はじめての抱擁は、別離のしるしだった。
二度目は、必ず生きて帰ることを、君に約束するために。
そして、三度目は―――
君のもとへ (実写映画設定)
風に木々の葉がそよぐ、微かな音。
どこかの家の軒先の、遠い風鈴の音色。
子供たちが近くの道を賑やかにはしゃぎながら駆け抜ける、足音と歓声。
まどろむ耳に流れ込む、静かなざわめき。
ああ、生きている音だ、と思う。
人々が暮らし、生きている場所で奏でられる様々な音たち。この家で過ごすようになってから、それらはすっかり耳に馴染みのあるものになった。
「じゃあ、ちょっと行ってくらぁ」と、左之助の声がした。「行ってらっしゃい」と、薫の声が応えた。
そこで、剣心は目を開けた。
「剣心、起きてたの?」
程なくして、襖が開いて薫が顔を出す。志々雄との死闘に決着がついて数日が経ち、剣心の怪我は快方に向かっていたが、恵からはあと数日は絶対安
静と言い渡されている。そんなわけで、今日も剣心は大人しく横になっていた。
「左之は、出かけたのでござるか?」
「うん、どうしても赤べこの牛鍋が食べたくって、もう我慢の限界なんですって」
「元気でござるなぁ」
「左之助のほうが、まだあなたより怪我の具合は軽いもの。恵さんも『あいつに大人しくしてろと言っても無理でしょう』って諦めてたし・・・・・・まぁ、弥彦も付
き添わせたから、大丈夫よ」
「弥彦も、でござるか」
「うん、お土産に何か詰めて貰うって言っていたから、楽しみにしていましょうね」
剣心は頷きながら、じゃあ今この家には自分たちしかいないのだな、と考える。
それならば―――我儘を見咎める者は誰もいないということだ。
「薫殿」
「なぁに?」
「そこは、遠いでござるよ」
枕元に正座をしている薫は、剣心の言葉にきょとんとする。
遠いどころか、かなり近い場所にいると思うのだが―――と。不思議に思いつつも、薫は膝を動かして布団の端に乗せて、距離を縮めた。
「まだ、遠い」
「え、でも・・・・・・」
「近くで、顔が見たいんでござるよ」
駄々をこねるような要求に、薫は困ったように視線を泳がせる。誰もいない事はわかっているのだが、それでも何となく、人目がないことを確認するかのよ
うに、きょろきょろとあたりを見回した。そして、膝を崩すと―――剣心の隣に横になる。
「これで、いい?」
ふたり、並んで横たわる。すぐ目の前にある薫の照れた顔に向かって、剣心は満足そうに笑って「うん」と答える。
指をのばして、彼女の頬に触れる。ほんのり赤く染まったそこは、柔らかくてあたたかい。
「・・・・・・生きているんでござるな」
指先から伝わる体温は、間違いなく、薫が生きている証だ。そんなのはわかりきっている事とはいえ―――それでも、何度でも確かめたくなってしまう。
京都大火の夜、死に物狂いで追いかけて、結局この手が届かなかった彼女が此処にいることを。
離ればなれになって、もう永久に失ったと思っていた薫が―――生きて、傍にいるということを。
輪郭をなぞる指がくすぐったくて、薫は目を細める。近すぎる距離も、なんだか甘えたふうに接してくる剣心にもまだ慣れてはいなくて、心臓がどきどきと痛
いくらいに早鐘を打っている。早まるばかりの鼓動は苦しいけれど、でも、触れてくる彼の指は心地よかった。
「・・・・・・すまなかった」
「え?」
「あの時、薫殿を救けられなくて」
薫は、横になったまま小さく首を振るそぶりを見せた。あの大火の夜の事を言っているのだと、すぐに理解はできた。
「剣心だって、あの後大変だったんでしょう? それに・・・・・・東京に行く前にちゃんと会いにきてくれたんだから、それでいいの。それだけで、もう充分救け
られたんだから」
煉獄から海に突き落とされたとき、意識は直ぐに失ってしまったけれど。それでも、荒れ狂う波に飲み込まれる刹那、「ここで死んじゃったら、もう剣心に会
えなくなるのかしら」と思った。せっかく東京から追いかけてきたのに。ようやく再会できたばかりだったのに。それなのに、こんな形で永久に会えなくなる
なんて―――と。それこそ走馬灯みたいにそんな事を一瞬のうちに考えた。
でも、長い眠りから目覚めたとき、一番最初に会えたのは―――他ならぬ剣心だった。
「あんなふうに再会できるなんて思ってもいなかったから・・・・・・嬉しくて、嬉しすぎて、夢じゃないかしらって疑ったくらいだったもの」
実際、弥彦には夢だと断言されちゃったし、と薫は笑う。
「それに・・・・・・こういうふうにできるのは、わたしだけじゃなくて、剣心も生きているからでしょう?」
剣心を真似るように、薫は手を伸ばして彼の頬に触れる。優しい手つきで、そっと十字の傷を包み込む。
「・・・・・・うん、そうでござるな」
「約束、守ってくれてありがとう」
必ず、帰ってくると。
修行を終えたのち、真っ先に薫のもとに向かった剣心は、突然の再会に驚く彼女を抱きしめてそう約束をした。
考えてみると、あんな約束をしたのは生まれてはじめてかもしれない。
幕末の動乱の頃から、ひとたび闘いに向かえば常に「死」を覚悟していた。自分の命など、来るべき良い時代の為になら、いくらすり減らしてもどこで捨て
去っても構わないと思っていた。たとえ何者かに斃されることがあったとしても、自分の死が新しい時代を築くための礎になるのなら本望だ、と。
けれど、今回の闘いは違っていた。
生きて、君のところに帰ると約束をして。その誓いが、あの死闘のなか最後まで諦めないための「支え」になった。
そうだ、君とのあの約束が―――俺を、活かしてくれたんだ。
「・・・・・・剣心?」
剣心は、触れていた手を離すとおもむろに身体を起こす。薫は慌てて自分も起き上がり、彼に手を貸そうとする。
「まだ、遠い」
「え?」
薫は顔を上げて、剣心の瞳を覗きこんだ。
ふたつの視線が、近い距離で絡み合う。見つめあったのは、ほんの僅かな時間だった。
互いに引き寄せ合ったかのように、どちらからともなく、傾く身体。
袖と袖とが触れあう。頬と頬が重なって―――薫は、背中に回された彼の腕を感じて、目を閉じた。
はじめての抱擁は、別離のしるしだった。
もう二度と会えないと思っていたから、最後に君のぬくもりを身体に刻みこみたかった。
二度目は、約束のしるしに抱きしめた。必ず、生きて帰るという誓いの確かさを、君に感じてほしかった。
そして、これは三度目。
三度目は、ただ愛しさがあふれてしまったから。
もっともっと近づきたくて、ふたりの間にある距離を、零にしてしまいたくて。
細い背中を、てのひらで撫でる。脈打つ体温を感じたくて、襟足の、素肌に触れる。
首筋を探る指に、薫の肩が戸惑うように震えた。
「もっと、近く・・・・・・」
譫言のように呟きながら、狂おしく掻き抱く。けんしん、と呼吸で紡ぐような声を薫が漏らした。
頭をずらして彼女の顔をのぞきこむと、真っ赤に染まった頬に、泣きそうに潤んだ瞳がそこにあった。
こんな目を、前にも見た。
ああ、そうだ。煉獄から戻ってきた俺を迎えてくれたときも、君はこんな目をしていた。悲しみではなく、それとは正反対の感情が満ちた眼差し。
あの瞳を見て、君の笑顔を見て、思ったんだ。
俺は本当に―――帰る場所を、見つけたんだと。
「・・・・・・いるわよ、ちゃんと」
涙を湛えた瞳で、薫は微笑む。
「ずっと、傍に・・・・・・あなたの、近くにいるから」
君のもとに、帰りたいと思った。
誰よりも何よりも守りたいと思った、大切な―――君のもとへ。
「あと・・・・・・もう少しだけ」
互いの前髪が触れ合う。
唇に、彼の息がかかるのを感じて薫は目を閉じた。
新しい生きる標を与えてくれたことに、帰り着く場所になってくれたことに、感謝をこめて。
もっと近くに、心までひとつに寄り添えるようにと願いながら―――
祈りを捧げるように瞳を閉じて、剣心はそっと薫の唇に自分のそれを重ねた。
★
「ただいまー」
「今帰ったぞー!」
満腹になって久々の「赤べこ」から帰ってきた弥彦と左之助は、ばたばたと賑やかに廊下を踏み鳴らしながら剣心が寝んでいる部屋に向かった。
「剣心、起きてるか? 土産包んでもらったから、薫と一緒に・・・・・・」
襖を開けた左之助は勢いよく部屋に踏み込もうとして、慌てて足を止める。
「何だ? どうしたん・・・・・・」
続いて部屋の中を覗きこんだ弥彦も、焦って頭を引っ込めた。
腰のあたりまで布団をかぶった格好で、横たわる剣心。隣には、敷布の端に身体を乗せて、彼に肩を抱かれた薫の姿。
ふたりは仲良く寄り添うようにして、並んで寝息をたてていた。
「・・・・・・土産は、起きてからでいいか」
左之助はそう言ってから、「さーて、後でどうやってからかってやっかなー」と付け加えて笑った。
襖を閉めながら、弥彦はちらりと彼らの顔を見て、「どんな夢、見てるのかな」と呟いた。
眠るふたりの唇には、よく似た柔らかな笑みが浮かんでいた。
了。
2014.10.21
モドル。