その日は、薫のほうが早く目が覚めた。
少し、暑い。
夏布団はお腹のあたりに申し訳程度にかかっているくらいだけれど、剣心の腕に包まれているからだ。
首を動かすと、すぐそこに彼の顔がある。綺麗だな、と思った。
きりりと形のよい眉の下に弧を描く目蓋は、長い睫毛にくっきりと縁取られて。僅かに乱れた明るい色の髪が、頬の十字傷にうっすら影を落としている。
何か、夢でも見ているのだろうか。寝息を紡ぐ唇が、ものを食べているかのようにもぐもぐと動いた。ああ、赤ちゃんみたい、と。薫はくすりと笑った。
笑ったついでに、首を伸ばして、唇に触れる。
彼は、気づかない。
もう一度、今度は頬に、鼻に、顎の先に。そしてふたたび、唇に。
そこで、重ねた唇がふるりと動いた。
目を開けると、彼のまぶたがゆっくりと持ち上がるのが見えた。
すこしの間、ぼうっと薫の顔を見ていた剣心は、やがて驚いて目を大きくする。薫が唇の上で「おはよう」と囁くと、剣心はぎゅうっと彼女を抱きしめた。
その後、剣心から「お返し」とばかりに沢山口づけられた。
布団の上で、二匹の子猫のようにじゃれあっているうちに可笑しくなって、ふたりで「暑い!」と声をあげて笑った。
ゆるゆると起き出して、ふたりで朝食を作る。
薫が手を動かしていると、ふっと横から近づいた剣心が、頬に接吻をしてきた。「台所は危ないからやめて」と、薫は笑いながら苦情を訴えた。
目覚めに薫から口づけられたのが余程嬉しかったのか、その日、剣心は何かにつけては薫に顔を寄せて、頬に唇にと口づけを贈った。
稽古にやってきた弥彦や他の門下生たちが道場にいる時に、母屋を出掛けに口づけられたのには、「すぐ近くに皆がいるのに」とどきどきした。
彼らが帰った後、井戸端で顔を洗おうとしていると、つん、と髪を引っ張られた。ふりむくとすぐ近くに剣心の顔があったので、慌てて彼の胸に手をついて
押し返した。
「だ、だめ!」
「どうしてでござる?」
「汗、たくさんかいちゃったから、着替えてから・・・・・・」
恥ずかしそうにそう言われて、剣心は「ふむ」と呟く。そして、「こっちならいいでござるか?」と、薫の手をとった。
うやうやしく、手の甲と、指に口づける。
薫は頬を染めて、「ありがとう」と言った。
口にしてから、ここでお礼を言うのはおかしかったかなと気づいたが、嬉しかったのでまあいいかと思うことにする。
午後からは、ふたりで出かけた。
家を出たときはよい天気で、夏の日差しが足下に濃い影をつくっていたが、帰路につく頃になると、もくもくとわき出た大きな雲が空を覆った。
あっという間に暗くなり、雨粒が落ち始める。
にわか雨に、剣心と薫は道端の木の下に逃げ込んだ。
ふたり寄り添って、木の幹に背中を預ける。枝振りの見事な大木だ。にわか雨くらいならば、繁った葉が雨粒をしのがせてくれるだろう。
「・・・・・・ひゃ!」
薫が、驚いて肩を跳ね上げた。
葉の間を伝って落ちてきた大きな水滴が、頬の上で弾けたからだ。
「冷たい・・・・・・」
しかし、その冷たさが気持ちよくて、薫は笑う。その笑顔に引き寄せられるように、剣心は彼女を抱き寄せた。
ちゅ、と。雨粒が落ちた頬に、口づける。
「ちょ・・・・・・剣心」
「誰も見ていないよ」
確かに、誰もが軒先や別の木の下へと雨宿りに走ったのか、道に人通りはない。もうひとつ雨粒が落ちて、薫の前髪を濡らした。剣心は、そこにも口づ
けを落とす。
木の葉が支えきれなくなった滴が、ひとつ、またひとつと落ちてくる。雨粒があたったところに、剣心はひとつ、またひとつと口づける。
くすぐったさに薫は笑い、自分も同様に唇を寄せる。雨粒が濡らした剣心の肩先に、頬に、首筋に。
触れ合った、着物越しの体温が熱くて、雨の滴と接吻が心地好い。
夏の雨と口づけが、ふたりをひそやかに濡らしてゆく。
やがて、雲が晴れて空が明るくなってきた。
すぶ濡れになる前に、雨が止んだのは幸いだったと言えようが―――
「もう少し降っていてもよかったのに」と残念そうに剣心が囁き、薫は答えるかわりに彼の十字傷に口づけた。
そして、ふたりはどちらともなく唇を重ね合う。
雨粒が、剣心の前髪を伝って落ちて、薫の頬を濡らした。
帰宅して、夕飯を作って差し向かいで食べて、お風呂に入ってさっぱりして。
その間も、「隙を見て」は何度も口づけを交わして、その度にふたりでくすくす笑って。
やがて夜が更けて、ふたりは寝所で今日いちばんの熱い口づけを交わす。
唇を重ねたまま、剣心は薫の寝間着の袷を押し開く。耳たぶに、細いうなじに、浮き出た鎖骨に、まるい肩に。
今日何度も口づけたところに、あるいは、日のあるうちは触れられなかったところに、丹念に、唇を落とす。
「あ・・・・・・」
半ば反射的に、薫はあらわになった胸を隠そうとする。剣心はその手をとって、指先に手の甲に口づける。昼間、そうしたように。それから手のひらに、脈
打つ手首に、やわらかな腕の内側に。
腕を辿ってきた唇が、胸のふくらみに強く吸い付いて、薫は思わず首を反らせた。口づけの雨が、白い身体に紅い痕をいくつも刻んでゆく。
腰の曲線を撫で下ろした剣心の手に、脚を開かされる。
雫がこぼれそうになっているそこに、唇が触れる。
「や・・・・・・!」
彼の舌が、自分のなかに入りこむのを感じて、薫はたまらず声をあげた。
熱くて、苦しくて、いとおしくて、今は口づけだけじゃ足りなくて、懸命に彼にむかって手をのばす。
その手を待っていた剣心が、顔を上げる。覆い被さって、身体を重ねる。
抱き合ってひとつになった瞬間、薫の目から涙がこぼれた。
雨粒よりもあたたかな滴は、頬の横を滑り落ちて、敷布に散らばる黒髪をそっと濡らした。
「いくつ、したのかしら」
さんざんに愛された後、彼の腕を枕にしながら薫が呟いた。
「え?」と、不思議そうに剣心が聞き返す。
「接吻。今日一日で、何回したのかしら」
素朴な疑問に、剣心は少し考えるかのように瞳を動かし、「明日は、数えてみようか」と答えた。
「明日も、たくさんするの?」
「嫌でござるか?」
「嫌じゃないけど」
「なら、よかった」
にこにこと嬉しそうに笑う剣心につられて、薫も笑顔になる。
互いに、その笑みに引き寄せられるように顔を近づけて、今日最後の口づけを交わす。
明日も、こんなしあわせな接吻をいくつも交わせますように。
そう願いながら、ふたりは揃って目を閉じた。
了。
2017.08.27
モドル。