今年の、いちばん。









        「今年、いちばん楽しかったことは?」





        髪を梳かしながら、薫はほんの少しだけ考える。
        が、答えはすぐに浮かんだ。


        「稽古!」
        「稽古?」
        「うん、今年は新しい門下生の子たちが増えたから・・・・・・あの子たちに稽古をつけるのが、いちばん楽しかったことだなぁ」

        それはいかにも彼女らしい答えだった。
        鏡に映る薫のいきいきとした笑顔に、布団に寝転がって頬杖をつく剣心は、つい目を細める。



        「じゃあ、今年いちばん美味しかったもの」
        「えーとね・・・・・・黒豆のぜんざい。こばと屋さんで食べたやつ」
        「ああ・・・・・・あったでござるな、覚えてるよ」

        確か、普段の品書きにはない品で。たまたま黒豆が沢山あったから、ためしに作ってみたとかで―――
        「あれ美味しかったなぁ、またやってくれないかしら・・・・・・あとね、剣心が作ってくれたのでいちばん美味しかったのは、卵雑炊。わたしが風邪をひいた
        ときの」
        「それは、風邪だったから余計にそう感じただけでは?」
        「そんなことないわよー、ほんとに美味しかったもの。ね、また作って?」
        「それは勿論・・・・・・拙者は、遅く帰ってきたときに薫殿が作ってくれたお茶漬け。あれが美味しかった」


        鏡越しに、薫は剣心に向かって眉を寄せた。そして申し訳なさそうに「・・・・・・気を遣わなくていいのよ?」と小さな声で言う。剣心は身を起こして布団の
        上に座り直して、真面目な顔で反論する。
        「いや、ほんとに美味しかったでござるよ?」
        「でも、それこそあの時は、凄くお腹がすいていたからじゃないの・・・・・・?」
        「それは確かにそうでござったが」
        「そこは否定しないのね・・・・・・あの日はねぇ、自分でも信じられないくらい玉子が上手に焼けたのよー・・・・・・なのに剣心が帰ってくる前に弥彦に食べ
        尽くされちゃって」

        当時の怒りがよみがえってしまったのか、薫は「思い出しても腹が立つわ」とぶつぶつ呟き出す。剣心は膝で立ち上がり、背後から薫に近づくと、宥める
        ようにふわりと抱きしめた。
        「まぁ、また挑戦すればよいでござろう」
        「しているんだけど・・・・・・どうしてもあれ以上のものが作れないのよねぇ」
        ため息をつく薫の手からするりと櫛を取り上げて、鏡台の上に置く。そして剣心は、薫を腕に抱いたまま布団の上に倒れこんだ。


        「や、ちょっと待って・・・・・・まだ髪、編んでないのに」
        「編んだって、どうせすぐにぐちゃぐちゃになるでござるよ」


        その一言に、薫は一瞬言葉を失い―――そして、絡みついた腕をつつきながら言った。
        「・・・・・・今年、いちばんびっくりしたこと」
        「ん?」
        「剣心が、意外とそういうことを言うのには、びっくりしたわ・・・・・・」
        剣心はきょとんとして、それから自分の言動を振り返って思い出してみる。

        「・・・・・・昨年から言っていた気もするが」
        「頻度の話よ! ぜったい今年になってからのほうが沢山言ってるー!」
        指で、首のまわりの髪をかき分けて、剣心は薫の細いうなじを露わにさせる。僅かに血がのぼって赤く染まったそこに、後ろから口づけた。今年、幾度も
        そうしたように。



        「拙者は、薫殿と夫婦になれたことに、いちばんびっくりした」
        「・・・・・・え? それって、『びっくりしたこと』なの?」


        薫は身体をよじって反転させ、正面から剣心の顔をのぞきこんで不思議そうに尋ねた。
        「びっくりしたでござるよ。まず、誰かと一緒に生きていきたいと思うことなど―――二度とないと思っていたし」


        誰かを愛することなど、もう二度とない筈だった。
        なのに、昨年この街で薫に出会って。気がつけば、どうしようもないくらい彼女のことを好きになっていて―――そんな自分に、自分自身でも驚いた。

        「祝言を挙げて、沢山のひとに祝福されたことも、なんだか夢を見ているみたいで信じられないくらいだったし、それに・・・・・・」
        「それに?」
        続きを促す薫の肩に手をかけ、仰向けに敷布に押し付ける。覆いかぶさって、柔らかな唇に自分のそれを重ねる。



        「・・・・・・薫殿の花嫁姿があんまり綺麗すぎて、びっくりしたし」



        触れ合った唇の上で囁くと、ぴく、と薫の身体が震えるのがわかった。それに気づかないふりをして、深く口づける。こんなこと、まともに正面から目を見
        て言えるわけがないから―――つまり、これは照れ隠しだ。
        薫がそろそろと腕を伸ばし、華奢な指ですがりついてくるのがわかる。その感触が愛おしくて、繰り返し唇に触れる。

        「・・・・・・ねぇ」
        やがて、苦しげな息とともに、薫が掠れた声を漏らした。
        「それって・・・・・・びっくりしたことじゃなくて、『びっくりするほど嬉しかったこと』じゃないかしら?」
        その指摘に、剣心は目をみはって薫の顔を見つめ、そして、口許をほころばせる。
        「確かに、そうでござるな。びっくりするほど嬉しかった」
        「ね? だって、わたしもそうだったもの」


        微笑んだ薫の瞳は熱っぽく潤んでいて、剣心は祝言のときの彼女を思い出した。
        誓いの杯を受けた瞬間、喜びに溢れた涙が頬をすべり、それはとてもとても、綺麗だった。

        あれは立春の頃。年が明けたら、あっという間に一年が経つ。
        けれども、あの日の記憶はまるで昨日のことのように鮮やかで。間違いなく今年でいちばん嬉しくて―――いちばん思い出深い日だ。



        「今年いちばん、幸せだったのも・・・・・・やっぱり、祝言の日?」
        小さな顎を辿って、剣心の唇が首筋に柔らかく吸いつき、歯を立てる。薫は微かに声を漏らして、白い喉を反らせた。
        「いや、それは・・・・・・今日でござるな」
        「え、今日・・・・・・なの?」

        繰り返される甘い刺激に目許を紅く染めながら、聞き返す。
        今日はそんな、特別な日ではなかった。明治十二年も残りあと数日、暮れの気ぜわしさに背中を押されるようにして新年を迎える準備を進めた、ごくご
        く普通の一日だったが―――


        「普通の日を、普通に終えられるのが、いちばん幸せでござるよ」


        何事もなく一日が始まり、何事もなく一日を終えられること。
        今ではそれがすっかり「普通」になったが、そこにたどり着くまでの、なんと長かったことか。

        白刃の下、生命を削るようにして生きてきたあの頃。生きて、その日を終えられることが僥倖であった。
        そんな中で、幸せも手にしたけれど、それは薄氷のように儚く消えてしまった。



        幸せな時間はいつか終わるものだと思っていた。そんなもの、長く続くわけがないと。でも―――



        ぎゅ、と。細い腕が下から剣心の首に巻きつき、抱きしめられた。
        「・・・・・・薫?」
        「うん、ほんとね・・・・・・剣心の言うとおりだわ」
        指が、髪の中に差し入れられて、くすぐるように撫でてくる。心地よくて、剣心は薫の肩口に顔をうずめたまま目を閉じる。

        「わたしもね、なんでもない日でも、剣心のご飯が美味しかっただけで幸せだなーって感じるし、逆にご飯が美味しくできて、それを剣心に食べてもらえ
        たときもやっぱり幸せだし・・・・・・」

        剣心の髪を撫でながら、薫は「幸せな日」の例を次々挙げてゆく。
        それはどれも、何気ない一日の中にある、ごく普通の出来事ばかり。

        「嬉しかったことを剣心に報告して一緒に喜んでもらったり、嫌なことがあっても剣心が話を聞いてくれたら、それで幸せな気分になれちゃうし・・・・・・」
        ぎゅう、と頭を抱え込む腕に、力がこもる。



        「なんだか、凄いわね。わたしの幸せって、全部剣心につながっているんだわ」



        大発見をした、というふうに、薫の声が弾んだ。
        剣心は、絡みつく腕を首から外して頭を起こし、薫を見下ろす。
        きらきらと輝く瞳がまっすぐこちらを見つめていたが―――剣心は、おもむろに薫の寝間着の袷を掴むと、ぐいっと左右に押し開いた。


        「きゃぁっ!」
        「薫殿、ずるい」
        「へ? な、何が・・・・・・?」
        「拙者も、同じことを言おうとしていたのに、先を越された」
        「やっ・・・・・・ど、どっちだっていいじゃないのー! そんなことー!」
        「よくない」

        子供じみた不平ともに襲いかかってきた剣心を、しかし薫は拒まなかった。
        きつく瞳を閉じて、彼を感じながら。彼のすべてを受けとめたくて、呼吸も鼓動も体温もすべてひとつに混じってしまいたくて。
        愛撫に力が抜けてしまいそうになる腕を必死に伸ばして、剣心の背にすがりつく。


        「ね、ぇ・・・・・・」
        重ねた身体の下、彼が言おうとしていた「同じこと」を確認するため、薫は震える唇で喘ぐようにして言葉をつむいだ。
        「剣心の幸せも・・・・・・わたしに、つながってる・・・・・・?」
        「・・・・・・もちろん」


        一緒に日常を暮らす一日一日が、一瞬一瞬が。そのまま、幸せにつながっている。
        と、言うよりは、むしろ―――




        「むしろ、薫殿が、拙者の『幸せ』そのものだ」




        これもやはり、かなり気恥ずかしい告白だったので―――
        彼女が瞳を閉じたままでいてくれてよかった、と。薫を抱きながら剣心は思った。













        君を好きになるまでは、幸せな時間はいつか終わるものだと思っていた。長く続くものではないと思っていた。
        けれど、今は君がいてくれるから、「今年いちばん幸せだったのは?」と訊かれたら、迷わず「今日」だと答えられる。


        明日また同じ質問をされても、明けて次の年に問われても。そのまた次の年、何年先でも―――
        「今日がいちばん」と、そう答えよう。



        君が、隣にいてくれるなら。


















        (了)

 

                                                                                         2012.12.29








        モドル。