君の名は








        「剣心」

        朝、目覚めたばかりの君が隣で「おはよう」とともに呼ぶ声。




        「剣心」

        心細いとき、上目づかいで着物の袖をちいさく引っ張りながら、呟くように呼ぶ声。




        「剣心」

        何か素敵なものを見つけた瞬間、いち早く教えようと瞳をきらきらさせながら呼ぶ声。




        「剣心」

        ・・・・・・どうしてだろう、君に名前を呼ばれると、こんなにも幸福な気持ちになれるのは。










        「初夏に生まれたから。ほら、薫風っていうでしょ」
        「ああ、風薫る季節」
        「それに、薫って字には、よい影響を与えるって意味もあるんですって。薫陶とか薫染とか」
        「おろ、つまり・・・・・・」
        「そう、よい指導者になりますように、って意味もこめて、薫なの」

        女の子に随分と期待を込めたものよねぇ、と薫は笑った。
        「ひょっとしたら父上は、生まれた子が男でも同じ名をつけるつもりだったのかもしれないよ。男名でも『薫』はアリでござろう」
        「うん、わたしもそう思っていた」
        くすくす笑いを零す唇を、剣心はくすぐるように指でなぞった。


        道場の跡取りに相応しいように、と願いをこめてつけられた名前。
        寝物語に、不意に剣心に「名前の由来」を尋ねられた薫は、いつか父親から教えられた名前の意味を懐かしむように思い起こしながら語った。

        「ね、剣心は?」
        同じ質問を返すと、剣心は薫の髪を指先で梳きながら、言葉を紡いだ。
        「両親は、心の優しい子になって欲しいからと、心太」
        「あは、そのとおりに育ったわ」
        「で、それじゃ剣客にしては優しすぎるから、師匠が剣心、と」
        「ふぅん・・・・・・」

        前髪を掻き分けて、剣心は薫のまるい額に唇を這わせる。
        薫は腕をのばして、剣心の首に柔らかく絡めた。


        「どちらも、いい名前」
        「ありがとう、薫殿も」
        「うん・・・・・・剣心、それなんだけど」
        「ん?」
        「頭の中では、呼び捨てにしてるでしょ、わたしのこと」



        今更、という感じではあるが、改めて指摘されて剣心はぎくりとする。



        「だって、時々ぽろっと口に出しちゃってるじゃない、薫って」
        「えーと・・・・・・してる時、とか?」
        「・・・・・・普段もよ!なぁに、気づいてないの?」

        露骨な表現にぱっと頬を赤く染めた薫が、照れ隠しのように尖った声をあげる。剣心はなだめるように、その唇に口づけを落とした。
        「・・・・・・すまない、それは、その、無意識に・・・・・・」
        「ん・・・・・・違うの、嬉しいんだから」
        唇から首筋へ、鎖骨をたどり胸元へと降りてゆく口づけに、薫はくすぐったそうに身をよじった。
        「むしろ、もっと呼んで欲しいくらいだけれど」
        「おろ、えーと、それは・・・・・・」
        照れたような困ったような剣心の声に、薫は小さく微笑む。
        「うん、でも今のままでもいいの。そのほうが、特別な感じがするし」
        「特別?」
        「そう」
        剣心の身体の重みを感じながら、薫は細い指をそっと自分の胸に沿わせて、祈るような面持ちで彼を見上げる。



        「剣心に『薫』って呼ばれるとね、胸の奥がぎゅっとなって、どきどきして、嬉しすぎて苦しいくらいになるの。だからね、いつもいつもそんなだったら、わた
        し幸せすぎて壊れちゃうから・・・・・・時々くらいがきっとちょうどいいんだわ」



        こういうのも貧乏性っていうのかしら? と薫が笑う。
        剣心はその笑みに、胸の奥を突かれたように感じて―――力いっぱい、抱きしめた。


        「・・・・・・剣心?」
        「うん」
        「剣心」
        「・・・・・・薫」


        舌に乗せてゆっくりと転がした、彼女の名前。
        そう、実際のところとっくの前から、頭の中では呼び捨てにしている。
        けれど、おいそれと口に出しては言えない。



        だって、君の表現を借りるなら、君の名は俺にとって「特別」だから。
        大事すぎて特別すぎて―――だから、そんな簡単にこの呼び方は、口にしたくない。



        「かおる・・・・・・」
        祈りの言葉を口にするように、彼女に呼びかける。
        大切な大切な、君の名前。


        「薫」
        「ん・・・・・・剣心・・・・・・」
        「薫」
        耳にぴったりと唇を寄せて、繰り返し囁く。
        身体の奥に心の奥に、直に届くようにと、ありったけの想いをこめて。

        「ねぇ、剣心」
        「なに、薫」
        「・・・・・・壊れそう」
        ふるえる、声。
        声だけではなく、抱きしめた細い身体も、震えている。


        「どうしよ・・・・・・嬉しくて、わたし、ばらばらになっちゃいそう・・・・・・」
        「薫」
        「けん、し・・・・・・」
        「・・・・・・薫」
        今にも泣き出しそうな薫の唇を塞ぎながらも、剣心は彼女を呼ぶのをやめなかった。
        「拙者も」
        「え」
        「拙者も薫に呼ばれるたび、同じように感じているよ」


        朝に夕に、一日に何度も、俺を呼ぶ君の声。
        どうしてだろう。どうして君が紡ぐ俺の名は、こんなに特別な響きで届くのだろう。
        今までずっと呼ばれてきた名前。誰もが口にして、そう呼んできたのに。
        なのにどうして、それは君の唇に乗っただけで、君の声が奏でるだけで、こんなにも心を甘くひっかくのだろう。


        「わたしと、おんなじ?」
        「そう」
        「・・・・・・剣心」
        「もっと、呼んで」
        「剣心」
        「ん、薫・・・・・・」



        ああ、君も同じように感じているんだね―――



        名前を呼ぶ度、呼ばれる度、互いの深い深いところが、強くつながってゆくのがわかる。
        ただひとり、大切な君が口にするから、この名前は尊い言葉になる。
        ただひとりの君の名が、かけがえのない祈りの言葉になる。



        薫の瞳から溢れた涙が眦を伝って流れ落ちるのを、剣心は舌ですくった。
        「ごめ・・・・・・わたし・・・・・・もう・・・・・・」
        掠れた声で訴えながら必死ですがりついてくる薫に、剣心は小さく頷いて「ありがとう」と囁いた。





        彼女の目蓋を口づけで閉じさせながら、自身も静かに目を瞑る。
        心も身体もあたたかいものに満たされたような心地で、ふたりはゆっくりと眠りに落ちた。









        「剣心」

        唇を尖らせて、拗ねた子供みたいに怒った君が呼ぶ声。




        「剣心」

        道の向こうで手を振りながら、遠くから元気いっぱいに明るく呼ぶ声。




        「剣心」

        抱きしめた腕の中、潤んだ瞳を俺に向けながら、小さく、優しく囁くように呼ぶ声。




        「剣心」

        君に名前を呼ばれると、こんなにも幸福な気持ちになれる。





        「・・・・・・薫」





        だから、心からの愛しさをこめて応えよう。
        君にしか聞こえないくらいに、いちばん近くで。世界でいちばん大切な君の名を、呼ぼう。










        (了)








                                                                                     2012.03.30







        モドル。