穀雨・・・・・・二十四節気のひとつで4月20日頃。穀物に実りをもたらす慈雨が降り注ぐころ。








     春昼穀雨   しゅんちゅうこくう









        ごそごそと、腕の中で薫がうごめく気配がした。





        向かい合わせに横たわっていた身体を、腰をひねって返そうとしている。
        仰向けに、なりたいのだろうか。

        抱きしめた拘束から、細い腕を引き抜いて、ぱたりと畳のほうへ投げ出したようだ。
        そうして、布団の外の腕をはみ出させたところで、彼女は動くのをやめた。

        しばらくそのままでいたが、姿勢を戻そうとする気配はまるでない。
        剣心はおもむろに手を動かして、薫の腕に触れた。


        「・・・・・・起きてたの?」
        「起きていたでござる」


        つう、と。腕のの内側の柔らかい皮膚を指先でなぞると、ぴく、と薫の肩が震えた。
        「風邪をひくでござるよ」
        「大丈夫よー。真冬じゃないんだし、寒くないもん」
        そう言う彼女を無視して、細い腕を捕まえる。引き寄せて、もう一度先程までと同じ姿勢になるように、しっかりと抱きしめる。
        「・・・・・・甘えん坊」
        「うん」
        それはまごうことなき事実なので、すんなりと肯定する。
        「こうしていないとどうにも落ち着かない」という事を薫も承知しているから、いつも甘えるに任せてくれることが、剣心としては有り難い。

        しばらくの間、薫はおとなしく胸の中におさまっていたが、やがて「そろそろ、起きなくちゃ」と呟くように言った。腕を緩めてやると、薫は首を伸ばすようにし
        て剣心の頬に口づける。起き出した薫は、窓の桟に手をかけ横へとずらした。



        「・・・・・・空が、白いわ」
        剣心はのそのそと起き上がり、彼女の隣に立つ。
        見上げると、空一面がほの白い雲の幕に覆われている。薄雲の上にある太陽の姿は見えないが、どんより暗いという空でもない。
        剣心は、腕を窓の外に向かって伸ばした。空気はあたたかいが、皮膚にまとわりつくような湿気を感じる。

        「そのうち、降り出しそうでござるな」
        「そうね、そんな感じね」
        薫は頷くと、首を倒して剣心の肩にことりと頭を預けた。


        「おはよう」
        「おろ?」
        「まだ言ってなかったな、って思って」



        そう言って笑う薫に剣心も微笑みを返し、「おはよう」と答えながら、彼女の唇に自分のそれを重ねた。








        ★








        雨になるだろう、という会話を交わしたにもかかわらず、薫は傘を持たずに出稽古に出かけた。
        やがて音もなく空から細かな雫がこぼれ始めた頃、剣心は彼女の傘が玄関に置いたままであることに気づいた。


        剣心は小さく首を傾げてから、くすりと笑みを漏らし、傘をひとつだけ手にして家を出た。










        「・・・・・・剣心!」


        前川道場に到着する少し手前で、剣心は道の先に竹刀を担いだ薫の姿をみとめた。
        「雨が降るのは、わかっていたのでござろう?」
        咎めるようにではなく、笑みの混じった声で剣心が言う。薫も悪びれた様子もなく、大きな瞳をくるりと悪戯っぽく動かした。

        「だって、剣心と相合い傘したかったんだもの」
        予想していた答に剣心は破顔すると、「そうではないかと思って、一本しか持ってこなかったでござるよ」と手にした傘を示してみせる。
        薫は「ありがとう!」と弾んだ声をあげながら、飛び込むようにして良人の傘の中へと入った。




        「もう少し、あちらで待っていると良かったのに」
        雨の降る中、薫は傘をささずに前川道場を出た。歩き出してすぐに剣心に行き合ったためさほど濡れた様子ではなかったが、妻に風邪などひかれたくない
        剣心としては、注意せざるを得なかった。
        「だって、待ちきれなかったんだもの・・・・・・剣心、絶対来てくれると思っていたから。それに、今日の雨なら少しくらい降られても大丈夫よ」
        少し前までは、ひと雨降ると空気がすっと冷やされて、季節が二、三歩逆戻りするように感じられたものだった。
        しかし、すっかり春の深まった最近は、雨の質感も変化している。

        「確かに・・・・・・いかにも春らしい降りかたでござるな」
        剣心は、片手を伸ばして傘の外に出してみる。細かな雨は、肌に受けても冷たさを感じない。むしろ、心地よいとすら思えるくらいだ。
        静かに降りそそぐ霧雨は、あたりの景色を白く柔らかに煙らせる。春の暖かな雨は、大地に潤いを与えて草木を健やかに成長させる甘雨であった。


        「いろんなものが、教えてくれるわね。春もたけなわですよ、って」
        「え?」
        「雨の温度もそうだし・・・・・・ほら、例えば、最近お日様のあたたかさも変わってきたでしょう?すっかり陽も長くなったし」
        「ああ・・・・・・そうでござるな」
        晴れた日に感じる陽射しの強さを思い返しながら、剣心は頷いた。

        「そういえば、この間陽炎が立つのを見たでござるよ」
        薫は「わたしも!」と弾んだ声をあげて、「ご近所の藤棚で、そろそろ咲きそうになっているところもあったし」と続ける。


        「雲雀の鳴き声を、よく聞くようになったでござるな」
        「綿毛になっているたんぽぽを見たわ」
        「八百屋の葉ものの野菜が、安くなってきたでござる」
        「水仕事が、だいぶ楽になってきたわよね」

        ふたり、傘の中寄り添うように歩きながら、次々と「春の深まり」を感じた事柄を挙げてゆく。
        日々を過ごしてゆくなかで、空の色や雲の形や、野に咲く花や丹精された前栽が季節の変化を教えてくれるが―――

        「あとは・・・・・・薫殿の着るものが、明るい色のものが多くなってきた」
        季節によって変わるのは、自然の営みだけではなく、ひとの暮らしもそうである。剣心の指摘に頬をほころばせた薫は、「それじゃあね・・・・・・」と、ゆっくり
        と唇を動かした。



        「剣心が、あったかくなってきたわ」
        「・・・・・・え?」
        「最近、抱っこされたまま寝ていると、そう思うの」



        剣心はすぐ横にある薫の顔をのぞきこみ、ぱちぱちとまばたきを繰り返す。そして、一拍おいて今朝方のやりとりを思い出した。
        「え?それじゃあ、今朝布団から手を出していたのも、暑かったからでござるか?!」
        「そうよ、剣心けっこう体温高いんだもん。寝ぼけているとでも思ってたの?」
        図星だったため、剣心は「いやぁ・・・・・・」と言葉を濁す。

        考えてみると、薫と寝所を一緒にするようになったのは、季節が冬に向かう頃だった。
        木枯らしが吹いて雪が降って、どんどん寒くなってゆくなか、夜は彼女を抱いて眠るのが当たり前になっていった。
        そんなふうに、この冬は互いの温度を分け合いながら暖かく夜を過ごしてきた。しかしこれからは、どんどん気温も高くなって、やがては暑い季節へと変化
        してゆくわけで―――


        「その・・・・・・すまない。暑いのなら、くっついて寝るの、やめるでござるか?」
        「剣心、わたしを抱っこしないで眠れるの?」
        「・・・・・・眠れないでござる」


        これは重大な問題である、と言わんばかりの重々しい口調に、薫は思わず笑ってしまった。彼がふざけているわけではなく大真面目であることは解るの
        で、申し訳なくもあるのだが―――何しろ問題の内容が内容である。
        「いや、勿論以前はひとりでも眠れたんでござるよ?でも、今はもう薫殿がそばにいないと熟睡できないというか落ち着かないというか・・・・・・安心するんで
        ござるよ、薫殿を抱いていたら」
        「・・・・・・ありがと」
        あくまでも真剣に説明を続ける剣心に、薫はくすぐったそうに首をすくめる。

        「今朝、寝苦しかったでござるか・・・・・・?」
        「そんなことないわよ。むしろ、旦那様の安眠にわたしが欠かせないのなら、光栄だしとっても嬉しいわ。それに・・・・・・」
        おずおずと尋ねてくる剣心に、薫はすこしおどけた調子で返した。そして、いちばん大事な事柄を付け加える。


        「それに、わたしも・・・・・・剣心に抱っこされて眠るの、好きだから」


        はにかみながらの、小さな声。
        剣心は立ち止まり、一瞬言葉を忘れたかのように、じっと薫の横顔を見つめる。

        すっ、と。傘の角度を変えた。
        水平に手にしていた柄を、ちょっと肩に担ぐように斜めにする。
        そうしておいて―――隣にいる薫の頬に、そっと唇を寄せた。


        「・・・・・・道の真ん中で何するのぉ・・・・・・」
        困惑やら照れやらが入り混じった声で、薫が訴える。しかし剣心は平然としたもので、「傘が、隠してくれるでござるよ」とのたまった。
        確かに、担いだように持った傘はふたりの上半身を隠してくれる。道の後方に人がいたとしても、傘の中で何をしているのかはわからないだろう。

        「こっち向いて」
        「・・・・・・」
        「もう一回だけ」

        食い下がる剣心に、もじもじと戸惑っていた薫は根負けしたように細く息を吐く。
        彼の方に顔を向けると、待っていたように唇が近づいた。


        「・・・・・・かたじけない」
        ちゅっ、と。小さく音をたてて、すぐに離れる唇。

        こんなふうに口づけを交わす度に、胸の中にある「好き」という感情が、更に大きくなってゆくような気がする。
        触れるだけの小さな接吻にも、息をするのを忘れるような深い口づけにも、いつも大切に想いを乗せているから。

        剣心は傘の角度をもとに戻した。頬をほんのり紅く染めた薫が、目蓋を開く。熱っぽく潤んだ瞳に映る自分の姿を見て―――彼女も、きっと同じような想い
        でいてくれるんだろうな、と思う。
        「帰ろうか」と促すと、薫は赤い頬のままふわりと微笑んで頷いた。そしてふたりは再び、雨に湿った道を歩き出す。





        霧雨に街が白くけぶるなか、つややかに濡れた青葉が鮮やかに映える。
        樹々はやわらかな恵みの雨を受けて、次の季節に向けて若葉をすくすくと伸ばしゆく。
        君と迎えた二回目の春が、ゆるやかにあたたかに満ちてゆく。

        雨の温度や花の色や、互いのぬくもりで季節のうつろいを知ることを、いとおしく感じる。
        時を重ねるごとに、季節が変わるごとに、君への想いが更に深くなってゆくことを、幸せだと思う。
        緑のまぶしい夏が来る頃には、紅葉が君の笑顔を飾る頃には―――この想いは、いったいどこまで大きく育っているのだろうか。


        そんなことを考えてひとり口許を緩ませた剣心に、薫が「どうしたの?」と小首をかしげる。
        剣心は「なんでもないよ」と微笑みながら、少しばかり傘を揺らしてみせた。

        「手を繋げないのがもどかしいでござるな、相合い傘というものは」
        「でも、堂々と寄り添って歩けるでしょう?」
        「ああ・・・・・・それは、確かに」



        もう一度傘を傾けて、剣心は薫の髪に自分の頬をすり寄せた。
        「甘えん坊!」と、薫が笑う。







        何処からか、早咲きの藤の香りが漂ってきた。
        穏やかな穀雨の昼下がり、ふたりは肩を寄せ合って、ゆっくりと家路についた。















        了。






                                                                                        2015.04.20





        モドル。