幸福の情景




足元に、柔らかい何かがまとわりついた。


「おろ?」うっかり蹴飛ばしそうになって、慌てて剣心は後ずさった。
そこにいたのは、小さな子供―――つい最近まで「赤ん坊」と呼ばれていたくらいの幼子だった。


「わ、可愛い」
薫がしゃがみこむと、子供は手をのばして薫の髪に触れ、きゃらきゃら笑う。浅黄色の着物を着た、男の子のようだ。
「なんだ?迷子かよ」
左之助が首を傾げる。弥彦が手伝う赤べこで夕食をとった三人は、道端に座り込んでいる子供を前に顔を見合わせた。
やっと歩けるようになったくらいの子供―――つまりは、まだひとりで歩かせるのには早すぎるくらいの年齢だ。周りを見回しても、親らしき者は見当たらない。
「何かあったのかしら」
薫が抱き上げても子供はむずがりもせず、大人しく彼女の腕におさまった。
「捜してみようぜ、そのへんに親がいるかも」
「では薫殿は・・・・・・その子とそこで待っていてくれぬか?」
「了解!お母さんたちも捜しにくるかもしれないものね」
薫は子供の小さな手をとって、ひらひらと剣心たちにふってみせる。行ってらっしゃい、という意味らしい。

薄暮の雑踏の中に踏み出した剣心は、少し離れてからなんとなく、振り返って薫を見た。
ゆらゆらと腕に抱いた子供を優しく揺らしながら、なにか話しかけている。

彼女の柔らかい表情に、剣心の目が自然細くなる。子供を抱いた薫の姿はとても自然で、絵になるものだった。
その絵に題名をつけるなら、「平穏」とか「幸福」だろうか。


自分の人生には縁遠かった言葉だな、と思いつつ、剣心は踵を返した。








子供の母親は案外簡単に見つかった。

母親は少し前に、赤べこからそう遠くない蕎麦屋にはいったのだがそこで貧血を起こして倒れてしまい、店の者に看病をされているうち、連れていた子供が勝手に外に出てしまったらしい。
ひたすら恐縮する母親はまだ店の座敷で横になったままで、左之助は彼女に団扇で風をおくってやっている。
「俺は奥さんを看てるから、嬢ちゃんを呼んできなよ」
妙にかいがいしいなと剣心は思ったが、その母親はまだとても若く、黒目がちの清楚な美人だったので成程と納得する。


剣心が店を出て、赤べこの店先に戻ると、薫は子供を抱いたまま初老の夫婦と立ち話をしていた。知り合いだろうかと思っていたら薫も剣心に気づく。

「おかえりなさい!見つかったの?」
薫は夫婦を剣心に紹介した。夫妻の息子が以前道場の門弟だったということらしい。
夫のほうが人の良さそうな顔でにこにこと剣心に挨拶をする。
「いやぁ、お嬢さんにはすっかり無沙汰をいたしまして、失礼しました。お祝いもいたしませんで」
剣心を紹介しようとした薫は、機先を制されてきょとんとする。
「知りませんでしたよ、いつの間に御結婚されたんですか?跡取りまでいらっしゃるなら、これで道場も安泰ですな」


剣心と薫は一瞬、ぽかんと狐につままれたような顔になってから、それから二人同時に真っ赤に頬を染め、なぜかしどろもどろで「違うんですえーとこの子は実は」と弁解を始めた。



夫婦に挨拶をして、ふたりは左之助と母親の待つ蕎麦屋へと向かった。

「・・・・・・間違えられちゃったわね」
「そうでござるな」
なんとなく、照れくさいような、くすぐったいような感覚に、二人は言葉少なになる。
腕の中の子供は、薫の髪を飽きずにおもちゃにしていた。


「・・・・・・嬉しいな」



ぽつり、と薫が漏らした呟きを剣心は聞き逃さなかった。驚いたように彼女の顔を見ると、薫はほんのり染まった頬のまま俯いて、剣心の方を見ずにいる。というか見られないのかもしれない。
「お、嬢ちゃんこっちこっち!」
蕎麦屋の店先から、何も知らない左之助の明るい声が響いた。




「じゃあ俺は奥さんを送って行くから」
左之助と、子供を抱いた母親の背中を見送りながら薫は「あんな女性が好みなのかぁ」と何となく新しい発見をしたような気になっていた。

「・・・・・・拙者も」
独り言めいた呟きに、薫は「え」と隣に立つ剣心を見た。


「拙者も、嬉しかった」



その言葉の意味を正確に理解して、薫の目が大きくなる。一拍遅れて、再び頬が赤くなって、あわてて剣心から目をそらす。

少しの間、無言で二人は立ち尽くしていたが、やがて剣心がそっと右手を薫にむかって伸ばした。
こつん、と薫の左手の甲に、自分のそれを軽くぶつける。


「・・・・・・帰ろうか」
そして、彼女の白い手を包むように握った。

「うんっ」


柔らかい笑顔で、薫が頷いた。
自分に向けられたその微笑みは、先程幼子に見せていたのと、まったく同じ表情。


「平穏」とか「幸福」とか、縁遠い言葉だと思っていたけれど、実はそうでもないのかもしれない。
隣に彼女がいる。それだけでそれらの言葉はたやすく自分のものになる。




花の香る夕べ、寄り添うように歩く二人を、薄紫の夕闇の空に散りばめられた星々が優しく照らしていた。







モドル。