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        つい、大きな声を出した剣心は、驚きをあらわにまじまじと薫を見つめる。
        薫は呆気にとられたように何度かまばたきを繰り返したが、やがて形の良い眉をきっと跳ね上げた。



        「何言ってるの?!お嫁になんて行くわけないじゃない!」



        呆れた、というよりは怒ったような声音だった。
        「やだ剣心、あなたひょっとして昨日からずっと、わたしがこの話を受けるものだと思ってたの?!わたしが、玉の輿にほいほい乗っちゃうような子だと思ってたわ
        け?!そんなわけないじゃないの剣心のばかっ!」
        剣心の一人合点が余程頭にきたのか、「怒ったような」というより、今や完全に薫は怒っていた。噛み付くような剣幕で、剣心にむかってたたみかける。
        「わたしは!そりゃまだ未熟だけど、父さんからこの道場を任されたんだから!わたしがお嫁に行ったら活心流はどうなるのよ?!それぐらいちょっと考えればわか
        るでしょー!」

        夜中だということも忘れて声を高くし、きりきりと睨みつけてくる薫に、剣心は言葉を返せなかった。薫の迫力にのまれたのもあったが、自分の中で渦巻く感情を抑
        えるのにも精一杯だったのだ。剣心はただ、驚いた形のまま固まってしまった目で、薫の視線を受け止めていた。


        「だいたいっ!わたしは剣心のことがっ・・・・・・!」
        そこまで口にして、薫ははっとして慌てて言葉を飲み込んだ。
        勢い余って、つい踏み込んだ発言をしてしまうところだった。薫は頭を抱えながら「ああもう人の気も知らないでー」と歎息する。

        「まったく、もう・・・・・・剣心がそんなふうに考えてたなんて、思わなかった・・・・・・」
        僅かに音量の下がった声には、怒り以外の感情が含まれていた。
        言われるままになっていた剣心は、そこで漸く我に返ったかのようにまばたきをして―――空気のかたまりを吐き出すような、微かな笑いを洩らす。



        「は、ははは、そうか、道場か・・・・・・そうでござるよな・・・・・・」
        「ちょっと!なんでそこで笑うのよっ」
        「いや、安心したというか・・・・・・うん、済まない、拙者が悪かった」

        ぺこり、と頭を下げられて、ふっと薫の目許から力が抜けた。
        しかし、またすぐに、つんと拗ねたようにあさっての方向を向く。
        「ほんっと失礼しちゃうわ、わたしの事そんな軽い女だと思っていたわけ!?」
        「いや、全然そういうつもりではなくて・・・・・・とにかく、申し訳ない」
        「わたしは父さんの残した道場を守りたいし、知らない人のところになんてお嫁に行きたくないし、それに・・・・・・」
        薫は、ほんの少しだけ瞳を動かして、視界の隅で剣心を見る。



        「それに、やっぱりわたしは、好きな人のお嫁さんになりたいもの。小さい頃から、そう決めていたんだから」



        一音一音、確かめるように、口にする。
        その言葉に、剣心は我が意を得たりというようにぶんぶん首を縦に振った。
        「うん、拙者も、それがいいと思う」

        いやに力強く言われて、薫の頬にさっと血が上る。
        剣心は、そんな薫の横顔を無言で見つめる。
        会話が途切れて、沈黙が降りた。

        不意に訪れた静寂に、波立った感情に落ち着きが戻ってくる。
        そうなると、かっとなって怒ったことも今の「好きな人云々」発言も急に恥ずかしく思えてきて、薫は俯いて膝に乗せた自分の手のあたりに目をやる。
        隣から注がれる剣心の視線を感じて、そちらを向くことができない。



        ―――剣心が、わたしがお嫁に行くものと思いこんでいたことは腹立たしい。
        けれど、彼がわたしのことで心を揺らがせたのは・・・・・・正直に言うと、嬉しい。
        わたしが求婚された事が、昨日からの彼の挙動不審の原因だったとしたら、それって―――



        「薫殿」
        「・・・・・・なに?」
        「昨日から、うっかり続きですまなかった。明日からはもう大丈夫だから」
        その言葉が内包する意味を理解して、薫の胸の奥がじんわりと熱くなる。
        薫は首を動かして、もう一度剣心を見た。そして、怒りの消えた顔で、微笑む。
        「もう、大丈夫?」
        「ああ、大丈夫」
        「わたしがお嫁に行かないってわかって、ほっとした?」
        「あ・・・・・・いや、それは・・・・・・」
        「あははは、冗談よ。言ってみたかっただけ」

        悪戯っぽく笑う薫に、剣心は昨日から自分の挙動をおかしくしていた、胸の奥のもやもやしたものが消えてゆくのを感じた。まるで、霧が晴れるように。
        と、同時に安堵感に身体の力が抜けてゆく。


        「剣心、眠いの?」
        わきあがってきた欠伸を噛み殺した剣心に、薫が小さく尋ねる。
        「ん、なんだか急に・・・・・・気が抜けたのでござるかな」
        「もう休んだら? ここはわたしが片付けておくから」
        「かたじけない・・・・・・では、そうさせてもらうでござるよ」

        ごしごしと目をこする仕草がかわいらしくて、薫はつい頬を緩める。
        なんだかんだで夜も更けた。自分も剣心が飲み残した酒瓶を片付けたら寝ることにしよう。そう、思いながら、薫は立ち上がろうとした。が、できなかった。



        「・・・・・・え、えええええっ!?」



        もう休んだらと言われた剣心は、ごろん、と横になった。
        自室ではなく、この場で。
        薫の膝を、枕にして。



        「ちょ、ええっ!?やだ、ねぇ剣心っ!?」
        狼狽える薫をよそに、剣心はもぞもぞと身体を動かして居心地のよい姿勢を探す。やがて硬直している薫の膝に顔をうずめるように、うつぶせの姿勢に落ち着いた
        剣心は、そのまま薫の腰のあたりに両腕をまわした。
        まるで、ぐずった子供が、母親にすがりついて甘えているように。


        「・・・・・・嘘、でしょぉ?」
        がっしり、と腰を捕まえられて、薫は立ち上がるに立ち上がれなくなった。
        どうしたらよいのかわからず、おろおろと困惑しているうちに、膝をくすぐる剣心の呼吸がゆっくりと穏やかなリズムへかわってゆく。
        静かに、ゆったりと肩が上下している。どうやら本格的に―――熟睡してしまったようだ。

        先程「酔っている」と言われたときは、いつもと変わらぬ様子から彼の冗談かと思った。
        しかしそうではなく、本当に酔っぱらっていたらしい。だってこんなこと、平素の剣心がするわけがない。
        薫は諦めたように深く息をつき、驚きと緊張に強ばった身体の力を抜いた。


        「ほんとに、酔ってるのも顔に出ないのね・・・・・・」


        ふと、畳の上に置かれた猪口が目に入った。膝の上の剣心が目を覚まさないよう注意しながら手を伸ばしてそれを拾い上げ、一口だけ残った酒を口にしてみる。辛
        口の液体が喉を滑り落ち、胃のあたりがほんのりと暖かくなる。しかし酩酊するまでの感覚はない。
        薫こそ、特別酒に強いわけではない。いっそ酔ってしまえば、この気恥ずかしさが多少紛らわせるかと思ったが、今のこの状況ではとても酔えそうにない。

        それこそ、酒精の所為だろうか、膝にしがみつく剣心から伝わってくる体温は、熱い。
        猪口を畳に戻し、そっと剣心の髪を撫でてみる。




        「・・・・・・剣心の、甘えん坊」




        小さく囁いてみたが、返事は返ってこなかった。
        殆どうつぶせになっているから、寝顔がよく見えない。

        それはちょっと残念だな、と。
        そう、思った。













        5 に続く。