部活動の帰り道、角を曲がったところで、前を行く見知った背中を見つけた。
染めているわけではなく生まれつきなんだと言っていた、明るい色の髪。
ちょうど今のこの時間の、暮れはじめた夕焼け空のような色。
大好きなひとの、大好きな色。
でも、今日のこの瞬間に限っては、このひとにはいちばん会いたくなかった。
・・・・・・どうしよう、逃げ出したい。
ああでも先を歩いているのは彼なんだから、わたしが声をかけなければ気づかれないわよね。そうよ、追い越さないように気をつけて、ゆっくり歩けばこの
まま―――と、思っていた矢先に、前を歩く彼がくるりと振り向いた。
「あれ、神谷さん?」
・・・・・・背中からの気配を察知するんだから、ほんとにこのひとの聡いところは剣豪レベルだと思う。いやでも、わたしもたいそう不審な視線を投げかけて
いただろうから、誰かがいるのに気づくのも当然かしら。
「・・・・・・奇遇ですね、緋村先生」
ともあれ、声をかけられた以上もう逃げられない。足を止めて待っていてくれる彼のもとに、わたしは観念して歩み寄る。
ん?やだ、ちょっと待って。部活の後にこうして帰りが一緒になるのって、はじめてなんじゃない?
うわぁ・・・・・・なんてこと。すごく嬉しい筈なのに、嬉しくない・・・・・・
神様、どうして今日に限ってこんなラッキーな施しをわたしに与えるのですか。今のわたしにとっては、この状況はかえって苦痛です・・・・・・
「神谷さん、家こっちなの?」
「あ、はい。緋村先生も?」
そうだよと頷く彼に、そうなんですかと返しつつ、わたしの目線はつい、彼が持っている紙袋に向かってしまう。歩く度にがさごそと音をたてて自己主張する
それが、なんというのかしら―――うう、小憎らしい。緋村先生のことがじゃなくて、その中にたっぷり詰まっている、バレンタインのチョコレートが。
「沢山もらったんですね」
ああっ、わたしの馬鹿!なんで自分からそこに踏み込んじゃうの?!
でも、だって、気になるんだもの。このままずっと触れずにいるほうがむしろ辛いんだもの。
「あー・・・・・・うん、おかげさまで」
照れたように笑う顔が可愛くて、こんな時だというのに、思わず見とれる。ひとまわり以上年上の男性に対して失礼な感情かもしれないけれど、可愛いも
のは可愛いんだから仕方がない。
「まぁ、たまに学校に来るコーチのおじさんって、きっと渡しやすいポジションなんだろうな。最近のバレンタインって、そういうお祭りみたいな感じなんでし
ょう?」
とりあえず、「緋村先生がおじさんなわけないでしょう」と、そこはきっちり否定する。
でも、そうなのかな。
今日は2月13日、土曜日。学校は休みだけれど、部活はあった。
そしてバレンタインの前日で、緋村コーチが顔を出す日となれば・・・・・・そりゃ、部の女子はこぞってチョコを持ってくるでしょう。
なんといっても、緋村先生はかっこいい。とても綺麗な顔をしていて、いつもにこにこ優しくて、それでいて剣の腕は高校大学と日本一に輝く程で。これで
背が高ければ完璧なのにねー、とか失礼なことを言っている部員もいたけれど―――そうかしら、わたしなら、こうして並んで歩くときに、近い高さに顔が
見えるのはいいなぁ素敵だなぁと思うんだけれど・・・・・・
まぁとにかく、強くてかっこよくて優しい緋村コーチは女子部員の憧れの存在であり、それこそ好きなアイドルに贈るような気分でチョコを渡す子も多いと
思う。でも―――
「でも、そうじゃない子もいるんじゃないですか?もっと、真剣な想いで渡してくれた子も」
ちらりと、紙袋から覗いている、いかにも手作りチョコらしいラッピング。なんだか、手紙らしいものも見えているし。きっとあれは、感謝チョコとかお祭りイ
ベントのノリなんかじゃなくて、本気の告白チョコだろう。
「そうなんだろうね・・・・・・だから、せめて貰ったものは全部自分で食べないとね」
甘いものは嫌いじゃないからいいんだけれど、と。少し困った顔で、彼は笑う。
ここで「わたしのも、ちゃんと食べてくださいね」と笑って言えればいいのだけれど、それは言えない。
何故なら、わたしは彼にチョコを渡していないから。
だから、今日この瞬間に、彼には会いたくなかったのに。
「それにしても、早いものだね。もうすぐ年度末だなんて」
彼が話題を変えてくれたことに、ほっとする。「わたしも、もうすぐ2年生です」と無難な答えを返す。
「春休みもあるから、一年生でいられるのは、実質あとひとつきちょっとなんですよね」
「ああそうか、春休みか・・・・・・うらやましいなぁ」
本気で羨ましそうに唸る彼に、つくづく社会人は大変そうだなぁと思う。そして、そんな日々の仕事の合間を縫って、今日みたいにコーチに来てくれてい
るんだから、緋村先生は立派だとおもう。顧問の先生も「今年はずいぶんとマメに顔を出してくれるなぁ」と感心していたし。
「年度内に、また部活には来られそうですか?」
「うん、卒業式の前に、もう一度覗きに来いとは言われてるけど。俺がコーチに来るようになった年に新入生だったのが、今の三年生なんだよね」
「あ・・・・・・そうなんですね」
顧問の先生の話によると、緋村先生が大学を卒業した後今の勤め先に就職して、それから数年経って仕事のペースも落ち着いた頃に、母校にコーチに
来られないかと依頼したらしい。当時の一年生には、高校生で初めて剣道を始めたという部員もいたし、彼もコーチとしては新人だった。そういう意味で
は、「同期」と言えなくもないのかしら。
「感慨深いですか?先輩たちが卒業するの」
「そうだねぇ。感慨深いし、時の流れの速さにびっくりするかな。俺がたまにしか来ていないから尚更そう感じるのかもしれないけれど、三年間なんてあっ
という間だなぁ、って」
「そう・・・・・・ですか」
ふと、思った。
わたしにとっての高校生活は、あと二年ちょっと。
その期間中―――わたしはあと何回、緋村先生に会えるんだろう。
彼が学校に来るのは、だいたい月に二回くらい。仕事が忙しいときは、一回だったり一度も来られないときもある。
そんなふうに、季節がひとまわりして、また春が来るけれど。わたしが彼に会える機会は―――この一年間に会えた回数に2をかけて・・・・・・ううん、待っ
て。わたしが部活を引退したら、会える回数は更に減るわよね? それに、もしかしたら彼の都合で、今後コーチに来ることができなくなったとしたら?
クラスの皆や部活の仲間には、残りの二年間に何度も会える。毎日だって会える。でも彼とはそうはいかない。
ううん、クラスや部活の友達とだって、卒業したあとはきっとしょっちゅう会ったりはできなくなる。
じゃあ、彼とは―――その頃には、もう二度と会えなくなっているのだろうか。
「少し寂しいけれど、我慢しなくちゃね」
心を読まれたのかと思い、どきっとした。
思わず「え?!」と動揺して、聞き返す。
「神谷さん、二、三年生の子たちとも仲いいもんね。先輩に会えなくなるの、寂しいんじゃない?」
「・・・・・・そうですね、遠くの大学に行っちゃう先輩もいるし、今までみたいに簡単に会えなくなるのは・・・・・・寂しいです」
そう、きっと寂しい。
それも寂しいけれど、緋村先生と会えなくなるのは、きっと寂しいとかそういうのを超えている。
「でも、春には新入生が入ってくるから。きっとまた、いいメンバーが揃うよ」
「そうです・・・・・・ね」
新しい、出会いと別れ。
二年後、わたしは高校を卒業して、みんなと別れて進学して、そしてやがては就職して。そうやって、環境が変わるごとに周りにいる人々も変わる。それ
は生きていくうえで、きっとごく普通で当然のことなのだろうけれど。
でも、それでも。わたしは、あなたと離れたくない。
わたしは、一緒にずっといたい。
あなたと――― 一緒にいたい。
その時、緋村先生と並んで歩く道のその先に、コンビニがあるのを見えた。
店先に、赤とピンクのハートが飛んだ、バレンタインののぼりがはためいているのも。
それは、バレンタインの魔力だったのかもしれない。
玉砕したら、この先二年間は暗黒の部活動になるだろう。彼と顔を合わせるたび気まずくて、きっと何度も「やめておけばよかった」と後悔するだろう。
そんなこと、わかりきっているのに。
それにもかかわらず、今ここで伝えなくちゃという衝動がぐわっとこみ上げた。
だって今日はバレンタイン。女の子が、好きなひとに告白するための日なんだから!!!
「―――せんせい!」
「ん?」
「ちょっとここで待っててください!すぐ戻りますから!」
「・・・・・・へ?」
目を白黒させる彼を置いて、わたしはコンビニへと走った。
勢いよく店内に駆け込んで、棚に並ぶチョコの中から一番かわいいと感じたものを直感で手にして、レジへと直行する。
おつりを受け取って店の外に飛び出すと、追いついた彼と鉢合わせする。
何事かと、少し驚いたような顔で見つめられる。
これまでの稽古の成果を出し切れるよう祈りながら、剣道の試合で強敵に挑むときのような覚悟で―――
ううん、はっきり言って、その時より怖い。ずっと怖い。
だけど―――負けるな。
負けるな、わたし!
「・・・・・・好きです!」
びしっと。正面から一本打ち込むように手を伸ばして。たった今買ったばかりのチョコを、彼に差し出す。
まんまるになった彼の目。ああ、そうよねそりゃびっくりするわよねこんな突然・・・・・・でも、ほんとは、ほんとはこんな筈じゃなかったのよぅ・・・・・・
「あの、実は、ほんとは用意してたんです、チョコレート」
「・・・・・・え?」
「感謝チョコとか義理チョコとか、そういうイベントみたいなノリに思われたくなくて、手作りしたんです、緋村先生へのチョコ」
「・・・・・・え?」
「ほんとは今日、それを渡すつもりだったんですけど・・・・・・失敗しちゃったんです・・・・・・」
・・・・・・そう、そうなの。
本命本気の告白チョコなら、やっぱり手作りだよねー!なんて。クラスの友達とそういう話になって。よーしわたしもそうしよう!と思って挑戦したのはいい
けれど、分不相応にチョコマフィンなんかにチャレンジしたものだからそれはもう見事に失敗しちゃって、オーブンから出てきたのはなんだか黒くてかたく
て焦げ臭い石炭みたいなしろもので・・・・・・
「そんなの先生に渡したくないし渡せないし、でも普通に売ってるチョコを贈って、義理みたいに思われるのも嫌で・・・・・・だから、チョコ渡すの、あきらめた
んです・・・・・・」
そう、一回は諦めた。
きっとこれは神様が「やめておきなさい」と忠告しているんだわ、と。そう自分に言い聞かせた。
「でも!今ふたりで歩いているうちに、どうしても渡したくなって。これから先もずっと一緒にいたいなと思って、先生にとってそんな存在になれたらいいなと
思って・・・・・・いえっ、告白したってふられるだろうけれど、それでも言わないまま来年のバレンタインまで待つのも嫌で、だから・・・・・・」
「ありがとう!」
言い訳の羅列が、遮られた。
「・・・・・・え?」と。すぐ目の前にいるのに、必死になりすぎてろくに見ることもできずにいた彼の顔を見る。
その頬は、今の夕焼け空のように真っ赤に染まって、薄い色の瞳は、なぜかきらきら輝いていた。
「本当は、俺のほうから言いたかった。言いたかったけれど、立場上、それは絶対にしちゃいけなかったから」
・・・・・・え?
「本当は、それでも我慢しなくちゃいけないんだろうけれど・・・・・・でも、ありがとう。嘘みたいで、嬉しくて、だめだ。我慢できないから、言うよ」
「え、あの・・・・・・言うって、何を・・・・・・?」
差し出した手から、彼はチョコレートの箱を受け取る。
そして、わたしの目を真っ直ぐに見つめて、言った。
「俺も、神谷さんが好きです」
了。もしくは、剣心バージョン へ続く。
2018.02.10
モドル。