ゆっくりと、眠りの底から浮上する意識。
目覚めが訪れるなか、まず漠然と「なにか、いつもと違うな」と感じた。
左の肩に固い感触。布団ではない、では、畳だろうか。
でも、体の正面には暖かく、そして柔らかいなにかがある。
頬に胸に伝わってくる温度。抱きしめる腕を動かすとその感触はより鮮明になる。そう、腕に何か、柔らかく優しいものを抱いていた。
左腕に重みを感じるが、不快ではなく、むしろ心地よい。
少し、力を込めて引き寄せてみる。なんだろう、この包まれているような感覚は。
髪に、何かが触れてきた。
誰かの、手の感触。
そっと、頭を撫でられている。
ああ、まるで子供の頃のようだ。
もう記憶はおぼろげに霞がかっているけれど、確かに幼い頃、母親にそうされたように。
手の感触。
いったい、誰の。
―――誰の?
泡がぱちんとはじけたように、急速に、意識が鮮明になる。
目を開けても、まだ暗い。何かが目の前をふさいでいる。
ごく近くに見覚えのある淡い色彩、これは。
「・・・・・・!」
ばっ、と顔を上げる。
淡い色彩は、薫の寝間着の色。
そして自分は、薫のお腹のあたりに顔をうずめて眠りこけていた。
「か、おるど、の・・・・・・っ!?」
右半身を下にして、少し身体を丸めるようにして畳の上で眠る薫。剣心は自分が彼女に抱きつく格好で横たわっているという事実を、漸く理解した。
「〜ッ!」
泡を食ったように身を起こす。
薫の腰の下に差し入れていた腕を慌てて抜き取り、飛びすさるように身体を離した。
「・・・・・・ん」
腕を抜かれた反動で、薫の身体が小さく揺れ、緩く結ばれた唇から呟くような息が漏れる。
「・・・・・・あ、れ?」
睫毛が震え、目蓋がうっすらと開かれる。手が、今しがた撫でていた剣心の頭を探すようにそろそろと動いた。彼がそこに居ないことをみとめた薫は、まだ半分眠っ
ているような顔でゆっくりと身を起こした。
「・・・・・・あ、ええと、その、薫、殿・・・・・・」
たとえ得物を手にした刺客が突如目の前に現れようとも、涼しい顔で立ち回る自信がある剣心だが、この度は思い切り狼狽した。
腕には、まだしっかりと薫の体温の余韻がある。
まさか自分は昨夜、薫に対して無体な振舞いをしてしまったのだろうかと頭の中が熱くなった。が、目の前にいる彼女の寝間着は乱れていないし、それは自分も同
じだった。
「・・・・・・おはよぉ、剣心」
「お、はよう・・・・・・」
「だいじょうぶ?二日酔いとか、へいき?」
「・・・・・・え?」
寝ぼけまなこの薫にそう言われ、剣心はようやく思い出した。
昨夜、ひとりで飲んでいて(言ってみれば自棄酒だった)、途中から薫が加わり、そして。
つい、薫の膝のあたりに目をやる。
おぼろげに、そこに頭をのせたやわらかい感触もよみがえってくる。
と、いうことは。
「ひょっとして・・・・・・薫殿、あれからずっと・・・・・・」
寝起きのぼんやりした表情ながらも、心なしか薫の頬が赤くなったように見えた。長い黒髪を撫でつけて整えながら、こくんと頷く。
「かっ・・・・・・重ねがさね、すまない!」
がば、と頭を下げる剣心に、薫は「なんだか昨夜から謝られてばかりだなぁ」と思い苦笑する。
「昨夜は完全に、酔っていて・・・・・・その、膝、重かったでござろう?」
「ううん、全然平気」
「構わず退かしてくれてよかったのに・・・・・・」
「だって剣心、がっちりしがみついていたじゃない、腰に」
「・・・・・・」
「それに、わたし、男の人に膝枕するのなんて初めてだったから、どうしたらいいのかわからなかったんだもん。だから、そんなこと・・・・・・できないわよ」
「・・・・・・つくづく、申し訳ない・・・・・・」
そして二人、照れくささに支配されて互いに俯く。
「も、いいわよ謝るのは、いいかげん」
「あー、でも、それでは」
つい謝罪の言葉を続けそうになり、剣心はがりがりと頭をかきむしる。
この失態をどう償えばよいのやら―――と、ひとしきり考えた後、ひとつの案が頭に浮かんだ。
「ええと、その・・・・・・そうだ!薫殿、今日は出稽古はないでござるよな?」
「うん?そうね」
「お詫びと言ってはなんだが・・・・・・今日一日、薫殿の行きたいところに、拙者が付き合うというのはどうでござろうか?何か甘いものでも食べられるところと
か・・・・・・勿論、奢るでござるよ」
妙案に、薫が下を向いていた顔をぱっと上げる。
「え、ほんとっ?!」
「本当でござる」
「剣心と、ふたりで?」
「薫殿がよければ」
「嫌なわけないじゃない!わぁ、どうしよう何処がいいかなぁ・・・・・・えーと、それじゃあ『こばと屋』!」
真面目くさった剣心の言に、薫は弾んだ声で答えた。
「とっても美味しい甘味屋さんなんだけど、うちからだとちょっと遠いの。お散歩がてらになっちゃうんだけど、剣心それでもいい?」
「ああ、今日は弥彦は赤べこでござるし、ふたりで行こう」
薫はきらきらとした瞳で、嬉しさを隠さずに頷いた。
★
「ちょっと街中から外れるんだけど広い庭もあってね、とっても素敵なの。剣心にも見せてあげたいなーって思ってたんだ」
賑やかな往来を軽やかな足取りで歩く薫は、剣心が初めて見る着物を身につけていた。
夏空の、いちばん鮮やかな青い部分をさらに凝縮させたような、明るい藍色の紬。一見無地のようだが、よくよく見ると地は細かい格子柄になっている。そこに娘ら
しい撫子の柄の帯をあわせ、花が咲いたような風情だ。
「薫殿、今着ているのは、もしかして」
「そう、鶴尚の奥様から頂いたのよ。早速着てみちゃった」
無邪気に答える薫。剣心としては、求婚された家から貰ったものというのが少々ひっかかるところもあったが、まぁ、薫は嬉しそうだし似合っているわけだし、変に気
にするのはやめることにする。
「薫殿、その色好きでござるな」
「うん、大好き!」
朗らかに返ってきた「好き」という言葉が自分に向けられたような気がして、どきりとする。そんな小さな動揺を気取られないよう、「弥彦に土産でも買って帰ろうか」
と、さり気なく会話を進めた。
「あ、それ賛成!あのお店、持ち帰り用のお菓子も売っているの。お団子とかどうかしらね?」
「ああ、それは喜ぶでござ・・・・・・」
言いかけた台詞が止まった剣心に薫は怪訝な顔を向けたが、正面から歩いてくる人物の姿に気づいて、自分も口元に手をあてた。
「やあ、これはお揃いで、お出かけですか」
その人物―――鶴尚の主人も、剣心と薫に気づいてにこにこと笑いかけてきた。
6 に続く。