きみと見る風景







        真紅に黄色に橙色。
        秋が深まるとともに衣を着替えるかのように紅葉した木々が、目に鮮やかだ。

        このあたりは坂が多い街並みで、今剣心が歩いている道の右手は森になっており、葉はすっかり色づいている。小高くなった場所のてっぺんに
        は神社があって、もう少し進むと、境内に続く石段が見えてくるはず―――そう思って歩を進めていると、道の向こう側から賑やかな足音が聞こ
        えてきた。

        程なくして、前方からやってきたのは胴着を身に着けた少年の一団。彼らに向かって剣心が軽く手を挙げると、先頭を走っていた少女がちょっと
        驚いた顔をして、それからすぐに笑顔になってぶんぶんと手を振って返す。
        少女は、後ろに従えたまだ子供と言っていいような年端の少年達に呼びかけた。
        「みんなー! この石段を登ったら、上で休憩ねー!」
        少女の―――薫の呼びかけに、少年たちは「はーい」と素直な声で応じる。
        胴着姿の少年剣士たちが十人程、薫に続いて駆け上がる。そのしんがりについて、剣心はゆっくりと石段を登った。





        「びっくりしちゃった、いきなり目の前に現れるんだもん。警察の用事は終わったの?」
        「ああ、この時間なら丁度薫殿が通りかかるのではないかと思ったのだが、当たりでござったな」

        高い石段を登りきった直後にもかかわらず、さして疲れた様子でもない薫は、突然現れた剣心に嬉しそうに笑いかけた。走った後の彼女の頬は
        健康的な桃色に染まっており、剣心は眩しいものを見るように目を細めた。
        走りこみをしていた少年たちは神社の境内で思い思いに「休憩」を楽しんでおり、のんびり腰を下ろして同輩と話をしている者のいれば、休むどこ
        ろか追いかけっこを始める者、寝そべって雲が流れるのをぼんやり眺めている者など様々だった。

        先日から薫は、新たに一軒の道場から代稽古を頼まれ、月に何度かはそちらに赴くようになった。彼女が教えるのは主に子どもたちで、竹刀を
        初めて手にしたばかりという少年も多い。「体力づくりに走っているんだけど、最近は紅葉が綺麗でつい目がいっちゃうの」と、何かの折に薫が話
        したのを覚えていた剣心は、ちょうど出くわすかもしれないと思って警察署からの帰り道に遠回りをしてみたのだった。


        「ね、せっかくだから、お参りしていきましょ?」
        つい、と薫が剣心の手を引く。
        剣心は口元をほころばせて頷いた。





        社前で手を合わせた薫は、静かに目を閉じ、長いこと動かずにいた。剣心は一拍先に頭を上げ、隣に並ぶ白い横顔をそっと盗み見る。


        「何を真剣に祈っていたのでござるか?」
        薫は深々と一礼してから漸く顔を上げ、剣心の目をじっと見つめた。
        「お祈りというよりは、御礼をしていたの」
        「御礼とは・・・・・・何の?」
        「夢が叶いました、ありがとうございます、って」
        「夢?」
        語尾に疑問符がついたが、しかし薫はそれには答えず、爪先立ちでくるりと回るようにして社殿に背中を向けた。
        「この神社ね、お父さんやお母さんが生きていた頃、家族でよく来ていた場所なんだ」
        その声には、懐かしむような響きがあった。

        「いつもわたしが走って石段を登って・・・・・・その後から、お母さんの手を引きながらお父さんが登ってきていたの。わたしはてっぺんでふたりが到
        着するのを待っていて、それから三人でお参りをしていたのよ」
        薄い雲が流れる秋の空に、少年たちのはしゃぐ声が吸い込まれてゆく。薫は彼らから少し離れた方向へと、ゆっくり歩き出す。
        「石段の上から、お父さんとお母さんが手をつないで上がってくるのを見るのが、好きだったわ。夫婦というより、恋人同士みたいで」
        薫の視線の先には石段があった。更に先は視界が開けて、下に広がる街を一望できる。

        「ご両親は、ずっと前からこの神社に詣でていたのでござるかな」
        恋人同士、という言葉から思いついたことをぽつりと呟くと、薫は「正解」と笑った。
        「わたしが生まれるずっと前から、ふたりの大好きな場所だったみたい。わたしも赤ちゃんの頃から、抱かれて連れてこられていたんですって」
        そう語る薫の目は、石段の先や見事な眺望ではなく、もういない両親の面影を空に透かして見ているようだった。


        剣心は、会ったことのない薫の両親の姿をぼんやりと想像してみる。幼い赤子を愛おしげに抱いて、社前に手を合わせる夫婦。夫に手を引かれ
        て石段を登る母親は、やはり薫に似た面差しだったのだろうか。だとしたら、きっと笑顔の綺麗な女性だったのだろう。そんなことを考えていたら、
        つん、と袖を引かれた。


        「・・・・・・あのね剣心、とっておきの場所があるんだ」


        薫は素早く少年たちに目を走らせ、こちらを見ている者がいないことを確認してから、ぱっと身を翻した。
        長い髪が弧を描く。剣心は駆け出した薫の小さな背中を追って地面を蹴った。






        「薫殿? いったい何処へ・・・・・・」

        何も訊かずに薫について走り出した剣心だったが、薫が境内の藪をがさがさと掻き分けて中に入って行くのには流石にそう問いかけた。
        しかし、自分も枝を除けながら彼女の後をついてゆくと、すぐに理由は知れた。

        「これは・・・・・・」
        驚いたように呟く剣心に、薫は満足げに微笑む。


        眼下にぱっとひらけた世界。
        藪を抜けるとそこは特別見晴らしのよい場所になっており、秋晴れの空の下、自分たちが暮らす街を一望することができた。


        「成程・・・・・・これは見事でござるなぁ」
        高い場所を渡ってくる心地よい風が頬を撫でる。
        遥か遠くまで見渡せる眺めに、剣心は感心した声を漏らした。薫は、そんな彼に向かって悪戯っぽく問いかけた。

        「さて、ここで問題です」
        「え?」
        「ウチは、何処にあるでしょう?」

        剣心はきょとんとして薫の顔を見て、それから首を街のほうへと向ける。
        少しの間視線を彷徨わせていたが、じきに驚いたように目をみはった。
        「見つかった?」
        「ああ・・・・・・あそこでござるな」
        そう答えて指差したのは、ぴたりと真正面。薫は嬉しそうに頷いた。
        「確かに、これはとっておきの場所だ」
        「でしょ?」


        そう、ただ見晴らしがよい場所なら他にもあるだろう。
        しかし、神谷道場が視界の正面に来る位置は、この地点のみというわけだ。


        「こうして見ていると、道場が街の真ん中のように見えるでござるな」
        その感想に、今度は薫が驚く番だった。まじまじと剣心の顔を見つめる。
        「・・・・・・何でござるか?」
        「お父さんも、昔おんなじ事言ってた・・・・・・」
        ふたりは顔を見合わせて、そして同時に微笑んだ。

        「ここも、家族で来た場所でござるか」
        「そう、小さい頃はここに来たら、お母さんがいつも『うちは何処?』って訊いたの。その度にわたしはまっすぐ前を指さすのね」
        子供の頃の再現のように、薫はぴっと正面を指さしてみせる。
        「わたしが生まれる前に、お父さんがこの場所を見つけて、お母さんに同じ質問をしたんですって」

        懐かしそうに亡父亡母の話をする薫の声を聞きながら、剣心は今更ながら彼女の両親が既にこの世にいないことを残念に思った。
        彼女のことを慈しみ育んできた二人に、自分も会いたかった。
        そんなことを考えていたら、ふいに薫が社殿の前で口にした言葉が頭をよぎり、そういえば、あの話が途中だったかと思い出す。


        「薫殿」
        「なぁに?」
        「いや、さっき言っていた夢とは、どんな夢だったんでござるか?」

        薫はゆっくりとまばたきを繰り返してから、隣にいる剣心に顔をむけた。
        「・・・・・・いつかね」
        白い頬に、ほんのりと血を上らせて、小さな声で続けた。
        「いつかわたしも、好きなひとができたら、この場所を教えてあげようって・・・・・・そう思っていたの」


        いつか自分にも大切なひとができたら、一緒にこの場所に来たいと。
        そして同じ質問をしようと思っていた。
        父が、母にしたように。
        母が、薫にしてくれたように。


        「それが・・・・・・ささやかだけど夢だったのよ」
        隣に立つ誰よりも大切なひとに向かって、優しく言葉を続ける。
        「剣心のおかげで、今叶ったわ。どうもありがとう」
        秋の柔らかな陽光を頬に受けながら、薫は照れくさそうに笑った。

        思いがけない「夢」の内容に、剣心は戸惑うように口を開閉させて、薫に返す言葉を探した。が、とっさには出てこない。
        伝えるべき言葉が簡単に見つからないくらい―――嬉しかったのだ。薫の「夢」が。
        うまく言い表せないことがもどかしくて、剣心はおもむろに腕を伸ばし薫の手をとった。指を絡めるように繋いで、ぎゅうっと力をこめて握る。
        薫は少し驚いた様子で剣心の顔を見てから、何も言わずその手を握りかえした。


        「その・・・・・・薫殿」
        「うん」
        たっぷり間をとった後、剣心は漸く喋りだす。
        「夢が、叶ったのなら・・・・・・次の新しい夢を、拙者が決めてもいいでござるか?」
        意外な台詞に、薫は首を傾げながらも「勿論よ」と答える。



        「いつか、子供が生まれたら、三人でこの神社に来よう」



        ただでさえ大きな薫の目が更に大きく見開かれた。蕾のような唇がふるりと震える。
        そんな薫の反応に気づいているのかいないのか、握った手を離さないまま剣心は勢いに乗ったように話を続けた。

        「大きくなったらこの場所の事を教えてあげて、母上殿と同じ質問をして・・・・・・ああ、そうしたら、その子が大人になったらきっと、また誰かを連れ
        てここにやって来るでござろうな。そしてまた・・・・・・」
        いきなり饒舌になって、鬼が笑うどころではない遥か先の事まで語り出した剣心に、薫はぷっと吹き出した。
        剣心は、はた、と我に返ったように語るのを止めて、薫を覗きこむ。片方の手で顔を覆いながら肩を震わせる薫に、気遣わしげに声をかけた。
        「・・・・・・薫殿?」

        ふるふると小刻みに細い肩を揺らしながら、薫は小さく首をふってみせる。
        「あ、ははは、ごめん・・・・・・だって剣心、気が早すぎるんだもん」
        「おろ?そうでござるか?」
        「早いわよぉ・・・・・・」
        声に笑いを滲ませながら、薫は顔を上げて剣心を見た。
        瞳にはうっすら涙が浮かんでおり―――これは笑いすぎて泣いたのだろうか、それとも―――


        薫は指先で涙を拭って、赤くなってしまった目を幸せそうに細める。
        「・・・・・・でも、嬉しい。ありがとう」
        可笑しくて浮かんだのと、嬉しくて溢れたのと。涙の理由は、その両方だろう。
        改めて、繋いだ手を剣心はしっかりと握りなおす
        「拙者のほうこそ・・・・・・ありがとう、薫殿」



        僅かに冷たくなった風にのって、境内の方から少年たちのはしゃぐ声が聞こえてくる。秋の日はじきに釣瓶落としに暮れることだろう。
        「・・・・・・そろそろ、戻らなきゃ」
        「そうでござるな」
        来たときと同じように、藪を掻き分けながらふたりは神社の方へ歩き出す。

        「今度は稽古のついでじゃなく来ましょうね、三人で来られるのはまだ先のことでしょうけど」
        「案外先の話ではないかもしれぬよ、頑張り次第ではじきに・・・・・・」
        「きゃー!やだやだ何言ってるのよ剣心のばかー!」
        直截的な言い方に薫は真っ赤になり、繋いだままの手をぶんぶん振って解こうとする。しかし剣心はしっかりと力を込めた手を離そうとはしなかっ
        た。
        「あはは、すまない。でも拙者割と本気でござるが」
        「・・・・・・!」
        「三人と言わず、四人五人で来られたらいいでござるなぁ」

        薫は降参、というようにため息をついて、こくんと頷いた。
        実際、自分も早くそんな日が来れば嬉しいなと思っているのだから。
        「そうね・・・・・・新しい夢も、そうやって叶ってゆくんだわ」


        薫だけの夢ではない。
        ふたりで抱く、新しい夢が。








        「みんなー!下りは転ばないよう、慎重にねー!」

        少年たちを率いた薫が、軽やかな足取りで石段を降りてゆく。
        彼らが全員下り終えたのを見届けてから、剣心はゆっくり石段を降り始めた。
        ここからの眺めもなかなかのものだった。登りの時と違って、空にむかって歩みだしているような気分になる。



        「今度は稽古のついでではなく・・・・・・でござるな」


        先程、薫から「夢がかなった」と言われたとき、本当に嬉しかった。
        彼女からの想いは勿論だが、なんだか自分が薫と亡き両親の輪の中に加わって、家族の一員になれたような気がしたからだ。


        ふと、思った。
        次に来るときは、薫の父親が母親にしたように、彼女の手をとって石段を歩こうか。


        百段あまりの急勾配を駆け上がってけろりとしている薫のことだ、実際のところそんな助けなど必要はないだろう。
        でも、それでも構わない。自分がそうしてやりたいのだ。


        またひとつ増えた、ささやかな夢。それこそすぐに叶うであろう小さな夢だ。
        そんな夢をふたりで幾つも重ねて、新しい思い出をどんどん増やしてゆこう。
        いつか自分たちの子供に語れるような、幸せな思い出を。




        剣心は足を止めて、水色から橙色に変わりつつある空と、その下の街並みを眺めた。
        初めて目にしたはずの石段から望む風景が、とても懐かしいものに感じられた。












        モドル。