「ね、今日の出稽古、一緒に来てほしいんだけれど・・・・・・」
朝食の支度の途中、薫にそうお願いされた剣心は、内心で「願ったり叶ったり」と手を叩いた。
しかし、それを顔に出したりはせず、いつものように穏やかに笑ってみせる。
「うん、構わないでござるよ。しかし、今日は特別何かあったでござろうか?」
薫は「あるのよ」と笑みを返しながら、手元にある包丁を示してみせる。
「包丁を持ってくるように言われたから、ご飯の支度が終わったら手ぬぐいに包まなきゃ・・・・・・剣心は、襷も持っていったほうがいいかも」
持ち物を確認する薫に、剣心は首を傾げてすこし考えて―――そして、誘われた理由を合点した。
「ああ、干し柿作りでござるな」
正解!と薫が人差し指を立て、剣心はもうそんな時期なのかと季節の移ろいの早さにしみじみと息をつく。
前川道場の庭には見事な柿の木がある。毎年たわわに実をつけるのだが、残念ながらこの木になるのは渋柿だった。と、いうことで、前川家では干し柿
作りが毎年の恒例行事となっており、門下生たちはその日は大事な作業要員となる。そして昨年は剣心も薫と一緒に手伝ったのだった。
「今日は皆、稽古よりもそちらに熱が入るのでござろうな」
「まぁ、たまにはそんな日があってもいいわよね。毎年みんな楽しみにしているもの・・・・・・作るのも食べるのも」
勿論わたしも楽しみだし、と無邪気に笑う薫に、剣心は束の間「下心」を忘れてその笑顔に見とれる。
実のところ、薫からの誘いがなかったとしても、今日は自分から申し出て出稽古に同行するつもりでいたのだ。
それというのも―――
★
「ああ、楠くんならさっき挨拶にきてくれたよ」
「えー?!そうなんですか?!」
前川の言葉に、薫は落胆の声をあげる。
付き添ってきた剣心は、彼女の横で複雑な思いで眉を寄せた。
今日、出稽古に誘われたのを好都合だと思ったのは、もしかしたら昨日東京に戻ってきたという「楠」とやらが、前川道場に挨拶に来るのではと予想して
のことだった。やはり彼は道場を訪ねてきたようだが―――残念ながらと言うべきかどうか、剣心と薫はすれ違ってしまった。
薫は純粋に「懐かしい人物に会いたい」と思っていたことだろうが、剣心は剣心で楠の存在が気になっており、妻の年上の幼馴染である青年がどんな男
なのか見ておきたかった。
それに―――薫と彼が顔を合わせるのが「嫌だな」という思いもあった。だから、牽制の意味もこめて再会の場に同席したいという不純な「下心」もあった。
いや、むしろこちらの気持ちのほうが割合としては大きいかもしれない。
そんなことを考えている自分は、なんて器が小さいのだろう、と。そう思いつつ剣心は、薫に気づかれないようこっそり肩を落とした。
干し柿つくりで采配をふるうのは、主に前川の奥方である。
「まずは柿の実を木からもいでもらいましょうね」と、彼女の指示により門下生の数名が呼び出された。今日は完全に指南ではなく干し柿担当に割り振ら
れたらしい薫も、奥方の後についてゆく。
「一緒に行かないのか?」
弥彦が、首を傾げて剣心に尋ねた。こういう時、お神酒徳利のように薫と一緒に行動するのが常である彼が、珍しいことに今日は道場に残っている。「い
や・・・・・・後で行くでござるよ」と、曖昧に濁す剣心を不思議に思いながら弥彦は稽古の輪に加わったが、その理由はじきに知れた。
剣心はしばらくの間壁際に腰を下ろし、門下生たちが竹刀を振るうのを眺めていたが、やがて前川が指導を年長の青年に譲って一息つくのを見計らって
立ち上がった。
「あの、前川殿」
歩み寄ってきた剣心に、前川は「ん?」と視線を向ける。剣心は声はかけたものの―――それから一瞬躊躇した後、再び口を開く。
「楠殿というのは・・・・・・どんな御仁でござるか?」
その問いに、前川は驚いたように少し目を大きくして、そして、ふっと表情を緩めた。
「楠くんか・・・・・・楠、晶くんというのだがね。まぁ一言でいうと、真面目な性格だよ」
「真面目、でござるか」
あきら、という名前なのか、と。剣心は頭の中で反芻する。下の名前を知ったことで、その青年がちゃんと存在しているということが、よりくっきりと実像をも
って意識される。
「うん、何しろ今どき武者修行に出るくらいだからね。若いながらも腕も器も確かなものなんだが・・・・・・当人が納得しなくてね」
流派を継ぐにはまだまだ腕が未熟である、と。もっと見聞を広めてからという希望を受けて、父親は我が子を送り出した。それが、二年前のことである。
「もともと、二年で帰ってくる予定だったのでござるか?」
「ああ、多少前後はするだろうがそのつもりだと、出立の前に言っているのを聞いたが・・・・・・」
昨日、薫は楠との「約束」について、「二年経ったら帰ってくるって約束してくれたの」と話していた。
しかし、二年という期間は薫ひとりに告げたわけではなく、皆に向けて公称していたらしい。
それでは、やはり―――それとは別に、何かふたりの間で特別に交わした約束があったのではないかと、剣心の胸に疑念がよぎる。
「薫殿とは・・・・・・その」
親しかったのか、と聞こうとして、流石にそれはあからさますぎるかと躊躇する。しかし、前川は年の功で剣心が言いよどんだ理由を察したらしい。「うん、
仲は良かったな」と少々笑いを含んだ声で答えた。
「歳は楠くんのほうが少し上だが、薫くんのことは妹のように思っているんじゃないかね」
「妹、でござるか」
「うん、楠くんは竹を割ったような気質で腕もたつものだから、薫くんは小さい頃から憧れていたようだよ。大きくなったらあんなふうになりたい、と」
そこまで話したところで前川は門下生に呼ばれ、「すまないね、失礼するよ」と言いつつ剣心に背を向けた。
剣心が立ち尽くしていると、ちゃっかり話を聞いていたらしい弥彦がひょいと隣に立つ。
「薫の初恋の相手かー、どんな奴なんだろうな、楠って」
さらりととんでもない発言をぶちかまされて、剣心は目を剥いた。
「いや、弥彦、初恋ではないでござろう。前川殿は『憧れていた』と言っていたのでござるよ?だから・・・・・・」
「チビのときの憧れっていったら、そりゃ初恋なんじゃねーの?そんで『大きくなったら晶さんのお嫁さんになるー』とか言ったりしてさ。よくある話じゃん」
「しかし!初恋の相手は拙者だと、薫殿は確かにそう言っていたでござるよ?!」
うっかり声を大きくしてしまい、門下生たちの視線が一斉に剣心へと集まる。
弥彦は呆れたようにあんぐり口を開けて絶句して――― 一度その口を閉じたかと思うと、すぐさま「そりゃ、単に薫が嘘をついたんだろ」と身も蓋もない台
詞を吐く。
「いや、でも嘘って何故そんな―――」
「お前を喜ばせたかったんだろ?察してやれよそのくらい!」
二十歳近く年下の弥彦にばしっと言い切られて、今度は剣心が言葉を失う。と、そのタイミングでひょこっと薫が道場の戸口から顔を出した。
「剣心ー!皮剥きするから手伝ってー!他にも包丁の使えるひとは、こっちに・・・・・・」
薫はそこまで言ったところで道場にいる面々がいわく言い難い表情で自分に注目していることに気づき、「・・・・・・どうしたの?」と、怪訝そうに首を傾げた。
★
木からもいだ柿の実は、一個一個へたを取って皮を剥いて、焼酎で消毒をする。それに紐をくくりつけて、軒先に干してゆく。
これを流れ作業で行うのだが、まずは包丁を持参した門下生たちが一斉に皮を剥いてゆく。手つきのよい者から危なっかしい者まで「腕前」は様々だった
が、やはりというか何というか、奥方の次に手際よく綺麗に包丁を使うのは剣心だった。
「剣心さんが来てくれるようになってから、作業がはかどるようになって嬉しいわ」と奥方はご機嫌だったが、薫は「ちょっと、女のわたしの立場がなくなって
いる気もするんですが」と渋い顔で呟く。
「あら、でも薫さんも以前から比べるとかなり上手になりましたよ。やっぱり、ご新造さんになると違うものなのねぇ」
「え、そうでしょうか・・・・・・?」
奥方に実感のこもった声でそう言われ、薫は眉間から力を抜いた。そしてくすぐったそうに肩をすくめると、ちらりと剣心のほうを見て照れくさそうに微笑む。
可愛らしい仕草に頬を緩めつつ、剣心はふと、「この恒例の干し柿作りに楠も参加していたのだろうか」と思った。
彼がどんな容姿なのかわからないままに、薫を妹のように可愛がっていたという若者が、こんなふうに彼女と並んで柿の実を剥きながら、お喋りに興じて
笑いあっている様子を想像して―――そんな、不毛としか言いようのない考えを脳内から追い払うべく、剣心はもくもくと手を動かすことに集中し、皮を剥き
続けた。
剣心の働きもあって、柿の実はひとつ残らずきれいに剥かれ、焼酎で拭かれて吊るされて、軒を彩る橙色の簾となった。数週間後には干し柿が完成し
て、稽古の後の門下生たちを喜ばせる甘味となるだろう。
「皆さん、お疲れ様でした。こちらはちゃんと甘い柿ですから、安心して食べてちょうだいね」
そう言いながら奥方が運んできた大きな盆に、年少の門下生たちは歓声を上げて群がる。今日の作業のご褒美として振る舞うため、あらかじめ甘い柿を
用意していたらしい。
奥方が剥いてくれた甘柿を皆でつまむ中、剣心は弥彦がひとり縁側に座っていることに気づいた。
「弥彦、食べないのでござるか?」
「うん、俺はこれがあるから」
剣心が歩み寄ると、弥彦は手に持った柿を示してみせた。干し柿作りの際に一個を抜き取っていたらしい。
「おろ?でもそれは、渋柿なのでは?」
「だと思うだろ?ほら、一口食ってみろよ」
そう言って、弥彦は皮を剥いた柿からひとかけらを包丁で削り、剣心の手に押しつけた。
「・・・・・・甘い、でござるな」
口に入れてみた剣心は、素直に驚きの声を発する。弥彦は「だろ?渋柿の木でも、中には甘い実が混じって生ることがあるんだよ」と得意気に言った。
「ほら、もう一口」
「ああ、かたじけない・・・・・・っ?!」
勧められるままに、もうひとかけらを受け取って口に入れた剣心は、目を白黒させた。うってかわっての渋い味が、口のなか一杯に広がったからだ。
「面白いよなぁ、ひとつの実でも、上の方と下の方とで味が違うんだぜ。こういうのが混じっていることもあるんだよ。昔、母上が教えてくれたんだ」
げほげほと咳きこむ剣心を尻目に、弥彦は柿の「甘い部分」にかぶりつく。「いや、これは一本とられたでござる」と情けなく笑う剣心に、弥彦は柿を頬張り
ながらどこか不機嫌そうな目を向けた。
「・・・・・・お前さ、薫が嘘ついていたとしても、怒るんじゃねーぞ」
「・・・・・・え?」
口のなかの甘い実をごくんと飲み下し、弥彦は子供らしからぬ口調で続けた。
「あいつが『初恋は剣心』だって嘘をついたのはさ、お前を喜ばせたいってこともあるだろうけど・・・・・・お前に辛い思いをしてほしくないからなんじゃねーか
な」
「・・・・・・拙者が、辛い?」
意味がわからず鸚鵡返しに呟く剣心に、弥彦は「だから」とじれったそうに続けた。
「去年、お前から昔の話を聞いたとき・・・・・・薫、相当辛かった筈だろ?だからあいつ、昔好きだった男が別にいたことをお前が知ったら、お前が同じ思いを
するんじゃないかって思って・・・・・・それで、嘘ついたんじゃねーのか?」
昔の話とはつまり、巴と彼女にまつわる過去の話のことだろう。
確かに、あの時俺は、薫にとっては酷な告白をした。
自分でも、「この過去を打ち明けることで、薫に嫌われるのではないか」と内心怯えていたくらいだ。しかし―――
「いや、でもそれとこれとは話が違うでござろう?この度はただ、薫殿に子供の頃好きだった人がいたかもしれないという、それだけのことで・・・・・・」
「結婚でも初恋でも、好きな奴がいたことにかわりはないだろ? 現にお前、充分衝撃受けてるじゃん」
まったくもってそのとおりで―――弥彦に指摘されて、自分が動揺していることを改めて自覚した剣心は、返す言葉を失う。
弥彦は「そうなることを予想してたから、薫も言いたくなかったんじゃねーの?」と言いながら、縁側からぴょんと飛び降りた。
「なあに?わたしがどうかした?」
門下生の輪の中にいた薫が、弥彦の方を見て首を傾げた。弥彦はそれには答えずに柿の実をひとかけら削り、「食うか?」と差し出す。
勧められるままに剣心と同じ轍を踏んだ薫は、「騙したわねー!」と叫んで弥彦の頭に拳固をお見舞いしようとし、弥彦はそれをひょいとかわす。
突如始まった師弟喧嘩に笑いが起こったが、周りの門下生たちは大半が薫の側についた。弥彦は逃げようとしたところを数名の若者に取り押さえられ、
薫は彼の口に「お返しよ!」と言って柿の渋い欠片をねじこんだ。
「多勢に無勢って卑怯だろー!」
今度は弥彦が情けない声をあげ、再び明るい笑いがはじける。剣心は縁側のそばに立ち尽くし、彼らが賑やかに騒ぐ様子を無言で眺めていた。
ふいに、一陣の冷たい風が吹く。
収穫を終えた木の、高いところに残された木守りの柿が、所帯なさげにふるりと揺れた。
3 「賭け」へ 続く。