言祝ぎ ことほぎ
「お天道様まで、お祝いしているみたいですねぇ」
「そうやねぇ」
そんな声が、背中のほうに聞こえて、遠ざかる。
台所を手伝いに来てくれた、妙や近所の女性達のものだろう。本当にありがたいことだなぁと同意しながら、剣心は縁側から空を見上げる。
立春を迎えたとはいえ、まだ油断すると雪も降りかねない季節である。にもかかわらず、今日は暦を繰り上げたような、春めいた陽気となった。空は水
色に晴れ渡り、やわらかに陽光がふりそそぐ。まさに、慶事にふさわしい日和と言えよう。
それは、何よりなのだが。
縁側に、ひとりぽつんと座る剣心は、そわそわと落ち着かない様子で、袴の膝に乗せた手を開いたり閉じたりしてみる。
時折、振り向いて首を伸ばして、居間の向こうをのぞきこんでみるのだが、それで襖が透けて薫のいる部屋が見えるわけでもない。わかっていても、そ
の動作を繰り返さずにはいられなかった。
「どうした、随分と暇そうだな」
ふと、庭に背の高い影が差し、剣心はそちらに目をやった。
「おろ、蒼紫。着いたのでござるか」
そこにいたのは、数ヶ月ぶりに会う顔である。
かつて敵であったその男は、相変わらずの無表情を崩さぬまま、「この度は、おめでとう存ずる」と頭を下げた。そんな型通りの挨拶が彼の口から出る
のがなんだか可笑しくて、また改まってそう言われるのを気恥ずかしく思いながらも、剣心は「遠路はるばる、かたじけないでござる」と返礼する。
「祝言を挙げる」と、葵屋に報告の便りを出したときは、まさか速攻で「祝いに行きます、宿の手配をよろしく」と返事が来るとは思わなかったので驚いた。
この一年、東京と京都を何度も往復している蒼紫と操には頭が下がるが、目の前にいる蒼紫は、先に宿に寄ったらしく既に旅装を解いており、その顔か
らは長旅の疲れなど微塵も感じられない。彼と、そして操にとっては、東京までの距離など大して苦にはならないのかもしれない。
ともあれ、婚礼の客に相応しい服装に着替えた蒼紫は、御召縮緬の着物に紋の入った羽織を品良く着こなし、いかにも「名だたる料亭の若旦那」といっ
た押し出しである。ただし、料亭の若旦那にしてはいささか眼光が鋭すぎるようではあるが。
「操殿は?」
「まずは、新婦の晴れ姿を見たいそうだ」
なるほど操殿らしい、と剣心は笑った。若い娘である操にとって、祝言で一番楽しみなのは花嫁衣装を間近で見られることであろう。と、なれば勝手知っ
たる道場である。到着するなり、すぐに薫の部屋に直行したのだろう。今頃、白無垢姿の薫を見て、歓声を上げているのかもしれない。
「ところで、新郎がこんな所にいていいのか」
「いやぁ・・・・・・それが、今はちょうど暇な時間でな」
今日の祝言のために、昨日のうちに家中をぴかぴかに磨き上げた。今朝は早起きをし、手伝いをしてくれる者たちも朝から来てくれた。新郎新婦はそれ
ぞれ、礼服を着付けられ支度を始めたが、当然、花嫁のほうが髪を結ったり化粧をしたりと時間がかかる。先に準備が整った剣心は、今の時間は特に
することもなく、縁側に座って暇をもてあましていた。
祝いの客たちが来るのは午になってからだろうし、話相手になってくれそうな弥彦と燕も、現在は晴れ着に着替えている最中である。
「ただ座っているのもなんだから、台所を手伝おうとして行ってみたら、新郎がそんなことをするものではないと追い返されてしまったでござるよ」
せっかくの紋服を汚したりしたらえらいことだ、というのが、台所を任された女性たちの言い分だった。それはまったくの正論なので、すごすごと退散する
しかなかった。
「手は足りているだろうから、お前が働く必要もないだろう」
蒼紫は、道場全体に満ちた賑やかな気配を察しながら、こともなげに言った。その台詞に、剣心は「まったく、ありがたいことでござるなぁ」と目を細める。
わざわざ京都から来てくれた蒼紫たちも勿論だが、今日の祝言のために大勢のひとが準備を手伝ってくれて、力を貸してくれた。
「最初は、誰かに立ち会ってもらって、ふたりで誓いを立てるくらいの、ささやかな祝言でかまわないと思っていたのでござるが・・・・・・」
「こういった祝い事は、手伝う側も参列する側も、晴れがましい空気を楽しみたくて来ているものだ。別段恐縮することでもない」
「うん、昨日薫殿にもそう言われたでござるよ」
皆も楽しみにしているのだから、そして祝言は皆に感謝の気持ちを伝える場なのだから。
「だから―――申し訳なく思わなくてもよいのだ、と」
「申し訳ない・・・・・・?」
その言葉に、蒼紫が僅かにだが、眉を動かした。
「いや、そこまで深刻に考えているわけではないでござるよ?それでもやはり、多少は思ってしまうからな。拙者のような人間が、こんなに幸せになって
申し訳ない、と」
薫と一緒になろうと決めたのは、彼女なしの人生など、もはや考えられなくなったからだ。そして、彼女を幸せにしたいと思ったからだ。
その想いは、幕末、多くの人々が幸せに暮らせる世を作りたいと願ったことや、流浪人になってから、ひとつでも多くの笑顔のために刀を振るいたいと
思ったことと、本質的には同じで。でも、同じだけれど全く違っていた。
「彼女を幸せにする役目は他の誰にも譲りたくない」というのが本音だし、惚れた女ひとり幸せにできない男が、より多くの者の幸せなど語れるわけが
ないとも思った。
そして、幸運なことに、薫も同じ気持ちでいてくれた。
彼女が、俺の幸せを願ってくれるなら、俺はそれに応えたい。
薫を悲しませたくないから、彼女を失望させたくないから、もう自分の命を粗末に扱ったりはしない。
その思いに、嘘偽りはない。
けれども、俺が犯した罪は、決して消えない事実だから。
悔いているからこそ、償いたいと思っているからこそ、自分の中にある「こんな俺が幸せになって申し訳ない」という思いを、きれいさっぱり消すこともで
きなくて。
「・・・・・・そこが、拙者らしいとも言われてしまったがな」
正確には、「そういうふうに思うのは、優しくていつも他人のことを考えているからで、あなたのそういうところも好きなの」と言われたのだが―――それを
そのまま口にしたら、流石にのろけが過ぎるだろう。
昨日のやりとりを思い出し、ひとり口許をゆるめる剣心を眺めていた蒼紫は、ふと考え込むようにおとがいに手を当てた。そして、おもむろに口を開く。
「―――あの孤島で、お前が雪代縁と闘ったとき」
「え?」
どうして今頃、しかも突然その話を持ち出すのだろう、と。剣心は首を傾げた。
しかし蒼紫は、構わず続ける。
「雪代巴を殺したのは、自分の罪だと。お前は、そう言っていたな」
「―――ああ」
剣心は、わずかに表情を硬くする。
なぜ今、この話題に触れてくるのか、理由はわからない。けれど、あの時そう言ったことは事実なので、剣心は首肯したが―――
「あれは、罪ではないだろう」
そう言って、蒼紫はいつかの剣心の発言を真っ向から否定した。
いよいよ、剣心は訝しげに眉を寄せる。
「あれは―――お前が彼女を殺したことは、罪というよりは、むしろ『罰』だと思うがな」
「・・・・・・罰?」
鸚鵡返しに尋ねると、蒼紫は静かに頷いた。
「かつてお前は、大義の為と考え剣をとった。覚悟をもって人斬りになったが、実際のところ、それがどういう事か本当は理解っていなかったのだろう。
違うか?」
「・・・・・・違わないな」
幾許かの沈黙の後、剣心はそれを認めた。
なんとなれば、それは昨年、師匠にも指摘されたことだったから。
まだ幼かった自分は、この国を変えることを、正義だと信じて疑っていなかった。
これこそが自分のすべき事と信じて、人斬りの道へと進んだ。
命を奪うことの業の深さに気づいて慄えたのは、幾人もを斬って死体の山を築いてからだった。
巴に出会ったのは、その頃だった。
彼女に出会って恋をして、ささくれ立った心が癒やされていった。
ふたりでいる時間に幸せを感じて、この世には「自分自身よりも大切だと思える相手」が存在し得るということを、はじめて知った。
しかし、彼女は還らぬひととなった。
殺したのは、他でもない、俺だった。
「人を殺めるという行為によって、その死を悲しむ人間が生まれるということを、当時のお前は理解していなかった。理解せぬまま殺し続けたお前は、罰
を受けた。愛する人間を失うという、罰をな」
呼吸をするのを忘れていたかのように、蒼紫の言葉を聞いていた剣心は、長い沈黙のあと、息のかたまりを吐き出した。
かくん、と。首を前に倒すと、泣いているとも笑っているともとれるような声で「・・・・・・罰か、たしかに」と呟きを落とした。
愛する者が、死ぬこと。
その絶望を、慟哭を、身をもって知らされること。
それは、自身が誅されるより、はるかに残酷で厳しい「罰」といえよう。
巴を失ったことが、俺に下された罰だとしたら。
その罰によって、俺ははじめて、「命を奪うこと」の罪深さを、取り返しのつかない悔恨を、心から理解した。そして―――
「お前は受けるべき罰を受けて、それを十年以上背負い続けてきた。そろそろ、楽になってもよい頃合いだと思うがな」
ぱし、と。
剣心は首を倒したまま、手のひらで顔を覆う。
「頃合い、でござるか」
「そういう潮時だ」
「・・・・・・うん」
そもそも、人の生死について、人が罪だの罰だの断ずること自体が、不遜で大それた事なのかもしれない。
けれども、悔いる心も償う意志も、前を向いて新たに歩き出すための決意も、すべて、人の中にある。
項垂れていた、頭を上げる。
いつか孤島で「答え」を宣言したときと同じ光が、剣心の双眸に宿っていた。
早春のやわらかな陽が頬に差し掛かり、その目許を、ふわりとやわらげる。
「・・・・・・かたじけない。どうもこのごろ拙者は、皆から教えられてばかりでござるなぁ」
まだまだ未熟者でござる、と。眉を下げて笑ってみせる。
「自分に関する事ほど、自分ではわからないものだろう。俺もそうだった」
「・・・・・・ああ」
志々雄のもとで闘ったときのことを言っているのかな、と。
そう思ったが、口に出しては言わなかった。
不思議なものだ。
剣をもって戦いに身を置いてきた者同士が、すこし前までは敵対していた者同士が、言葉をもって互いに教えられて、救い、救われる。
犯した罪は消えない。だから、自分がしてきた事を、これからも忘れることはない。
過去はすべて自分の一部として、俺の中に在り続ける。頬に刻まれた十字の傷が、一生消えないのと同じように。
けれど、今の蒼紫の言葉に、枷がひとつ、かたんと外れて消えたのを、確かに感じた。
ずっと心に科せられていた、冷たく重い枷が。
「あ、蒼紫様、ここにいたんだ!緋村、おっめでとー!」
突如、操の明る声が庭に響いた。
振り向くとそこには、珍しく普通の丈の着物―――それも、華やかな晴れ着をまとった操がいた。
「おろ、操殿、その格好は・・・・・・」
どうやら、蒼紫と同じく宿にて着替えてきたらしい。驚いたように目を丸くする剣心に、操は「ふふーん、どう?こういうのも似合うでしょ?」と気取って胸
を反らせてみせる。
「うん、馬子にも衣装でござるな」
気安さゆえの憎まれ口に、操は「はぁ?!」と口許を歪ませる。
「その言葉、そっくり返すよ!蒼紫様、こいつは放っといて薫さんのところに行こう!蒼紫様に挨拶したがってたよ」
「ああ、そうだな」
頷いて、玄関のほうに向かおうとする蒼紫を、剣心は慌てて「いや、それはずるいでござるよ!」と引き止めようとする。
「ずるい、とは?」
「拙者より早く、花嫁の姿を見るつもりでござるか?」
「お前は見ていないのか」
「さっき見に行ったのだが、完璧に準備ができるまではダメだと、部屋から閉め出されたでござるよ・・・・・・」
情けない声を出す剣心を、操はからからと明るく笑い飛ばす。
「仕方ないよ。あんたには、一番きれいになった姿を、とっておきの瞬間に見せたいってことでしょ?それが女心だよね」
操に早く早くと促され、蒼紫は新郎に背を向ける。
その背中にむかって剣心は、もう一度声をかける。
「・・・・・・ありがとうでござる」
投げかけた礼に、蒼紫は振り向かずに軽く首を動かした。
いかにも彼らしい反応に、剣心は目を細くする。
操はまだしも、自分以外の男がいち早く、最高に美しく着飾った薫の姿を見るというのは、正直なところ面白くない。
しかし、贈られたはなむけの言葉に感謝の意を表して、一番に目にする幸運は彼に譲るとしよう―――
そんなことを内心で呟きつつ、ひとり縁側に残された剣心は、再び訪れた無為の時間を花嫁を想うことに費やすことに決めた。
そうしていれば、あっというまに時は過ぎるであろうから。
玄関で蒼紫を迎えた操は、新婦のいる部屋へと先導しつつ「蒼紫様、緋村と何話してたの?」と尋ねた。
「別に、普通の祝いの言葉を伝えただけだ」
「ふーん、そっか」
着慣れない長い丈の裾をものともせずに、操は歩きながら器用にくるりとつま先で身体を反転させる。
そして、蒼紫の顔を見上げて、きらきらした瞳を彼に向けた。
「蒼紫様のことだから、きっと、すっっっごく素敵なお祝いの言葉だったんだろうな!」
力いっぱい言い切った操に、蒼紫はごく僅かに―――本当に、ごくごく僅かにだが、口の端を上げた。
「・・・・・・どうだろうな」
「ううん、素敵に決まってるよー」
朗らかに笑った操は、薫の部屋の前で立ち止まる。
「薫さん、入るよー」と声をかけ、姫君への拝謁を促すような恭しい動作で、襖を開けた。
玄関のほうから、新たに訪う声が聞こえた。そろそろ、祝い客たちが集いはじめる時間である。
おめでとうと言祝ぐ声と笑いさざめく声に、道場は祝福の空気に満たされてゆく。
剣心と薫。ふたりの祝言が、まもなく始まる。
了。
2018.06.23
モドル。