白から時を置かずしてこの世を去って。
        だから、衝撃とか所謂嫉妬とかそういったものを感じたのは本当に刹那のことで。それらはすべて後悔やら罪悪感やらに飲み込まれて終わってしまった。



        だけど、この度は違う。
        薫に、かつて好きなひとがいた。
        そのひとはやはり幼馴染で、ふたりは兄妹のようなあたたかな時間を紡いで育った。
        そして、彼が東京に戻ってきたという知らせに、薫はとても―――とても、喜んでいた。

        胸が、じりじりする。
        なんだろうこれは。胸の奥に焼け火箸でも押しあてられているみたいに、ひりつくように痛くて熱くて、じりじりする。


        突き落とされるような衝撃の後に続く、この焦燥感。
        薫の心のなかにはかつて俺じゃない男性が住んでいて、今も彼女がその男のことを大切に思っているとしたら―――そんなことをぐるぐる考えていたら、
        ふいに弥彦の「同じ思いをしてほしくなくて」という言葉が耳の奥によみがえった。




        薫も、昨年俺から巴の話を聞かされたとき。
        今の俺と同じように、この、胸の中を焼かれるような感覚を味わったのだろうか。





        つん、と。
        袖を引っ張られて、剣心は我に返った。


        「・・・・・・薫殿?」
        そうだった、今は前川道場からの帰り道で、隣には薫がいたのだった。
        つい思考の淵にはまりこんでしまい、上の空になってしまったことを済まないと思いながら、彼女のほうを見ると―――薫は剣心の袖を「ちょっと待って」と
        いうふうにつまみながら、目線を別の方に向けていた。剣心はその視線の先を追い、そして「寄っていくでござるか?」と微笑む。薫が立ち止まって見つめ
        ていたのは、茶店の看板だった。

        「・・・・・・いい?寄っていっても」
        「ああ、拙者も先程の口直しをしたいし」
        先程の、というのは勿論、弥彦にしてやられた渋柿のことである。薫もそれがあって、無性に甘いものが欲しくなってしまったのだろう。
        「でも、今何か食べたら、お夕飯が入らなくなっちゃうんじゃ・・・・・・」
        「なに、夕飯を軽くすればよいさ。あとで稲荷寿司でも買って帰って、それで済ますのもたまにはいいでござろう」


        剣心の提案に、薫はぱっと笑顔になって頷く。
        晴れやかな、笑顔。
        俺が君に過去を語った翌朝も、君はこんなふうに明るく優しく笑って、「おはよう」と言ってくれた。

        ―――あの夜を越えながら、君は何を思いどうやって自分の心と向き合って、翌朝あの笑顔をくれたのだろうか。
        剣心はそんなことを思いながら、薫を促して茶店の戸をくぐった。







        ★







        「決めたでござるか?」
        品書きを真剣な目で見つめる薫に、剣心は尋ねた。午後の茶店は女性客を中心に賑わっており、店内には彼女たちが笑いさざめく声が華やかに満ちて
        いた。
        剣心が尋ねたのは、「何を注文するのか」ということである。品書きとにらめっこをしていた薫は顔を上げると、「うん、決まったわ」とにっこり笑った。

        「何にするでござる?」
        「何だと思う?」
        「・・・・・・お汁粉でござるかな」
        「え、凄い!剣心、どうしてわかったの?!」
        目を丸くした薫に、剣心は「当てずっぽうでござるよ」と頬を緩めた。特に確信はなく、なんとなく答えてみたのだが―――前川道場で門下生や奥方とたく
        さんお喋りをしてきた直後なので、喉に優しそうな甘い汁物を頼むのでは、と思ったからだ。

        「剣心は?何にするの?」
        「何だと思う?」
        「んー、普段なら磯辺焼きとかだけれど、今日はきっと甘いもの系よね。あの柿を食べた後なんだから」
        薫は視線を、剣心の顔と品書きの間で数回往復させ、「あんころ餅か、お団子かと思うのよねぇ・・・・・・」などと、ぶつぶつ呟く。
        「・・・・・・決めた!お団子、でしょう?」
        「うん、じゃあ団子にするでござるよ」
        「えー!?何それー!」
        剣心の「じゃあ」が気に障ったらしく、薫は唇を尖らせる。
        「もう、勝負なんだから情けなんてかけないでよー」
        「おろ、勝負だったんでござるか」
        剣心は笑いながら給仕の娘を呼び止めると、お汁粉と団子を注文する。そして、近くの小座敷に座っている少女ふたりを目線で示した。


        「それでは・・・・・・あの子たちは、何を頼んだのでござろうか?」
        剣心からの「出題」に、薫は尖った唇を楽しげな笑みの形に変える。おそらくは姉妹であろう、その少女たちは紺の絣と黄色の格子柄の着物に、揃いの赤
        い帯を締めている。彼女らは剣心たちより少し前に来たらしく、お茶を飲みながら注文した品を待っている様子だった。
        薫は品書きに目を走らせてから、剣心の顔に視線を移す。彼に「どうぞ」と先を譲られて、薫は人差し指をぴっと立て、答える。

        「お団子と、お汁粉」
        「あんころ餅と、安倍川餅」
        剣心も、すかさず後に続ける。
        すると、まるでふたりの会話を聞いていたかのように、給仕の娘が姉妹の席にやってきた。
        「お待たせしました、お団子と、安倍川餅です」
        剣心と薫は顔を見合わせて、ふたり同時に小さく吹き出す。


        「・・・・・・これって、引き分け?」
        「まぁ、そうでござろうなぁ」
        少女たちは近くの席でそんな「勝負」が行われていたとは露知らず、きらきらと目を輝かせてめいめいの皿に手をつける。その様子を眺めていた薫は、「い
        らっしゃいませ」の声に反応して店の入り口を見やる。小さく会釈をしつつ戸をくぐったのは、半白の髪を上品に結った老婦人だった。
        「ねぇ」
        「うん」
        剣心と薫は、その女性を次の対象に定める。薫は、彼女の細身の体型と鶴を思わせる品の良さから想像をめぐらせ、「甘酒、じゃないかしら」と回答した。
        対する剣心は「団子、ではないかな」と続ける。
        給仕の娘が、剣心たちの席に団子と汁粉を運んできた。娘が皿を置くのを見計らって、老婦人が彼女に声をかける。

        「あの、安倍川餅と磯辺焼きをお願いします」
        ―――意外な健啖ぶりに、剣心と薫は再び顔を見合わせる。そして、やはり同時に破顔した。

        「じゃあ、いただこうか」
        「そうね、勝負はちょっぴり持ち越しね」
        そう言って、薫はいただきますと軽く手を合わせる。
        今の老婦人の注文を揃って外したため、勝負はまだ五分のままだ。これはなんとなく始まった「遊び」のようなものだから、別に必ず決着をつけずともよい
        のだが―――そんなところが、負けず嫌いの彼女らしいな、と剣心は頬をゆるめた。
        汁粉から立った湯気に目を細めながら、薫は箸をとる。剣心も団子の串をつまんで、薫にひとつ提案をした。
        「次に、入ってきた客の注文で、勝負を決めようか」
        椀に口をつけたまま、薫は剣心の顔を見て―――そして「いいわよ」と答えた。悪戯っぽく動く大きな瞳を、ああ可愛らしいなと思いながら、剣心はもうひと
        つ「賭け」を持ち掛ける。



        「負けた方が、勝った方の言うことをなんでも聞く、というのは、どうでござろうか」
        「なんでも・・・・・・?」
        「せっかくの『勝負』なのだがら、そのほうが面白いかな、と思って」



        ぱちぱちと瞬きを繰り返してから、薫は「いいわね、面白そう!」と乗り気になる。「何でも言うことをきく」というのは、時と場合と相手によってはかなり危な
        い提案であろうが―――良人が相手ならば何の心配もある筈がない。薫は汁粉を食べながら「どんな人が来るかしらねぇ」と、店の入り口にちらちらと目
        を走らせる。剣心は、そんな彼女を黙ってじっと見つめていた。
        「・・・・・・あ」
        程なくして、やって来たのはがっしりした体格の若い男性だった。彼が小座敷に上がるのを目で追いながら、薫は「あの人ね?」と、そっと剣心にささやく。
        「甘いものかしょっぱいものか、どっちでござろうな」
        「うーん・・・・・・よし、決めたわ」
        「じゃあ、同時に」
        「せーの・・・・・・」
        剣心と薫は、互いの目を見て、声を揃えた。


        「お汁粉」
        「ところてん!」

        答えは対照的なふたつにわかれた。
        ふたりがゆっくりと、彼の方に首をめぐらすと―――その客は、軽く手をあげて給仕の娘を呼び止めた。


        「お汁粉、ください」


        薫が、ばたりと卓子の上に突っ伏した。
        ところてん、と答えた彼女は、音量を控え目にしつつも「ああ〜!」と悔しさも露わな声をあげる。
        「拙者の勝ち、でござるな」
        剣心はにっこり笑って、団子を一口かじる。薫は少しだけ顎を上げ、「どうしてわかったのぉ・・・・・・?」と上目遣いに尋ねる。
        「いや、拙者も当たるとは思わなかったから、びっくりしているでござるよ」
        運がよかったようでござるな、と笑って答えたが、実際のところほんとうに、自分自身でも驚いていた。

        ともあれ、勝負に勝ったのは剣心だった。
        と、いうことは―――


        「言うこと、なんでも聞くんでござるな?」


        笑みを含んだ声で確認をしたが、「笑うような状況ではないのだが」と、自分のなかの冷静な部分が囁いていた。
        だって、今の自分も精神状態はまともじゃない。そもそも、こんな賭けを持ちかけたこと自体、まともじゃない証拠だ。
        こんなにも嫉妬に支配された状態で「言うことを聞かせる」なんて。そんなの彼女に何をしてしまうことか、自分でも恐ろしい。だからむしろ、俺は負けるべ
        きだったのだ賭けを提案したもののあえて外れることを見越して客は男性だったが甘いもので答えたというのにそれなのに―――



        「・・・・・・わかってるわ、なんでも聞く」



        しかし、薫の拗ねたような可愛らしい声に、自分の内側で騒ぎ立てていた理性は完全に奥に押し込められた。



        ―――ああ、そんな安請け合いをして。





        どうなっても知らないよ、と。
        剣心は心のなかでこっそり呟いてから、「約束でござるよ」と、にっこり笑ってみせた。












        4 「襷」へ 続く。