「ちょ・・・・・・ちょっと剣心?!何やってるの?!」
背中に投げかけられた慌て声に、剣心は振り向く。
下駄を突っ掛けて小走りで庭に降りてきた薫に、何をそんなに焦っているのだろうと首を傾げながら返事をする。
「何って・・・・・・布団を干しているのだが」
今まさに、抱えた布団を物干しにかけようとしていた剣心に駆け寄った薫は、ばふっと体当たりをするように布団に腕をかけると、そのまま彼の手からもぎ
取った。
「それは見ればわかるわよ!でも、今の腕でそんなことしちゃダメじゃない!」
「今の腕」というのは、「先日黒星に撃たれた腕」のことを指すのだろう。
確かに、この右腕を吊っていた包帯がとれたのはかなり最近、というか、つい昨日のことなのだが―――
「大丈夫でござるよ。もう治ったのだから包帯を取ったのだし、布団なんて軽いものだし・・・・・・」
「それはそうかもしれないけれど、昨日の今日でしょう?!もう一日くらいは安静にしていたほうが間違いないでしょう!」
「いや、しかしこんなによい天気なのだから・・・・・・今日のうちに干さないともったいないでござろう」
「もったいないって、何が?」
「お日様が」
と、剣心は真顔で言った。
実際、今日はからりといい天気で湿気も少なく、ほどよく風も吹いている。そして現在、神谷道場には蒼紫と操が滞在している。
なので、彼らが使っている客用の布団を干してやるとするか、と思い立ったわけなのだが―――
薫は剣心の言葉にきょとんとした顔になり、そしてくすくすと笑いをこぼした。
「・・・・・・何か、おかしかったでござるか?」
「ご、ごめん・・・・・・だって剣心、お母さんみたいなこと言うんだもん」
可笑しげに笑う薫と対照的に、剣心はむっと不機嫌に顔をしかめる。
「拙者は、薫殿の母上ではないでござるよ」
「そりゃそうだけれど・・・・・・なんか、お母さんっぽいっていうか、主婦っぽい発言だなぁと思って」
まだ笑いを含んだ声でそう言いながら、薫は抱えていた布団を「よいしょ」と物干し竿にかける。
「残りの布団はわたしが干しておくわよ。今無理しなくても、そのうちまたお米とかお味噌とか重い買い物頼むだろうから、それまで・・・・・・」
ぐい、といきなり肩を掴まれて、薫の言葉は驚きに途切れた。
強制的に、薫を自分の正面に向かせて。そして剣心は彼女の腰へと腕をのばし―――
「きゃあっ?!」
突然の浮遊感に、薫は思わず悲鳴をあげる。
足が地面から離れて、するりと脱げ落ちた下駄が土の上に転がり、からんと乾いた音をたてた。
「けっ・・・・・・剣心っ?!」
正面から薫の腰の下のあたりを抱きかかえた剣心は、そのまま彼女の身体をひょいと持ち上げた。
軽く背を反らした剣心の胸の上に、自分の胸を乗せる格好になってしまった薫は、あっという間に顔を真っ赤に染める。
「やっ・・・・・・やだやだ剣心っ!何これっ?!」
「ほら、大丈夫でござろう?」
「ふぇっ?なっ、何が?!」
「薫殿を持ち上げるのだって平気なのだから、布団くらいどうってことないでござるよ」
少し高い位置にある薫の顔を見上げながら、剣心はにっこり笑顔になる。その笑みには少々意地悪な色が混じっており―――これは「お母さん」と言われ
たことへの報復かしら、と薫は心の中で呟く。
「それって・・・・・・わたしみたいな重いものを持っても平気、って言いたいの?」
「いや、布団も薫殿も軽いから、平気で持ち上げられるということでござるよ」
「・・・・・・じゃあ、それはもうわかったから、下ろしてくれる・・・・・・?」
赤い顔のまま薫がそう言うと、剣心は「そう慌てずとも」と、人の悪い笑みを更に深くする。
「薫殿くらいの重さなら、もうしばらくこうしていても腕に障りはないのだが」
―――ああ、そうだった、無駄な抵抗だ。わたしが彼に口で勝てる訳がなかったのだ。
もっとも、口の他にも勝てないものは沢山あるのだけれど。
「・・・・・・それじゃあ、どうしたら下ろしてくれるの?」
降参の意をこめてそう言うと、剣心は悪戯っぽく目を細め、つい、と首をのばした。軽く唇を合わせて、すぐ離れる。
「薫殿からしてくれたら、下ろすでござるよ」
薫はますます赤くなり、どう返したらよいのかわからず黙りこむ。しかし、剣心の腕は腰を抱え込んだまま動く気配はなく―――どうやら要求を飲むまでは
このままでいるつもりらしい。薫は観念して、羞ずかしさを押さえこみつつ首を前に傾けた。
ちゅ、と。一瞬だけ触れて、唇を離す。
言われたとおりにしたつもりだったが、剣心はまだ彼女を解放しなかった。
「そんなのじゃ、足りないでござるよ」
「え」
「もっとしっかりしてくれないと、離してあげない」
あからさまに不満そうな顔でそう言われ、眉をひそめられる。
薫はもう自棄になったような気分で腕をのばして剣心の首にぎゅうっと抱きつくと、きつく目を閉じて唇を強く押しつけた。
ふたりで行った京都で、はじめて剣心にこんなふうにされて。それからたびたび隙を突かれるようにして片腕で抱きしめられ、口づけられることがあったけ
れど。でも、まだまだ彼との過度な接触に「慣れた」とは言い難い。ましてや、自分からこうやって唇を重ねるのは初めてのことで―――速さを増すばかり
の鼓動に、心臓が壊れてしまうのではないかと本気で心配になる。
抱き上げられている所為で、文字通り「地に足が着いていない」ため、いつもより余計にくらくらするような気がする。息がうまくできなくて苦しいのと、がっ
しり抱き締められている彼の腕の心地よさがごちゃ混ぜになって、目を瞑っていると上下の感覚がわからなくなってしまいそうだ。
「・・・・・・ね・・・・・・これで、いい・・・・・・?」
唇の上で、掠れた声で囁くように訊いてみる。しかし返ってきた答えは「もうちょっと」というものだった。
駄々をこねているとしか思えない返答に、薫は途方に暮れる。だってここは庭なのに、こんな場所でこんな事をして、いつ弥彦や操に見咎められるかわか
らないというのに―――
「・・・・・・剣心、子供みたい・・・・・・」
先程の「お母さんみたい」とは違い、この呟きはお気に召したらしい。剣心は反らしていた背を元にもどして、腕の力を緩める。
足に地面を感じて、薫はようやく彼の気が済んだことを知った。
「ほら、大丈夫だったでござろう?」
「・・・・・・え?」
「布団、残りも拙者が干すでござるよ」
そう言われて薫はようやく、もともと布団干しから始まってこういう状況になったことを思い出す。
「・・・・・・じゃあ!ふたりで一緒にやりましょう!それが妥協案って事でどうかしら?!」
結局は剣心の思い通りになってしまうことが悔しくて、薫は精一杯口調を強くして提案する。
彼がむしろ嬉々として「それは名案でござるな」と頷いたのが、また癪だったけれど―――嬉しそうな剣心を見ていると自分も嬉しくなってしまうことも、確
かだ。
それに、彼のこんな子供じみた我儘な面を見られるのは、きっとわたしだけなはずだから。
わたし自身、彼がそんな一面を持っていることを知ったのは、ごく最近のことだけれど―――
剣心が、「おいで」というふうに、薫に向かって手をさしのべる。
まだ口づけの余韻に熱い頬を持て余しながら、薫は素直に彼の手をとった。
了。
2015.07.13
モドル。