「ただいま」と言った声に、家の中からの返事はなかった。
        おや、と首を傾げながら剣心は框に上がったが、居間を覗くとその理由はすぐに知れた。

        庭に向かう障子を開け放った部屋、畳の上に流れた黒髪と、桜色のリボン。
        同じ色の着物の背中を丸めるようにして横たわった薫が、健やかな寝息をたてていた。










      このこねこのこ 2









        彼女の隣には裁縫箱が置いてあり、その傍らには道着らしきものも見えた。おそらく繕い物をしているうちに居眠りをしてしまい、それがそのまま「昼寝」に
        なってしまったのだろう。


        剣心は反射的に「風邪をひくだろうに」と考えたが、すぐに思いなおす。この時間、陽の光はさんさんと縁側に降り注ぎ、部屋全体が暖かな空気に満たさ
        れている。今日は風もなく、障子を開けたまま寝ても身体を冷やす心配はまずなさそうだ。
        剣心は逆刃刀を腰から外し、薫の隣に腰をおろす。少しの間、彼女の睫毛が呼吸にあわせて微かに震えるのを眺めていたが、その寝顔があんまり気持
        ちよさそうだったので、真似をして隣にごろんと寝転がってみた。





        「ん・・・・・・」
        畳を伝っての振動を感じたのか、薫は身じろぎをし、ゆるゆると目蓋を開ける。
        とろんとした瞳に剣心の姿が映り―――彼が隣で寝ているということは今は朝だったかしらと、ほんの少し混乱する。そうではなく、繕い物の途中で眠くな
        ってしまったことを思い出して―――


        「・・・・・・おかえりなさい」
        たっぷり時間を置いて、ようやく働いた頭でそう言った。剣心は改めて「ただいまでござる」と返す。
        「いつ、帰ってきたの・・・・・・?ごめんね、全然気づかなかったわ」
        「いや、たった今でござるよ。それより、こちらこそすまない。寝不足でござるか?」
        「え・・・・・・?」
        「そういえば昨夜は疲れさせてしまったかな、と思って」

        謝罪の意味を理解して、薫の顔にぱっと血が上る。くすくす笑って「おろ、何を思い出したのでござるか?」とからかうように言う剣心に、薫は「知らない
        っ!」と寝返りをうち背を向けた。その背中に、剣心は後ろから抱きつく。
        「ごめんごめん、冗談でござるよ」
        言いながら、首筋に唇を押しつける。啄ばむように口づけを繰り返して、指の腹で喉をくすぐってやると、心地良さそうなため息がこぼれるのが聞こえた。
        「・・・・・・別に、寝不足とかじゃなくて、この部屋あったかくて気持ちよくって、つい眠くなっちゃったのよ」
        うっとりと、甘い響きの声。どうやら、からかわれた機嫌は直ったらしい。



        「やっぱり、薫殿は猫みたいでござるな」
        「え?」



        以前、そんな話をしたことがあった。
        薫の、くっきりと丸く大きな瞳とか。すばしっこくてしなやかで、しっかりと抱きしめていないと腕からすり抜けてしまいそうな身体とか。
        抱かれているときにこぼれる可愛らしい泣き声とか、背中に爪をたてるところとか。
        そんなところが、まるで猫みたいだ、と。

        「ここが気持ちいいのも、猫と同じでござるし」
        顎の下に指を這わせると、薫は笑いを含んだ声で「にゃあ」と鳴き真似をする。そういえば、さっき寝ていたときの、背中を丸めて小さくなった姿勢も子猫の
        ようだったな、と剣心は思う。
        ふわり、と柔らかな風が吹いた。暖かな空気が横になったふたりの頬を撫でる。どこかで咲いている秋の花の、甘い香りが混じる風だった。


        「・・・・・・気持ちいいでござるな」
        「ね?これは眠くなっちゃっても、仕方ないでしょう?」


        薫は喉のあたりをくすぐっていた剣心の手を捕まえて、ちゅ、と指先に口づける。その感触に目を細めながら、剣心は「それも、猫だ」と言った。
        「え?何が?」
        「猫は、その家のいちばん居心地のいい場所を知っている・・・・・・ともいうでござろう?」
        つまりは、ひだまりに暖かいこの場所のことを言っているのだと、薫はすぐに理解した。しかし、薫は「うーん」と唸って、身体を反転させる。

        「・・・・・・薫?」
        「剣心、ちょっとごめんね」
        「おろ?」

        薫はおもむろに身体を起こし、「よいしょ」と剣心の肩に手をかけて押した。
        仰向けにさせた胸の上に子猫よろしく顎を置いて、彼の上に「乗っかる」格好になって、明るい色の瞳を覗きこむ。



        「ここよ」
        「・・・・・・え?」
        「わたしの一番居心地のいい場所は・・・・・・ここ」



        口に出して言ってから恥ずかしくなったのか、薫は赤くなった頬を隠すように、剣心の胸に顔を押しつける。
        しかし、彼ががばっと身を起こした所為で、薫の身体はころんと畳の上に転がされた。

        「・・・・・・剣心?」
        「ちょっと、ごめん」
        「っ、あ・・・・・・!」
        覆い被されて、首筋に歯を立てられて、そのままぐいっと袷を引っ張られた。
        「やっ、剣心・・・・・・な、に・・・・・・っ!?」
        「同じでござるな」
        「え・・・・・・?」
        胸元に舌を這わされるぞくぞくする感覚に耐えつつ、薫は疑問符を口にする。白い肌に紅い痕を刻みながら、剣心は瞳を動かして薫の顔を見上げた。



        「拙者も、薫殿を抱きしめていられれば―――そこがそのまま、居心地のよい場所になるから」



        つまりは、ふたりで一緒にいられる場所こそが、いちばん居心地のよい場所。
        さっきの君の言葉と行動から、君も俺と同じように感じているのだなと思って、嬉しかった。嬉しかったので―――ついでに、少し調子に乗ってみる。


        「それは・・・・・・同じだけれど・・・・・・ね、何を・・・・・・」
        「こうすると、もっと居心地良くなるかと思って」
        そう言いながら剣心は、薫の着物の裾をたくし上げる。素足に空気と、彼の指が触れてくるのを感じて、薫は唇を噛んでそっぽを向く。小さく「気持ちよくな
        るの間違いでしょう?」と呟くと、耳たぶに噛みつかれた。

        「・・・・・・薫殿が?」
        「け・・・・・・剣心がよっ!」
        「拙者だけが気持ちよくなっても、意味が無いでござるよ」
        耳元に唇を押しつけられながらそう囁かれて、薫はうなじまで真っ赤になる。


        ああ、いつもこうだ。
        こういう時の剣心には何を言っても勝てやしなくて、結局彼の思いどおりになってしまう。それこそ、飼い主の膝の上に捕まえられて、いいように転がされ
        る猫になってしまった気分だ。それは、悔しいことだけれど―――



        「・・・・・・障子、閉めて・・・・・・」
        けれど、悔しいと思いながら、剣心にならそうされても構わないと思っている自分がいることも確かだ。
        だからそう答えて、薫は目を閉じる。




        遠まわしな受諾の言葉に、剣心は口許に笑みを刻む。
        障子に手をかける前に、まずは薫の唇に口づけを落とした。













        了







                                                                                        2016.10.16








        モドル。