綺 麗










        「・・・・・・あ、鶯」



        高い音色の笛を、軽やかに奏でるような鳴き声。
        今年初めて耳にしたその鳥の声は、ごく近くから聞こえた。

        庭の梅は今が見頃で、白にほんの僅かの紅を落としたような慎み深い色の花びらが微かな風に揺れている。
        甘い香りに誘われて、羽を休めにやってきた春を告げる鳥。それはなんとも趣のある光景だろう。


        薫は畳の上に投げ出していた身を起こす。肩に乗った剣心の腕をすり抜け、閉められた障子のほうへ膝で歩こうとした。
        「こら、薫」
        しかし、追いかけるように剣心の腕は腰に絡みつき、薫の身体は起き上がった剣心にあっさりと引き戻される。

        「・・・・・・鶯を見たかっただけよ」
        「その格好で障子を開けるつもりでござるか?」
        明るいすみれ色の着物を一枚肩に掛けただけで、その下は何も身につけていない薫は唇を尖らせて抗議した。
        「ほんのちょっとだけ、隙間から覗くくらいなら大丈夫よー」
        「だめ」
        「・・・・・・何よ、脱がせたのは剣心じゃないの」




        それは先刻のこと。まだ太陽も高い位置にある時間だった。


        前触れもなく伸ばされた剣心の指に、長い髪を束ねているリボンをするりとほどかれた。
        「どうして解くの?」と、子供のような仕草で首を傾げた薫に、剣心は平素と異なる色の笑みを浮かべて「仰向けになったら邪魔でござろう?」と、答えた。

        彼の意図に気づいた薫は慌てて逃げようとしたが、時既に遅く。後ろからしっかりと抱きしめられ、身動きを出来なくされた。
        固く結んだ帯締めは、いともあっさりとほどかれて―――咲きかけの花びらがむしり取られたかのように、帯や襦袢が畳の上に散らばった。


        そして最後に残った薫の白い裸身を、剣心は狂おしく抱きしめたのだった。







        「・・・・・・やめてって言ったのに、意地悪」
        「そんなに、嫌だったでござるか?」
        薫を腕の中に閉じ込めて、ぴたりと耳元に唇を添わせて囁くと、触れ合った部分から彼女が震えたのが伝わった。
        「あ、だめっ!」
        肩からはらりと着物が落ち、再び露わになった身体を隠そうとする薫の手首を、剣心が捕まえる。
        腰まで届く、おろした長い髪。艶やかな濡羽色が肌の白さをより際立たせて、なにも身につけていないにもかかわらずその鮮やかな対比は豪奢と言うし
        かなくて―――剣心は眩しいものを見るように、目を細める。

        「だから・・・・・・明るいから、嫌なの・・・・・・」
        「どうして?」
        「だ、だって」
        ぐっ、と掴まれた手首に力がこめられたかと思うと、そのまま引っ張られるようにして、畳に身体を倒された。
        「やぁ・・・・・・っ!」
        両手の戒めはそのままに、剣心は薫の羞恥に朱がさした頬と、組み敷いた身体を愛おしげに見下ろす。


        「ね・・・・・・恥ずかしいから、あんまり見ないで・・・・・・」
        「明るいところで、きちんと見たいんでござるよ。薫殿きれいだから」
        その言葉に薫はますます赤くなって、視線から逃れるようにそっぽをむく。相変わらずの初々しい様子に、剣心はつい笑みをこぼした。
        手首を捕まえていた右手をゆっくりと腕の内側へと滑らせ、二の腕を辿り、鎖骨から胸へ。きゅっとくびれた腰から、張りのある腿へと。
        輪郭をなぞるように下へ下へとむかって身体を撫でると、薫の唇から切なげに息が零れる。

        「・・・・・・弁天様を抱いているみたいだ」
        細い腰に腕をまわしながら呟くと、薫は小さく首を横に振った。
        「そんな、変なこと言わないで・・・・・・冗談にしても、罰当たりでしょう」
        「わかってないなぁ」
        「んっ・・・・・・何を・・・・・・?」

        薫は、わかっていない。
        だって実際誇張なしに、彼女の肢体の美しさといったら弁天様か菩薩様かというくらいなのに。薫自身はそれをわかっていない。自覚していないのだ。



        初めて薫を抱いた夜、まだ記憶に新しいその夜の驚きを、剣心は鮮明に覚えている。



        薄い寝間着の下に隠れているのは、まだ幼い、未完成な少女の身体だと思っていた。
        だって、竹刀を握る指はあんなに細くて、襟元からのぞく首筋はなんとも華奢で―――
        しかし、薄明かりの中ほの白く浮かび上がった肢体の描く、滑らかな、女性らしい曲線に、勝手な想像は見事に裏切られた。
        そして―――剣心はむしろ狼狽えた。

        開いたばかりの木蓮のような白い肌。抱きしめられるのを待っているかのように、頼りなく細い腰。
        そこから続く腿までの線の美しさ。まるい胸のふくらみは、横たえてもなお豊かで。
        ずっと想い焦がれていた彼女を抱ける、それだけでもう、慄えがこみ上げてくる程だというのに。そのうえ、目の前にいる愛しいひとは、これまでに目にした
        こともないような女神のような身体をしていた。



        きっと、もうすぐ自分は理性とかそういうものをみっともないくらい見失ってしまうだろう。
        そう悟って、剣心は狼狽えたのだ。



        そしてそのとおり、白い腕が剣心に向かっておずおずとのばされた瞬間から、剣心は夢中で薫を抱いた。
        猫のようにしなやかな身体は、しっかり抱いていないと逃げられてしまいそうで。
        肌理の細かい肌は、ともすれば引き裂いてしまうのではないかと思う程に柔らかくて。
        生娘の彼女は、時に怯え、恐怖して切れ切れの泣き声を漏らしたが、そんな薫を気遣うことすら幾度も剣心は忘れた。

        我に返ったのはすっかり彼女を自分のものにしてしまった後のことで、剣心は腕の中、頬に涙の跡を残しながらもとろんと眠そうな表情の薫に何度も謝っ
        た。すると、謝罪される意味がわからず不思議そうな様子で「嬉しいんだから、謝らないで?」と、しっとり汗ばんだ腕を首にまわしながら微笑むものだか
        ら、たった今反省したばかりだというのに、もう一度彼女に襲いかかりそうになった。



        流石にその時は自制したが―――箍がどんどん緩んできているのは確かだな、と。
        剣心は薫の胸に顔をうずめながら、頭の中でつぶやいた。


        「ねぇ、重いよ剣心」
        普段は晒で隠しているふくよかな胸の上に頭を乗せられて、しかし邪険にできず薫は困った声をあげる。
        「気持ちいいでござるよ」
        「・・・・・・馬鹿」
        はぐらかされた薫が「仕方がない」というように諦めて口をつぐむと、剣心はそのままの姿勢で彼女の腕をそっと掴んで、指を這わせた。

        指先から伝わるのは、たおやかな優しい感触。彼女の身体は女性らしい柔らかさと芯のある強靭さが同居しており、こうして抱く度にいつもその魅力に溺
        れてしまう。持って生まれたものもあるのだろうが、幼い頃から剣術で鍛えてきたからなのかな、と。そんなことを考えながら太腿をさぐるように手を伸ば
        すと、いよいよ困惑した薫がぐいぐい肩を押して抗議してきた。
        「やー! もういい加減許してよぉ!」
        「嫌だ」
        「もうっ、そんな、子供みたいな事・・・・・・」

        なんとか自分の上から彼の身体を退かそうと、剣心の肩に手をかけ押し戻そうとしていた薫は、その指に伝わった感触に気づいて不自然に言葉を途切れ
        させた。
        「・・・・・・薫?」
        抵抗されることよりも、むしろ言いかけの台詞のほうが気になって、剣心は顔を上げ、次いで身体を起こした。
        「どうか、したのでござるか?」
        抗うのをやめたかわりに黙りこんだ薫に、問いかける。
        薫は畳に手をついて起き上がると、向かい合わせになった剣心の肩口にそっと触れた。


        「・・・・・・明るいと、ちゃんと見えるんだわ」
        「え?」
        「傷が」


        白い指がなぞるのは、ひきつれたような、刀傷とは違った痕。
        「ああ・・・・・・これは、志々雄に咬まれた傷でござるな」
        「かまれた・・・・・・」
        「奴に喰い千切られたんでござるよ。あれは流石に、意表を突かれたな」
        そう、おどけたように言われたが、明らかに肉を「持っていかれた」ような痛々しい傷痕に、薫は唇を噛んだ。

        「残っているのは、頬だけじゃないのよね」
        「ん?」
        「明るいから・・・・・・いつもよりはっきり見えるの。あちこちの」
        傷が、と。殆ど音を成さないくらいに、語尾がかすれる。
        普段は着物の下にある、今までの闘いで負った、沢山の傷痕。障子を透かして届く陽の光の下、それはまざまざと晒されて。


        「・・・・・・怖いでござるか?」
        「え?」
        その言葉の意味がわからず、薫は首を傾げる。
        「それだけ沢山、闘ったというしるしでござるからな。それだけ沢山―――斬ってきたという証拠だから」

        平坦な声でそう言うと、薫は大きな瞳を何度かまばたきさせて、剣心をじっと見つめた。
        そして―――白く長い指を、すっと彼の頬へと伸ばす。


        「・・・・・・って、痛たたたたたっ! ちょ、薫っ!?」
        「馬鹿なことを言うのは、この口かしらー?」


        ぎりぎりぎり、と。思い切り頬を引っ張って抓られて、剣心は不明瞭な発音の悲鳴を上げる。
        薫は目を半眼にして剣心を睨みながら「わたしが、剣心を怖がるわけ、ないでしょう?」と、一音一音区切るように言って、ようやく折檻の手を離す。
        剣心は抓られた頬をさすりながら、「いや、拙者が悪かった」と謝罪しつつ、何故か口許を緩ませる。

        「ちょっと、どうしてそこで笑うのよ? やっぱり馬鹿にしているの?」
        「嬉しいんでござるよ、そうやって怒ってくれるのが」
        「・・・・・・わたしは、嬉しくないもん。もう、変なこと言わないで」
        「うん・・・・・・ありがとう」
        腕を伸ばして、彼女の腰を引き寄せる。薫は素直に剣心の胸におさまった。


        頬の十字傷だけではなく、身体のあちこちに残った傷は今までの闘いの記録のようなものだ。それはここまで生き抜いたことへの勲章と誇れるものかもし
        れないが、罪の意識を喚起するものでもある。
        そんな諸々を全部抱えた上で生きていこうと決めたのは自分自身で、薫はそれをすべて承知で全部を受け入れてくれた。更には、生涯を共にすることを
        誓ってくれた。


        ―――それを、わかってはいても、不安になってしまう。


        薫が大切だからこそ、薫を強く想っているが故に。彼女に嫌われることを、否定されることを、何より恐れている。まるで幼い子供が、暗い夜道で母親とは
        ぐれてしまうのを怯えるかのように。
        だから時折、今のように馬鹿げたことを口にしては薫に叱られ、その度に叱られたことを喜んでいる。ますますもって子供のようだと自覚はあるのだが、彼
        女の前では甘ったれな少年に戻ってしまう自分を、剣心はどうすることもできなかった。




        まだ、鶯は庭の梢に居るのだろう、鳴き声が聞こえる。
        薫は暫くの間大人しく剣心の胸に身体を預けていたが、やがて小さく身体を動かして、そっと剣心の腕を探った。

        「ね、この傷覚えてる?」
        「ん?」
        視線を落とすと、彼女が示しているのは腕に刻まれた一条の斬り傷。
        かなり薄くはなっているが、つけた相手は記憶から消すことが出来ないほど、強烈な印象で。
        「・・・・・・ああ、刃衛と闘った時のでござるな」


        あれは一年前のこと、まだふたりが出逢って間もない頃に起きた事件だった。
        あの時既に、薫はこのひとと離れたくないと思うようになっていたし、剣心は彼女のもしもの事があったらと考えると、頭の中が真っ白になった。

        「あの時、守ってくれてありがとう」
        「いや、そんな、拙者はただ・・・・・・」
        ただ、君を失いたくなかったから。
        口にすれば流石に気障すぎるだろうから言わずに濁してしまったが、実際、あの時はその一心で動いていた。

        「それに、あの時は結局拙者の不注意で、薫殿を危険な目に・・・・・・」
        「でも、その後も何度も守ってくれたでしょう?」


        腕の中の薫が、つい、と頤を上げて剣心の顔を仰ぎ見る。
        曇りの無い黒い瞳は澄み渡った夜空の色。
        毎日目にしているその色に、剣心はいつものことながら見とれてしまう。



        「守ろうとして、助けようとして負った傷の痕が、怖いわけがないわ。怖いどころか―――とても、綺麗よ」



        瞳を柔らかく細めて、ふわり、と薫は微笑んだ。
        どこまでも優しいその表情は、すべてを赦してくれる暖かさに満ちていて―――その笑顔に、幾度も剣心は救われてきた。


        「わたしよりも、ずっとずっと・・・・・・綺麗」
        そう言って薫は、肩口の醜く引き攣れた傷に、そっと口づける。



        「・・・・・・薫」
        「うん」
        剣心は照れくさそうに笑む薫をじっと見つめていたが―――おもむろに彼女を強く抱きしめ、唇を重ねた。

        「っ! けん、しん・・・・・・!?」
        戸惑いの声を封じるように、髪の中に梳き入れた指に力をこめ、ぐっと頭を押さえこむ。
        「ふ、ぁ・・・・・・」
        突然の、咬みつくような接吻。薫は困惑しながらも彼のしたいように身を任せたが、剣心は腕の中の薫という存在をもっとしっかり確かめるかのように、抱
        きしめる腕の拘束を強くしてくる。息苦しさと甘い陶酔感に薫の頭の芯がぼんやり麻痺してきた頃、漸く剣心は唇を離した。
        「は・・・・・・」
        息を整える間は与えられなかった。酸素不足で力の抜けた身体は、再び剣心の手によって傾けられ、畳の上に押しつけられる。

        「やっ・・・・・・ちょ、ちょっと剣心!」
        「・・・・・・ごめん、でも、薫殿の所為だ」
        「っあ!」
        ぐい、と脚を開かされて、その間に剣心が身体を置く。指で腿の内側をなぞられて、薫はびくりと身を震わせた。
        「う、嘘っ・・・・・・もう嫌っ・・・・・・!」
        明るい中で好きにされることの恥ずかしさが蘇った薫は、うなじまで真っ赤に染めてぶんぶんと首を横に振る。


        「ごめん・・・・・・本当に、もう少しだけ・・・・・・」
        泣きそうな、潤んだ剣心の声。
        ぴたりと、薫は抗うのをやめ、おそるおそる自分を押さえつけている彼の顔を見た。
        「薫がそんなふうに言うから・・・・・・もう、おかしくなりそうだ・・・・・・」



        好きすぎて、愛しすぎて。
        せめてもう一度君を抱かないと、溢れる感情に押しつぶされて気が狂ってしまう。



        泣き出す寸前の子供のような顔の剣心に、薫は恥らうことを忘れ、腕を伸ばして彼の首に抱きついた。
        「あの・・・・・・わたし、そんなに変なこと言った・・・・・・?」
        気遣う言葉を紡ぐ唇をもう一度塞ぎながら、剣心は薫の均整のとれた身体にゆっくりと指を這わせた。


        ああ、そうだ。
        君がこんなに綺麗なのは、その心根がそのまま表れているからなんだろうな。

        暖かく優しく俺を包んでくれる、光のような。
        君のこころの美しさが、そのまま。




        「・・・・・・やっぱり、薫殿のほうが綺麗でござるよ」




        耳元で囁く声と乱れる息遣いに、鶯の声が遠ざかる。
        まだ少し困った顔のまま、薫は静かに瞳を閉じた。













        了。






                                                                                      2014.03.25






        モドル。