3


          






        その晩、自室で横になって本を読んでいた薫は、いつのまにか時計の針が深い時間を指そうとしているのに気づき、そろそろ寝ようかな、と手水に立った。
        そしてその帰り、居間に灯りがともっているのに気がついて、おや、と首を傾げる。
        消し忘れたのかしらと訝しみつつ、襖を開けた。



        「あれ?剣心まだ起きていたの?」



        薫の驚いた声に、寝間着姿の剣心が小さく手をあげて応える。
        「おろ、見つかってしまったでござるな」
        いつもの顔で笑う剣心の横には大きな酒瓶が置いてあり、薫はもう一度驚いた。
        「飲んでたの?ひとりで?」
        「薫殿も、どうでござるか」
        つい、と手に持った猪口を示され、薫の心臓がひとつ高く鳴った。



        剣心と、ふたりきりでお酒。
        それはなかなか貴重な機会―――と、いうより、こんなのは、初めてだ。



        「ん、じゃあ・・・・・・およばれしちゃおうかしら」
        薫は嬉しそうに微笑みながら、剣心の隣に腰をおろす。
        「珍しいわね、剣心がこんなふうにひとりで飲んでるなんて」
        「うん、まぁ、なんとなくでござるよ」
        そういえば夕方ひとりで家を出たようだったが、これを買いに行っていたのか、と薫は酒の瓶を見ながらそう思った。
        注がれた酒を口にすると、きりりと辛く、軽やかに喉に落ちる口当たりだ。一口目をゆっくり味わってから、薫は「ねぇ」と剣心に問いかけた。

        「剣心、どうしたの?」
        「え?」
        「昨日からなんかヘン」
        「おろ、そうでござるか?」
        首を傾げる仕草はまるきり「普通」だったが、しかし薫は「変よ」と確認するように繰り返す。
        「顔を見てる限りいつもと変わらないし言ってることも普通なんだけど、明らかにやってる事がおかしいもん。さっきのお風呂だって」
        「ああ・・・・・・あれはついうっかり」


        夕飯の後、風呂を焚いた剣心はうっかり湯を煮えたぎらせてしまい、一番風呂につかろうとした弥彦は「釜茹でにする気かぁぁぁっ!」と悲鳴をあげた。あれはどう考
        えても、普段の剣心には似つかわしくない「うっかり」だった。


        「絶対いつもと違うわよ。いつもどおりにこにこしているから顔を見ただけじゃわからないけれど」
        「拙者、そんなに愛想いいでござるかなぁ」
        頬を両手で挟んで、端正な顔をぐにぐにと歪めてみせられ、薫は「やめてー!」と笑いながら叫んだ。
        「これでも昔は散々、愛想がないとか無表情とか言われたものだったが」
        「えっ、そうなの?」
        「ああ、明治になる前のことだから、それこそひと昔以上前でござるな」
        「ふぅん・・・・・・」

        じゃあ今は逆に、常ににこやかでいることで、感情を顔に出さないようにしている事もあるのかもしれない。
        と、いうか昨日からの彼がまさにそうだ。
        薫はそう思いつつ、もうひとくち、酒を口にする。中身が半分ほどに減った猪口に視線を落としながら、呟いた。

        「でも、やっぱり変。っていうか、珍しい」
        「うん?」
        「剣心が自分から、昔のこと喋るなんて珍しいわね」
        剣心は、その言葉に軽く首を傾げてから、薫の手からひょいと猪口を取り上げた。そして、残った酒をひといきに飲み干す。


        「まぁ、酔っているから」
        「え!?嘘でしょ!?」


        薫はまじまじと剣心の顔を覗きこんだ。顔色は赤くも青くもないし、口調もいつもどおりで、とても酔いがまわっている様子ではないのに。
        「剣心って、酔っているのまで顔に出ないの?」
        「酔っぱらうこと自体が、あまりないでござるがな」
        薫は、傍らの酒瓶をとった。確かに、軽い。
        ひとりでこれだけの量を飲んだというわけかと納得しつつ、薫は残り僅かになった酒を猪口に注いだ。
        「ね、もっと話して」
        「え?」
        「昔のこと。あ、勿論嫌じゃない範囲でいいんだけれど!」
        慌てて付け加える薫に、剣心の頬が緩んだ。
        注がれた酒で唇を湿らせてから、「そうでござるなぁ」と記憶のひきだしを探る。


        昔のことと言っても、流石に幕末の頃の話はできない。血なまぐさいことばかりだし、それを抜きにしても語り出したら夜が明けてしまうだろう。それに、彼女に自分
        のことを包み隠さず語る覚悟も、まだ出来ていない。では、明治になって、流浪人になってからの事といえば―――


        「そうだ、拙者も薫殿と似た申し出をされたことがあったでござる」
        「わたしと?」
        「ごろつきに絡まれている男性を助けたら、いたく感謝されてうちの娘を嫁に貰ってくれと言われて」
        「えー?!」
        薫の表情が、微妙に険しくなる。
        「薫殿と全く同じでござるよ、ひとまず家にとやたら立派な屋敷に案内されて、食事を振舞われて、挙句に泊まっていけと言われて」
        「わたし、それは言われてないもん」
        「で、寝室に通されて」
        「泊まったの!?」
        「隙を見て窓から逃げたでござる」
        「ぶっ」

        予想外の答えに、薫は眉間の皺を消して笑い出す。
        ああ、彼女が笑うとそこだけぱあっと明るくなったようになるんだな、と。剣心は改めてそう思った。

        「黙って逃げ出すのは流石に悪いと思って、一筆詫びの文を書いて置いておいたが・・・・・・今思うと、却っていけなかったかもしれぬなぁ」
        「ど、どうして・・・・・・?」
        「拙者、字が下手だから」
        こらえきれないように身体を折り曲げ、薫は肩を震わせて更に笑う。
        剣心は薫の笑いの発作がおさまるまで、いつもの穏やかな笑みを浮かべながら猪口を口に運んでいた。


        「で・・・・・・でも、逃げて正解だったと思うわ」
        ようやく落ち着いてきた薫は、目尻に滲んだ涙を小指で拭って、頷いた。
        「そのつもりがないなら、気を持たせずその場できっぱり断るべきよね。わたしもそうしたもん」
        「そうでござろう?」
        「ええ、それが相手に対する礼儀だと思うわ」
        「うんうん、そうでござるよな」
        確かにあの時、黙って逃げたのは失礼だったかもしれない。
        しかし、自分としてはあの家に婿入りする気など全くなかったのだから―――



        そこまで、当時を回想して。
        そして剣心は、はっとして、猪口を畳の上に置いた。



        「薫殿」
        「ん、なぁに?」
        「今、何と言ったでござるか?」
        「え?えっと、相手に対する礼儀、って」
        「その前でござる」
        「んーと、きっぱり断る、って」
        「その後!」
        勢い込んで訊いてくる剣心に目を丸くしつつ、薫はたった今の自分の台詞を思い返してなぞってみる。




        「ええと・・・・・・わたしも、そうした?」
        「断ったんでござるか!?」










        4 に続く。