「心配だよ、君をひとり置いてゆくのは」
大丈夫です。父の流派はわたしが守ると決めたんですから、ちゃんとひとりでもやっていきます。
親戚のひとたちも皆、それで納得してくれたし・・・・・・
「君のことをろくに知らない遠縁のだろう?今の君を見ればわかるよ、強がって必死に気を張っている顔だ。無理をしている顔だよ」
・・・・・・でも、強がりでもしないと、何処かにお嫁にやられそうだったんですもの。
「冗談じゃない、そんなのは断固反対だ。君みたいな娘は、ちゃんと好いたひとのところに嫁ぐべきだ」
そうですね、そうでないとこんなはねっかえり、すぐに離縁させられちゃいそう。
「そこも、君のいいところだと思うんだけどね」
・・・・・・ありがとうございます。そんなふうに言ってくれるの、あなただけだわ。
「・・・・・・ひとつ、約束をしてくれないか」
え?
「一年・・・・・・いや、二年後には必ず東京に帰ってくるよ。だから、その時には―――」
★
「・・・・・・薫殿?」
隣に横たわる妻に向かって、剣心は気遣わしげに呼びかける。
大きな黒い瞳はぱっちりと開いている。と、いうことは起きているのだろう。
しかし、何故か彼女は良人の「おはよう」の声に反応せず、ぼうっと虚空を見つめたままだ。
「・・・・・・薫?」
ふっ、と。目の前にかざされた手が前髪をかすめて、薫ははっとしてまばたきをした。
「あ・・・・・・けん、しん」
「おはよう、大丈夫でござるか?」
「おはよう・・・・・・え?大丈夫って、何が?」
どうやら、先程までの呼びかけは全く耳に届いていなかったらしい。きょとんとした顔で訊いてくる薫の頬に触れながら、剣心は「目を開けたまま眠ってい
るのかと思ったでござるよ」と言う。寝ぼけていた、というのとは、少し様子が違っていたようだが―――
「・・・・・・夢を、見ていたの」
「夢?」
「ちょっと・・・・・・懐かしいひとが出てきたものだから、びっくりしちゃって」
それでぼうっとしちゃったのね、と薫は照れくさげに笑う。剣心はそんな彼女に微笑みを返して、そのまま小さく口づけた。
「明け方に見る夢は正夢になると、薫殿、以前言っていたでござるな」
唇の上で囁くように言われて、薫は目を閉じながら夢の内容を反芻する。
ああ、そういえば。あれから二年経ったんだわ―――
★
その日の昼時。剣心と薫が赤べこの小座敷で牛鍋をつついていると、「こんにちは」と声が降ってきた。
見ると、そこにいたのは細君を伴った元門下生の青年である。
「わ、柳くん!おひさしぶり!」
「祝言以来でござるなぁ」
「はい、その節は足を運んでくださって、ありがとうございました!」
柳というその青年は、薫の父親が生前目をかけていた門下生で、今は別の指導者のもと剣を学んでいる。彼は剣心と薫の婚礼の翌月に祝言を挙げてお
り、「夫婦」としては一月だけ先輩の剣心たちも祝いに駆けつけたのだった。久しぶりに顔を合わせた二組の夫婦が互いに近況を報告しあうなか、剣心は
ふと、昨年のことを思い出した。
昨年、まだ薫に想いを告げていなかった頃。こんなふうにこの青年に、街で偶然会ったことがあった。
当時、自分は「いつか薫のもとを去らねばならない」と考えていた。そして「自分がいなくなったあと、きっと彼女はこんな善良な青年と所帯を持つのだろう
な」などと思った。彼女には自分が消えた後も幸せでいてほしい、と望みながらも、若干の―――いや、相当の嫉妬の念とともに。
今にして思うと、酷く勝手な想像であった。もし薫が知ったものなら、「馬鹿じゃないの?!」と憤慨するような。
大体において、薫は柳に対して微塵もそういった感情を抱いてはいなかったのだし。だって、彼女は初恋の相手は俺だと言ってくれて―――
「それにしても、今日は久しぶりのひとによく会う日だなぁ・・・・・・実はさっき、楠さんに会ったんですよ」
「・・・・・・え?」
剣心にとっては、聞き慣れない名前だった。
一方、その名に反応した薫の声は短く、しかし驚きに満ちていた。
「楠さん・・・・・・東京に、戻ってきたの?」
「はい、今日到着したそうで・・・・・・道端で旅装の楠さんにばったり会って、びっくりしましたよ」
剣心はふたりの会話から、「長く留守にしていた知人なのだな」と察したが、薫の顔を見て、おや、と思った。知己の無事の便りを聞いたにしては、ずいぶ
んと驚いているような。それに―――
「相変わらず元気そうでしたよ。きっと近いうちに神谷道場にも挨拶に行かれるんじゃないでしょうか・・・・・・そうそう、薫さんのことも話していたんですが」
柳はすこし首をかしげながら、言葉を続けた。
「『約束、覚えているだろうか』って・・・・・・そう言ってましたよ」
何か約束していたんですか?と柳に尋ねられ、薫は一拍置いて「・・・・・・あ、ええ、ちょっと」と答えた。
そこで妙が、「お待たせしましたぁ」と柳夫妻ににこやかに声をかける。
「お席が空きましたんで、こちらへどうぞー」
「ああ、それでは薫さん剣心さん、また・・・・・・」
柳と細君の背中を見送った剣心は、薫へと視線を戻した。そして躊躇いがちに、「薫殿?」と小さく呼びかける。
「・・・・・・あ、ごめんね。剣心、なぁに?」
「・・・・・・ああ、いや・・・・・・誰か、知り合いの話をしているのかと思って」
確か、楠、と言っていた。
その人物が「戻ってきた」と聞いたときの、言葉を一瞬忘れたかのような薫の驚きようが不思議だった。
それに―――
「ずいぶんと喜んでいるようだから、親しい御仁なのかと思って」
そう、声に出してはしゃいだりはしていないが、彼女はひどく喜んでいる。こうしている今も、ぼうっとしてどこか別のところを見るような目をして、心ここにあ
らずという風情になるくらいに。
「・・・・・・そうなの、喜ぶのは勿論なんだけど・・・・・・驚いちゃって」
薫は剣心の声に、ようやく現へと呼び戻されたかのように反応する。ぼんやり虚空を眺めていた瞳が、きらきらとした輝きをもって剣心の方へと向けられ
た。
「ねぇ剣心、今朝わたしが、夢に懐かしいひとが出てきたって言ったの覚えてる?」
少し、興奮した様子で聞いてくる薫に、剣心は「ああ、覚えているでござるよ」と頷いてみせる。
「それが、楠さんだったの!」
微塵の邪気なく、実に嬉しそうに、薫はそう言い切った。
しかし剣心は、その明るい声に横っ面をひっぱたかれたような衝撃を受けた。
それはつまり、俺の隣で眠りながら、俺ではない他の男の夢を見ていたということか。
たかが、夢である。
しかも、彼女の様子から察するに、後ろ暗いところなど何もない健全なただ懐かしいだけの夢なのだろう。だから、素直に「それはちょっと妬けるでござる
なぁ」とでも返せばよかったのかもしれない。
けれど剣心は、「薫が別の男の夢を見た」というだけで、突き上げるように嫉妬心がわきあがってきたことに―――たかが夢に対して、こんなに強く悋気を
起こしている事実に、自分自身でも驚いてしまった。
「・・・・・・そうだったんでござるか、それは確かに、凄い偶然でござるな」
驚いているがゆえに、剣心は反射的に本心を包み隠した。
口をついて出たのは、そんな当たり障りのない同意の言葉だった。
「でしょ?明け方の夢は正夢って言うけれど、まさにそのとおりになったのよ!こんな事ってあるものなのねぇ」
「ところで薫殿、楠殿とはどのような知り合いなのでござるか?」
その、至極まっとうな質問に、薫は「あ・・・・・・やだ、はしゃいじゃってごめんね。剣心は知らないんだったもんね」と言って照れくさげに笑った。
それも、彼女らしいごく普通の反応と言えるのだが、この時に限っては薫の物言いが何故か癇に触れた。
彼女に対して、そんなふうに感じたのは初めてだった。
「楠さんはね、楠誠心流の跡取りさんなの」
止まっていた箸をふたたび進めながら、薫は楠氏についての説明を始めた。
それははじめて耳にする流派の名前で、「出稽古には行っていない道場だな」と、剣心は心の中で呟く。
「わたしより、年は6つ上でね。でも、他の流派のお兄さんやお姉さんたちと一緒に子供の頃からよく遊んでもらっていたの」
だから、幼馴染といえなくもないかしら、と笑う薫に剣心も笑みを返したが、内心では「子供の頃の薫を知っているなんてうらやましい」と考えていた。幼い
頃の彼女もきっと、明るくて元気で笑顔がとびきり可愛くて―――是非とも見てみたいものだがそれはどう足掻いても無理な話である。
「数年前に結婚して、お父様もそろそろ跡目を譲ろうかと考えていたんだけれど・・・・・・」
ああ、なんだ妻帯者なのか、と。剣心は少しだけ安心した。
「でもね、楠さんある日突然、旅に出ちゃったの」
「旅、でござるか?」
なんとも突飛な展開に、剣心は目を白黒させる。薫は「その、旅の理由がふるっているのよ」と、彼のほうに身を乗り出した。
「どんな理由でござる?」
「武者修行」
「おろ、それはまた・・・・・・」
古めかしいことを、とは流石に失礼かと思って口には出さなかったが、とにかく剣心は呆気にとられた。その反応は予想どおりだったのだろう、薫は「今時
めずらしいわよねぇ」と、ころころと笑った。たしかに、武者修行など江戸の世ならまだしも明治となった今では、講談や読物の中でしかなかなかお目にか
かれない言葉である。
「でも、楠さん、真面目なひとだから・・・・・・今の自分では流派を継ぐには力不足だと思ったらしいのね。だから、納得行くまで諸国をまわって修行し
て・・・・・・もっと世間を知って、もっと強くなってから、お父様の後を継ごうと決めたそうなの」
それは、たしかに生真面目な性格といえるだろう。しかし、話を聞く限り、彼は祝言を挙げて間もない細君を置いて、旅に出たということだ。それが剣心とし
ては腑に落ちなかった。いくら流派の為とはいえ、それではあまりに細君が可哀想ではないか俺だったら絶対に薫と離れたくはないからもし旅に出るとし
たら彼女も一緒に連れて―――
「それが、二年前のことだったの」
その声に、剣心は想像をめぐらすのを中断する。二年前ということは、つまり。
剣心の視線を受けて、薫は小さく首を縦に動かした。
「そう、わたしの父さんが亡くなった年だったわ」
剣心と出逢う、前の年。父ひとり子ひとりだった薫は、父親を戦争で亡くし、ひとりぼっちになってしまった。
「あの頃はわたし、相当落ち込んでいたから。楠さんにもかなり気遣われちゃって、わたしをこのまま置いていくのが心配だって、さんざん言われたっけな
ぁ」
薫は「情けないわよねぇ」と当時の自分を恥じ入るように照れくさげに笑ったが、剣心はまたしても心が波立った。いやだって、そいつは妻がある身だろう
にその妻を置いて旅に行こうとしているというのに幼馴染の娘を心配している場合ではないだろうに何故そんなに―――
「ねぇ、剣心覚えてる?」
「―――え?」
ぐるぐるとそんなことを考えていた剣心は、薫の明るい声に顔を上げた。
「去年の夏、みんなで京都から帰ってきたあとで、わたしが父さんと母さんの話をしたこと」
剣心は、ふっと表情をゆるめて「勿論、覚えているでござるよ」と答えた。
あれは、志々雄との闘いに幕が下りて、東京に戻ってきてすぐのことだった。
剣心と薫、そして弥彦は皆でしばらく留守にしていた道場の掃除と、伸び放題だった庭の草むしりをした。
その日、道場でふたりきりになったとき。薫は剣心に、両親の思い出と、父親が亡くなってから道場を継ごうと決めるまでの経緯を話したのだった。
「あの時・・・・・・剣心、わたしのこと『強がった』って、言ってたわよね」
「うん、それも、覚えているよ」
父親が亡くなった当時、遠縁の者たちからは「道場を閉めてはどうか」と勧められたりもしたらしい。しかし薫は頑として譲らず、また気丈にふるまってみせ
て、彼らに「この調子ならば大丈夫か」と思わせて、道場を継ぐことを押し切ってしまった。
それを聞いた剣心は「ずいぶんと、強がったんでござるな」という感想を漏らした。まだ十代の少女が、突然家族を失ってひとりぼっちになって。相当の衝
撃を受けただろうに。悲しんだことだろうに。それなのに、懸命に強くあろうとして道場を守ろうとした薫のことを、改めて、いとおしく感じて。改めて、これか
らは俺が彼女の支えになろうと、そう思って―――
「実はね、楠さんにも、同じことを言われたことがあったの」
その言葉に、剣心の顎がかくんと下に落ちた。
「・・・・・・え?」
「旅に出る前にね、強がってる顔をしてる、心配だって言われて。お嫁に行かされそうになった事も、断固反対だって言ってくれて・・・・・・これも、剣心とお
んなじね」
薫は無邪気に笑ったが、剣心は今度こそ心穏やかではいられなかった。
あの時と同じ言葉を、俺よりはやく、彼は彼女に贈っていた。
なんというか―――先を越された、という気分になった。
「だからわたし、あの時の剣心の言葉が、とっても嬉しかったの」
良人の動揺には気づかぬまま、薫はふんわりと笑みを浮かべながら言葉をつむぐ。
「子供の頃からの、長いつきあいのひとから言われたのと同じことを、出逢って一年もしない頃のあなたが言ってくれたのよ?なんていうか・・・・・・剣心は
ほんとに、ちゃんとわたしのことを見ててくれて、わたしの事を考えてくれているんだなぁって思って・・・・・・嬉しかったの」
そして薫は、「あの時も言ったけれど・・・・・・ありがとう、剣心」と笑顔で言った。しかし剣心はそれに、「あ、いや、拙者は別に」という熱のこもらない返事し
かできなかった。
子供の頃からの、長いつきあいだという、年上の男性。
旅に出る前のやりとりから察するに、薫と彼はかなり親しかったのだろう。
俺と同じ台詞を吐いたという彼。
つまり彼は俺と同じような想いで薫を見つめていたのではなかろうか。細君がいる身でありながら―――?
剣心は、にこにこと美味しそうに、牛鍋をつつくのを再開した薫の顔をじっと見る。
彼女は、どうだったんだろう。
その彼に、「年上の友人」以上の感情を抱いていたりはしなかったのだろうか。
いや、でも薫は―――この夏に教えてくれたではないか。「剣心がわたしの初恋なの」と。
「・・・・・・薫殿」
いささか煮えすぎた肉を口に運びつつ、剣心は出来る限り自然な声音になるよう気をつけながら、彼女に話しかけた。え?と薫が手元から剣心のほうへと
視線をあげる。
「先程言っていた、『約束』とは・・・・・・どんな約束をしたんでござるか?」
薫はぱちぱちとまばたきを繰り返してから、こくん、と口のなかにあった肉を飲み込んだ。
「あのね、旅に出る前に、『二年経ったら戻ってくる』って、そう約束してくれたの」
・・・・・・なるほど。
それは納得できないこともないが、確か柳は「約束、覚えているだろうか」と言ってはいなかったか。
あの言い方だとむしろ―――薫と楠とやらの間で交わされた、彼らしか知り得ない約束があったようにも受け取れるのだが。
「そうでござるか。では、約束はちゃんと守られたのでござるな」
剣心は、そんな疑念は表に出さずににっこりと笑ってみせた。
赤べこの牛鍋はいつもどおり美味しかった筈なのだが、今日に限っては味などほとんどわからなかった。
2 「干し柿」へ 続く。