恋の瞬間









        青い絵の具をたっぷりの水で溶いたような、淡い色が広がる空。
        そのところどころで、子供たちが揚げる様々な形の凧が楽しげに揺れている。

        うららかな日和となった、明治十五年の元日。
        剣心と薫は、河原を臨む橋の上で、二羽の小鳥のように身を寄り添わせていた。



        「寒くないでござるか?」
        「うん、こうしているからあったかいわ。でも・・・・・・大丈夫かしら、下から見られてないか、気になるんだけど」

        冬の陽光が川面を柔らかに照らしてはいるが、そこを渡る風は冷たい。身体をくっつけ合って暖をとりながら、剣心は「なに、みんな凧の方に夢中でござろ
        う」と、薫の懸念をさらりと否定する。
        たしかに、河原では少年少女たちが凧揚げに興じているが、ひたすらに凧を目で追う彼らにしてみれば、橋の上で誰が何をしているかなど文字通り眼中に
        ないだろう。しかし、それとは別に橋の向こうから足音が近づいてくるのに気づき、薫は慌てて半歩横に移動した。剣心も不本意そうな表情で、妻に倣う。


        「あらまぁ、剣心はんと薫ちゃんやないの」


        足音に、よく知った声が重なる。思いがけず出くわした友人に、薫は「わ!妙さん!」と喜色をあらわに駆け寄った。
        「あけましておめでとうございます!今日はおふたりだけなん?」
        「剣路ならあそこでござるよ。弥彦と燕殿も一緒でござる」
        新年の挨拶を交わし合ってから、剣心は河原の方を示す。そこでは凧を手に駆け回る弥彦と、彼の後に続く剣路と燕の姿があった。このところすっかり背
        も伸びて、師範代として出稽古もひとりで立派に務めるようになった弥彦だが、今日はすっかり子供に返ってしまったような様子である。

        「あらほんと、この寒いのに元気やねぇ」
        「妙さんならわかるかしら。うちの凧、今年も特別なのよ」
        「特別?そない言われても、この距離やと・・・・・・」
        じっと目を凝らしていた妙は、やがてあることに気づいて、優しげな眦をつり上げた。
        「あれって、まさか」
        「さすが妙さん!そうなの、津南さんに頼んで絵を描いてもらったの。今年は龍神様の絵よ」
        「ああっ、あかんわ遠くてよう見えん・・・・・・」
        欄干に手をついて身を乗り出す妙を、剣心と薫は「危ない危ない!」と慌てて引き戻す。姿勢を立て直した妙は、「こうしちゃおれへんわ!これから仕事済
        ませてくるから、うちにも津南はんの凧揚げさせて!」と真顔で薫に迫る。

        「仕事って・・・・・・妙殿、神社に行く途中なのではござらんか?」
        そう、この橋の先は神社へと続く道である。剣心たちも先ほど新年の参拝を済ませたばかりで、子供たちはその後凧揚げへと直行したのだ。てっきり妙も
        お詣りに向かっているのかと思ったのだが、元日早々仕事とはどういう事だろう。


        「正確には、仕事の一環て言うんやろか・・・・・・今年はちょっと、お店で新しいことに挑戦するつもりやから、上手くいくよう気合い入れてお頼みしようと思て」
        「新しいこと?何それ?」
        娘時代と変わらぬ無邪気さで目を輝かせる薫に、妙はよくぞ聞いてくれましたというふうに胸を反らせる。

        「実はね、赤べこの制服、新しくするつもりなんよ」
        「制服を・・・・・・?」

        赤べこの制服といえば、ここ数年は縞の着物に真っ白なエプロンである。清潔感のあるエプロンの肩口にあしらったフリルも可愛らしく、誰からも好感を持
        たれる制服なのだが、それを一新しようというのだろうか。妙は「燕ちゃんたちにはまだ言うてへんから、内緒やよ?」と、まずは悪戯っぽく口止めをする。



        「今年から、洋服に切り替えようと思うて」



        これには、剣心も薫も目を丸くする。
        ふたりの反応に満足したように、妙はにこにこしながら説明してくれた。

        赤べこで働く女性たちの制服である着物は、羽鳥屋という呉服屋に注文している。制服は時折悉皆屋に頼んで洗い張りをしているが、客商売をしている店
        としては、やはり女給たちにはぱりっとした制服で接客をさせたいものだ。そろそろ新しい制服をあつらえようと思い、妙は年末、羽鳥屋に足を運んだ。
        「そしたらな、羽鳥屋はん今年から、試しに洋服もやってみるんやて」
        羽鳥屋は反物から古着まで手広く扱う店で、安売りの時などは庶民にも手が届く値で掘り出し物を提供してくれる人気店だ。その羽鳥屋の店主から、「う
        ちもそろそろ、洋装にも挑戦してみようかと思いまして」という話を聞いた妙は、ぴんと来た。

        「赤べこもそろそろ、新しいことをやってみるのもええかなぁと思て」
        「それで、制服でござるか・・・・・・」
        「ええ、試しに羽鳥屋はんが仕立てた洋服、着させてもろたんですが、思うてた以上に動きやすくて!着物と違て袖も邪魔にならんし、お店の中で動くに
        はむしろこっちの方が機能的やないかしら・・・・・・とはいえ、新しいこと始めるにはいろいろ難儀なこともつきものやろうから、神様にもしっかりお願いせな
        と思いまして」
        なるほど、だから「気合いを入れて」なのかと剣心と薫は納得する。新しいことを始めるのにあたって、まず神様に報告をするのは、年の初めこそが相応
        しいであろう。


        「洋装の制服かぁ、楽しみだなぁ・・・・・・決まったらわたしにも教えてくださいね」
        「あら、むしろ薫ちゃんには先に着てみて欲しいわぁ。どうやろ、今日ここで会うたのも神様の引き合わせいうことで、モデル、やってくれへん?」
        「もでる・・・・・・って何?」
        「まずはじめに薫ちゃんが着てみせて、燕ちゃんたちにお披露目するの」
        「え、ええっ?!嫌ですよそんな恥ずかしい!」
        「ええやないの、薫ちゃん洋服着たことないんやろ?そんなら余計にやってほしいわ、絶対似合うから!」
        「いや、そう言ってもらえるのは嬉しいけれど・・・・・・」
        実は、洋服なら着たことはある。しかも、その格好のままちょっとした騒ぎに巻き込まれたので、スカートというものが意外と動きやすいということも知って
        いる。その話をするべきかどうか迷っていたら、おもむろに、薫は妙に二の腕を掴まれた。

        「剣心はん、すんまへんちょっと薫ちゃんお借りしますえ」
        「え?ちょっとちょっと妙さん何っ?!」

        妙はずるずると薫を引っぱってゆき、剣心に話し声が聞かれない距離まで移動させる。
        女ふたりは何やらぼそぼそと密談を始め、剣心は橋の上にぽつんと取り残された。


        「・・・・・・じゃあ、そういう事で、うちはちょっと行ってきますよって!お詣りが済んだら必ず寄りますんで、帰らんといてくださいねー!」
        そう言って妙は薫を解放し、踵を返して早足で神社へと向かう。

        「もー・・・・・・妙さんてば・・・・・・」とぼやきながら戻ってきた薫に、剣心は「何の話だったのでござるか?」と尋ねた。
        「別に、たいした話じゃないのよ」
        「拙者の悪口でござるか」
        「まさか、そんなわけないでしょー!」
        薫は笑って否定したが、わざわざ距離をとったということは、やはり聞かれたくない話なのだろう。しかし、そうなると余計気になるのが人情である。剣心は
        「ふむ」と呟くと、すっと薫に顔を近づけた。


        そのまま、はむ、と耳たぶに噛みつく。


        「・・・・・・?!な、なななな何っ?!」
        不意打ちに、真っ赤になった薫は反射的に飛びすさって逃げようとしたが、すかさず腕を捕まえられる。
        「いや、寒そうだからあたためようと思って」
        「うそ!絶対うそー!!」
        「ああ、暴れると噛めないでござるよ」
        「噛まなくていいのー!」

        話さないことにはずっとこの攻撃は続くだろうと悟り、薫は「わ、わかったから!話すからやめてー!」と降参する。それはそれで残念だなと思いつつ、剣
        心はぱっと手を離した。


        「あのね、たまには違った格好をしてみせたほうが、剣心だって新鮮だろう・・・・・・って言われたの」
        「・・・・・・・・・・・・は?」
        「ほら、長く夫婦をやっていたら、倦怠期?みたいなのがあるから、その用心のために、って」
        「倦怠期って・・・・・・拙者たちはまだ夫婦になって三年でござるよ?」
        「そうよね?!そんなのまだ全然大丈夫だっていうのに、もー妙さんたら、変な気をまわしすぎなんだから・・・・・・」


        ずっと前、まだ剣心と薫が夫婦になる前にも、妙からあれやこれやと心配されていろいろ忠告されたことがあった。
        曰く、「やっといい仲になった言うのに、剣術にかまけていつまでも汗にまみれてたらあきまへん」「薫ちゃん元はいいんやさかい、もっとおしゃれして化粧
        とかもして―――」と。つまりは「恋人同士になったからといって油断をしてはならない」という旨のことを、とくとくと説教された。

        この度はそれの発展形で、「夫婦になって何年も経ったら、どうしたって所帯じみてくるやないの」「薫ちゃん元はいいんやさかい、たまにはいつもと違う格
        好とかして女らしいとこ見せとかへんとあきまへん」と。つまりは「夫婦になったからといって油断してはならない」という旨のことを、やはりとくとくと説教され
        た。四年前は「わたしのことはいいですから!」とはねつけた薫だったが、現在は幾分大人になれたので「気をつけます・・・・・・」と殊勝に答えることができた
        のだが―――


        「・・・・・・気をまわしてくれるのはありがたいでござるが、まぁ、なんと言ったらいいか・・・・・・」
        「確かにね、所帯じみてくるとか心配されるのはわかるのよ。今は剣路だっているんだし、四年前から変わったところは沢山あるもの。だから、それはわか
        るんだけど・・・・・・」

        薫はぶつぶつ言いながら、欄干に突っ伏すように寄りかかる。その動作がたいそう可愛らしかったので、剣心はその背中にばふっと覆い被さった。
        「ほらー!そういうとこー!」
        じたばたもがきながら、薫が「剣心が、こんなだからかなぁ・・・・・・」と途方に暮れた声で呟くのを、剣心は聞き逃さなかった。

        「拙者がどうかしたでござるか?」
        「・・・・・・他のおうちがどうかはわからないけど、妙さんがあんな心配するってことは、きっと結婚して三年も経てば・・・・・・しなくなっちゃうものなんでしょう?」
        「しないって、何が?」
        「・・・・・・どきどき」
        「え?」
        剣心の腕から逃れた薫は、乱れた髪を直しつつ、困ったような瞳を彼に向ける。



        「わたし、まだどきどきしちゃうの。結婚する前・・・・・・出会って、好きになったときみたいに、いまだに剣心にどきどきするのよ。ときめいちゃうのよ。これっ
        て・・・・・・やっぱり、変なのかしら?」



        真剣な表情で、じっと目を見ながら尋ねてくる薫。
        剣心は束の間、その必死の面持ちに見とれてから―――



        「変じゃないでござるよ。だって、拙者もそうでござるから」



        と、素直な思いを口にした。



        「え、ほんとに?!剣心も?!」
        「その、なんというか・・・・・・そういう感覚だけ、時間が止まっている、という感じでござろうか」

        あまりにも気障な表現かと思ったが、他にしっくりくる言い方が見つからなかったのでそう言わざるを得なかった。
        しかし、薫は我が意を得たりというふうに「そう!わかる!そんな感じ!」と目を輝かせて大きく頷いた。

        「勿論ね、一緒に暮らしているわけだから、一緒にいるとほっとするし、くつろげるっていうか楽にしていられるっていうか、そういう感じがするのは、家族に
        なったんだなぁって思うんだけど・・・・・・それはそれとしてね、やっぱりまだ、どきどきする気持ちもあるんだもん。これって、わたしが変なのかなぁって思っ
        ていたんだけど」
        「全然変じゃないでござるよ。もし変だとしても、拙者も同じだから問題ないでござる」
        きっぱりと言い切る良人に、薫は心からほっとしたように「よかったぁ・・・・・・」と息をついた。


        「それはそれとして」
        「え?」
        「薫殿の洋装の制服姿は、拙者もぜひ見たいでござるなぁ」
        「・・・・・・後で妙さんに、そう伝えておくわね・・・・・・」




        恥ずかしいんだけどなぁ、と再びぺしゃんと突っ伏した薫の頭を、剣心は愛おしげに撫でた。








        ★








        無事にお詣りを済ませてきた妙が弥彦たちと合流し、河原の凧揚げは更に賑やかになった。
        やがて、遊び疲れた剣路が眠そうな様子を見せ始めたので、一同は揃って帰路へつく。

        こんなふうに正月を過ごすのは、四回目か―――と。
        うとうとする剣路を背負いながら剣心がそんなことを考えたのは、先程の、薫との会話の所為であろう。


        三年前は薫と祝言を挙げる直前で、二年前は薫の懐妊が判明する少し前で。去年は、剣路が迎えたはじめての正月で、あれから一年経って我が子も
        ずいぶん大きくなった。

        きっと、これからしばらくは、こうして正月を迎えるたびに「この一年でまた大きくなったなぁ」と、剣路の成長を実感するのだろう。そのうちに、もうひとりふ
        たりくらいは、家族が増えるのかもしれない。
        毎年一緒に正月を過ごしている弥彦も燕も、いつのまにか背が伸びて幼顔が抜けてきて、大人びた表情を見せるようになった。そういえば弥彦は昔でい
        うところの元服の年で―――いやはや子供の成長は早いな、と思う。そう、時間は刻々と流れ、人も街も姿を変えてゆく。



        しかし、変わるものもあれば、変わらぬものもある。



        君への恋心を自覚した頃の、あの感覚。
        仲間たちと笑い合っているとき、君の笑顔だけ特別きらきら輝いているように見えて。

        君を見ていると心があたたかくなるようで、でも同時に胸が詰まるようで苦しくてなんだか泣きたいような気持ちになって。
        触れたくて、もっと近くに行きたくて、でも近づき過ぎるのも怖くて。


        あの時のあの想い、あの感覚を、今でもはっきりと覚えている。
        正確には―――あの頃のあの想いは、今も変わらず此処にある。


        あれから四年の月日が経って、君と結ばれて夫婦になって、剣路という息子も授かった。
        子供を育てるという、国の仕組みを変えるのにも勝るとも劣らぬ大仕事にふたりで取り組んで、それは今も続いている。
        君と俺は家族になって、一緒にいるのがとても自然な、互いが安らげる存在になった。

        けれども、家族になっても恋が愛になっても、あの頃の想いは消えていないし変わらない。
        今も―――いつまでも、恋に落ちた瞬間の想いは俺の中にある。



        「・・・・・・剣路、寝ちゃったわね」


        隣を歩く薫が、そっと囁くように言う。
        「大はしゃぎでござったからなぁ。津南殿の凧、気に入ったようでよかったでござるよ」
        「今度また、改めてお礼に行きましょうね」
        「ああ、そうでござる・・・・・・な・・・・・・」


        ふっと目線を薫のほうに向けた、剣心の語尾が掠れた。



        懐かしい時間に思いを馳せていた所為だろうか。
        傾きだした冬の陽を背にした妻の髪に、一瞬、桜色のリボンがふわりと揺れたかのように見えた。



        「・・・・・・どうしたの?」
        ぱちぱちと目をしばたたく剣心に、薫は小首を傾げる。

        「ああ、いや・・・・・・何でもないでござるよ。ところで、薫殿」
        「ん?なぁに?」
        「いつか、女の子が生まれたら・・・・・・薫殿のように髪にリボンを結ったら、きっと似合うでござろうな」
        「・・・・・・え?!どっ・・・・・・どうしたの突然?!」
        「いや、えーと・・・・・・すまない、なんとなくそう思っただけでござるよ」
        心に浮かんだ事をそのまま口にしてみたものの、いざ言ってみると途端に気恥ずかしくなって、剣心は視線を泳がせる。つられて、薫も頬を赤らめた。


        「え!何やの?!薫ちゃん、ふたりめおめでたなん?!」
        「ちっ・・・・・・違いますっ!ってゆーか妙さんどういう耳してるんですかー!」

        前方を歩いていた妙が耳ざとく会話を聞きつけて、いきいきとした目を向けてくる。「あ、わかった今年の目標だろー」と尻馬に乗ってきた弥彦に、薫は「生
        意気な口きいてるんじゃないのー!」と駆け寄り拳を振り上げた。毎度おなじみの師弟喧嘩が勃発しそうになり、燕が慌ててなだめにかかる。
        ああ、こんなやりとりも変わらないな―――と。皆の姿を眺めながら、剣心は頬を緩めた。



        「まだ、どきどきしちゃうの」と言ってくれた君。
        君も同じように感じていることが知れて、とても嬉しかった。

        出逢った年の、恋が始まった瞬間のときめきは、今も俺と君のなかにある。
        色褪せることはなく、今もその想いは鮮やかに―――まるで、そこだけ時間が止まったかのように。



        燕と妙が仲裁してくれたおかげか、一触即発だった薫と弥彦は和解を成立させたらしい。薫は、殴るかわりに弥彦の額を指で軽く小突くと、くるりとつま先
        で身体を回すようにして、剣心の方をふりかえる。迷いなく向けられる笑顔がまぶしくて、剣心は目を細めた。


        ほら、今だって君の笑顔は特別きらきら輝いていて。
        くるくる変わる表情が愛しくて、胸が苦しくなって泣きたいような気持ちになって―――




        きっと来年再来年と、いくら年を重ねても、どれだけ時が流れても、この想いだけは変わらない。






        願わくば―――君の「どきどき」も変わらずそのままでいてくれますように。
        透き通る青があざやかな夕映えに染まりはじめた初春の空に、剣心は願いをこめて呟いた。













        了。








                                                                                     2021.01.17







        モドル。