2









        「どーもこーも、昨日からずっとあんな感じだよ」




        剣心と薫が片付けに台所に立ったのを見計らい、左之助は弥彦を捕まえて昨日からの剣心の様子について質問した。弥彦はそう尋ねられるの
        を待っていたかのように、口を開く。


        「顔見てる限りはいつもと変わらねーし、言ってることも普通なんだけど、明らかにやってる事がおかしいんだよ」
        「例えば?」
        「さっきの味付けもそうだけど、薪割りをすれば下の台まで真っ二つにかち割るし、洗濯を始めたら同じものを小一時間洗い続けるし、縁側から落
        ちるし転んで障子ぶち抜くし大福に醤油かけて食うし」
        「・・・・・・俺的には最後のが一番嫌だ」
        その味をつい想像してしまい、左之助がげんなりした顔になる。

        「まったく、動揺するにも程があるよな・・・・・・なのに薫には何も訊こうとしないんだぜ?そんなに気になるなら嫁に行くのかどうかって訊きゃいい
        のにさ」
        「まぁ、しかし悪い事じゃねーよな」
        「どこがだよ?剣心まで不味い飯しか作れなくなったら、この家の食生活はもう救いが無くなるんだぞ?」
        弥彦の切羽つまった声に左之助は苦笑した。確かに、育ち盛り食べ盛りの弥彦にとっては切実な問題なのだろう。
        「だって考えてもみろよ。剣心って、いつもどこか踏み込んでこない感じがあるだろ」
        「踏み込んで・・・・・・?」
        「過去に色々ありすぎたんだろうけどよ、その所為か、他人と必要以上に親しくならないようにしているっていうかさ」
        「あー・・・・・・それはちょっと、わかる」


        同じ家で暮らしていても、仲間たちといるときも、同じ場所にいるのに、剣心だけ一歩退いた場所からこちらを見ているように思えるときがある。
        同じ輪の中にいるのに、何故か彼ひとりだけ、ぽつんと外にいるような。
        そしてそれは、剣心が自らそうしているように思えるのだ。


        「それがあいつの主義だとしてもよ、嬢ちゃんの事となれば、本当は踏み込みたくてたまらねーんじゃねぇの?」
        「・・・・・・そんなの、踏み込めばいいだけのことじゃん」

        それほどに、剣心の心には触れて欲しくない闇があるのだろうか。
        明治になってから十年以上、ずっとそうやって独りでさすらってきて、そしてこれからも、そうやって生きてゆくつもりなのだろうか。


        「だからさ、そう考えると、あいつのあの反応って悪いことじゃねーだろ?嬢ちゃんの事でめちゃくちゃ動揺しちまうくらい、あいつは歩み寄っちまっ
        たんだよ、今の暮らしにな」
        「・・・・・・そうだな」



        これが、一歩踏み込むきっかけになれば。
        それは剣心と薫だけではなく、周りの皆にとっても良い兆候と言えるのではないだろうか。
        同じ場所にいるのに距離があるというのは、とても寂しいことだから。



        「しかし、その鶴尚の爺さんもつくづく物好きだけどよー、よく考えりゃもっと物好きなのが身近にいたんだよなぁ」
        「蓼食う虫も好きずきってやつだろ?」
        「お、難しい言葉知ってるじゃねーか」




        台所に立っていた薫はかすかに聞こえてきた左之助と弥彦の笑い声に、自分が俎上に上がっていることを知らず「ばかに盛り上がっているわね
        ぇ」と呑気に呟いた。













        日が僅かに傾きだした頃、玄関の戸がからりと開く音がして、「御免下さい」と訪のう声が続いた。
        薫と弥彦は道場だ。と、なると応対するのは剣心である。聞き覚えのない声だな、と思いながら玄関に向かった。



        「不意にお邪魔をしてまことに申し訳ありません、神谷薫さんは居られますかな」



        玄関に立っていたのは、雪のように真っ白な髪を品よく撫でつけた老人だった。
        剣心が一瞬答えるのに戸惑ったのを見てとって、老人は人の良い笑みを浮かべて会釈する。
        「わたくし、鶴尚という店をやっている者です。昨日はここのお嬢さんに難儀を救っていただきまして」

        昨日の今日である。剣心は素性を話されるまでもなく、地味であるが趣味の良い着物を身につけた老人を一目見て、誰であるのか見当がつい
        た。しかし、剣心の中にある自分でも御しがたい感情が、僅かに答えるのを躊躇させたのだった。
        「実は、昨日お嬢さんに、どんな道場をやっているのか一度見せて貰いたいとお願いをいたしまして」
        「薫殿に?」
        「どうも年寄りはせっかちでいけませんな、たまたま近くを通ったものですから、こちら様のご迷惑も考えずつい立ち寄ってしまいました。まことに
        相すみませぬが・・・・・・」
        「そうでござるか、それはようこそお出で下さいました。丁度薫殿は道場ゆえ、よければ中に」
        どうぞと案内しようとした剣心に、老人はごく自然な調子で「ありがとう存じます、ところで、貴方は・・・・・・」と訪ねた。


        ぴたり、と剣心の足が止まる。
        なんと答えるのがよいか、と迷ったのは一瞬のことだ。剣心は「居候でござる」と返答する。


        「ああ、ではあなたが門弟の方に稽古をつけていらっしゃるのですな」
        成程、若い男性が道場にいればそう考えるのが当然なのかもしれない、と、剣心は少し笑った。
        「いや、ここの師範代は薫殿ゆえ、教えるのはもっぱら彼女でござるよ」
        「ほう・・・・・・昨日伺いはしたのですが、本当に女の身で看板を任されているのですね」
        老人が驚いた顔で言う。剣心はまるで自分が賞賛されたような誇らしい気分で頷いた。
        「立派でござるよ、あの若さで父上の道場をしっかり守っているのだから」
        「実に、気丈な娘さんですな」
        「気丈・・・・・・というか、健気でござるな」

        剣心の声の調子が微かに変化する。
        「頼る人もいないのに、いつも強くあろうとして・・・・・・独りきりで心細いときもあっただろうに」
        それは、目の前にいる老人にというより、自分自身に聞かせているような声。老人はそんな剣心に、穏やかに目を細めた。


        「薫さんは、貴方からご覧になってどんな方でしょうかな」
        「薫殿、は・・・・・・」

        息子の嫁に、と望んでいるのだから、彼女についてもっと様々なことが知りたいのだろう。剣心はそう理解して、答えるのを僅かに躊躇った。けれ
        ど老人の柔和な顔を見ているうちに、知らず知らず口が動いた。



        「剣術に関しては―――昨日目にされたでござろうが、そこらの男衆よりよっぽど強くて、いつも真面目に稽古を重ねていて」
        真剣な面持ちで竹刀を構えた立ち姿が、涼やかで、きれいで。


        「明るくて、賑やかで、怒っていたかと思うともう笑っていて」
        小鳥がうたうような笑い声も、光がはじけるような笑顔も、きれいで。


        「お節介でお人好しで、困った人を見ると放っておけない性分で・・・・・・」
        つまりは優しくてまっすぐで、そのせいで涙を流すことも多くて、そんな泣き顔も、きれいで―――



        「剣心ー?お客様なの?」



        剣心は、玄関に響いた薫の声で、はっと我に返った。
        「わ!びっくりした!誰かと思ったら・・・・・・」
        「突然押しかけて申し訳ない、昨日はありがとうございました」
        「いえいえ!わたしこそ素敵な着物をいただいてしまって、かえってすみませんでした!」
        胴着姿で顔を出した薫に老人が頭を下げると、薫は恐縮しさらに深々と礼をした。

        「薫殿、もう稽古は?」
        「うん、今一息ついたところで・・・・・・あ、よかったら道場、ご覧になっていきますか?」
        「そのつもりで寄らせていただいたんですよ、是非お願いします」
        老人は、剣心にかわって「どうぞどうぞ」と案内する薫の後についていこうとしたが、一度立ち止まり剣心にむかってぺこりと礼をする。
        「いいお話を聞くことができました、ありがとうございます」
        暖かみのある声音でそう言われ、剣心はなんだか面はゆい気分になった。そんな剣心に薫は、何の話をしていたのだろうかと不思議そうな瞳を
        向ける。
        「お茶の用意、しておくでござるよ」
        はぐらかすように言った台詞だったが、薫は素直に「ありがとう!」と、笑った。



        廊下を遠ざかってゆく二つの足音を聞きながら剣心は、ぱし、とぶつけるようにして手のひらで自分の顔を覆う。



        「・・・・・・どうしたものかなぁ」



        放っておけば、際限なく喋ってしまっていたかもしれない。



        気の強さを前に押し出して、きりりと眉をあげて睨む、怒ったときの顔も、きれいで。
        朝、眠そうな目をこすりながら子供みたいに無防備な顔で「おはよう」という瞬間も、きれいで。
        曇りのない、澄み渡った夜空の色の目で見つめられるとまるで射止められたようで、その瞳が、とてもきれいで。

        本人には、面とむかっては言えないけれど、彼女を飾るための言葉ならいくらでも溢れてくる。
        こんな事は、今までなかったことだ。


        自分は流浪人だから。
        他人とは深く関わらず次々と違う土地を渡り歩くのが、今までの常の暮らしだったから、これからもそうするつもりだった。

        なのに、どうしたことだろう。
        この東京でも、この家には、ほんの僅かの間身を置くだけのつもりだったのに。
        なのに、気がつくと、心の中にひとりの少女を住まわせている自分がいた。
        今回の求婚話で、剣心はその事をはっきりと自覚した。


        「だから、どうなるというものでもないだろう・・・・・・」
        自分のような人間が、他人を好きになってどうするのだ。
        彼女に恋などして、どうなるのというのだ。

        いつかはここを去る身なのに。
        薫の未来に干渉する権利など、これっぽっちも持っていないというのに。








        鶴尚の主人は、道場で薫が弥彦に稽古をつけるのを見学した後、剣心の淹れた茶を旨そうに飲んでゆるゆると辞した。
        剣心は、老人が帰ったあと夕飯までの時間を縫って、ひとり酒屋に足を運んだ。














        3 に続く。