さりげなく身体の後ろにまわした右手には、竹刀が握られていた。
それに気づかず、酔漢二人は酒臭い顔を薫にぐっと近づける。
「姉ちゃん、怪我したくなかったらひっこんでな」
「酌でもしてくれるってんなら、話は別だけどよぉ」
ひとりが下卑た笑いを浮かべながら、薫の左手首を鷲掴みにする。
薫はがっしり掴まれた細い手首にちらりと目を走らせ、にっこり笑った。
「これで、先に手を出したのはあなたがたですからね?」
そう言い終わるや否や、竹刀が素早くひらめいた。
★
「求婚されたぁ?嬢ちゃんが?」
出稽古から帰ってきた弥彦は、素っ頓狂な声で驚く左之助に頷きつつ、説明を始める。
「帰り道に酔っ払い二人に絡まれてる爺さんがいてさ、薫が叩きのめして追い払ったんだよ」
「おろ、それは薫殿らしいでござるなぁ」
左之助と将棋を指していた剣心が笑った。その呑気な様子に、弥彦と左之助は微妙に顔をしかめる。
「・・・・・・で、それがどうして求婚に繋がったんだ?」
「うん、そんで爺さんがすっかり感激しちまって、『是非お礼をさせてくれ』って、爺さんの家に連れて行かれてさ」
薫は「お気持ちだけで結構です!」と固辞したが老人は譲らず、結局薫と弥彦は押し切られるように老人の家に同行したのだが―――
「着いてびっくり、なんとその家ってのが、料亭の『鶴尚』だったんだ」
「へぇ!有名店のあるじだったってワケか。なんか芝居の筋みてぇだな」
おしのぎ程度にしかなりませんが、と言われつつ、薫と弥彦は普通に店で食べたらとんでもない金額を請求されそうな食事を饗された。恐縮しつ
つも頂いていると、老人は「私には息子がひとりいるのですが、貴女のような方なら安心だ」と言いだした。
きょとんとする薫に老人は、「是非うちの息子の嫁に来ていただけませんか」と、のたまった。
「すげーな、玉の輿じゃん!まんま芝居を地で行ってるぞ」
「男女が逆な気がするけどな。普通だと助けるのは男で、そんで『うちの娘を嫁に』だよなー」
「ははは、違いねえ」
「・・・・・・で、その薫殿は?」
肝心の薫は何故かこの場にいない。帰ってきたのは弥彦ひとりだ。
「それがさ、爺さんの奥さんがこれまた礼をしたいって言って―――」
奥方は「お古で申し訳ないのですけれど・・・・・・」と詫びつつ、薫の前で桐箪笥を開いて見せた。そして、色とりどりの着物の山に、薫の目が輝い
た。
「うちは女の子がいないものですから、誰も着るひとがいなくて・・・・・・貰っていただけると着物も喜びますわ」
そんなわけで、奥方の娘時代の着物を何着か譲ってもらう事になり、薫と奥方はあれが似合ういやこれも素敵と、選んでいる真っ最中らしい。
「こりゃ時間がかかるなーと思ったから、俺だけ先に帰ってきたんだ」
「着物で釣られるなんて、嬢ちゃんもあれで一応女なんだなぁ」
「釣られたついでに嫁に行っちまうのか?いくらなんでも手軽すぎるだろー」
そんな軽口を叩きあって笑う左之助と弥彦を、剣心はにこにこといつもの笑顔で眺めていた。経緯を説明し終えた弥彦が「じゃ、着替えてくる」と
自室に向かうと、剣心と左之助は将棋を再開させたが―――何手か指したのち、左之助は目を半眼にしてじとりと剣心をねめつけた。
ぱっと見たところ、剣心は先程の薫の求婚話は意に介しておらぬ様子で、盤に集中しているようだ。
平然とした顔で、一見、動揺は感じられない、が。
「・・・・・・おい、剣心」
「ん?なんでござる?」
「いいのかよ?」
剣心は盤上から顔をあげ、不思議そうに左之助を見た。
「左之、いいも何も拙者はただの居候でござるよ。薫殿が何処の誰に嫁ごうと、口を出せる筋では・・・・・・」
「いや、そうじゃなくてよ」
左之助は、すっと二人の間にある将棋盤を指差した。
「その手でいいのか、って訊いてんだ」
「おろ?」
「詰んでるぞ」
「・・・・・・」
「俺の勝ち」
剣心は何が起こったかわからない、というふうに首を傾げ、左之助は呆れたように天を仰いだ。
「・・・・・・めちゃくちゃ動揺してるんじゃねーかよ」
薫が求婚された翌日、左之助は狙いすましたように昼時に道場に現れ、当然のように「腹減った、飯食わせろ」と居間に上がりこんだ。
そして膳の上の味噌汁をすするなり、世の不条理を憂うかのような深刻な面持ちで首を横に振った。
「・・・・・・俺はな、実のところ嬢ちゃんのメシには毎回かなり期待をしているんだ」
「お、なんだよいつも不味い不味い言ってるくせに」
意外な台詞に弥彦が食いつく。左之助は眉間に皺を深く刻んで、味噌汁の椀をことりと置いた。
「だってよ、もうこれ以上不味くなりようはないんだから、じゃあ後は上達するだけだろ?上達とまではいかなくても、少しでも不味さが軽減してい
りゃ『凄ぇ進歩だ!』って感動できるじゃん」
「うん、随分と情けない進歩だけど、言おうとしているところはわかる」
「それがなんだ今日のは・・・・・・これ以上不味くするのは流石に無理だろうと思っていたのに、まさかその上を軽く越える不味さがあるとは!これ
はある意味、予想を裏切る進歩だぜ!」
芝居がかった口調でそこまでまくし立てたところで、後ろからやってきた薫がすこーんと左之助の頭をぶん殴った。
「だっかっらっ!嫌なら食べるなって何度も何度も何度も言ってるでしょー?!」
握りしめた拳をぶるぶる震わせて怒る薫だったが、左之助は渾身の一撃に大したダメージも感じていない様子でひょいと振り向いた。
「だってよー嬢ちゃん、仮にも料亭の旦那から嫁に来いって言われた身として、この料理の腕はないだろ」
かなり力を込めたのだろう、殴りつけた拳を痛そうにさすりながら、薫は睫の長い瞳をぱちぱちと瞬きさせた。
「あら?左之助昨日のこと知ってるの?」
「弥彦から聞いたぜ。いやー、俺はとてもじゃねぇがこんな飯を作る女将がいる店には行かねーな。金を積まれてもムリだ」
「・・・・・・突っ込むところが多すぎて、どこから手をつけたらいいのかわからないんだけど」
ぴくぴくと怒りにひきつるこめかみを揉みほぐしながら、薫は反論した。
「まず、言っときますけど!今日のお昼ご飯作ったのはわたしじゃなくて、剣心だからねっ!」
「・・・・・・へ?」
左之助がその先の言葉を失っていると、自分の膳を運んできた剣心がいやはやと笑った。
「いや、すまないでござる。ちょっと今日は調子が狂ったようで」
呆気にとられる左之助の隣で、弥彦は何か悟りきったような顔で味噌汁に口をつけた。
2 に続く。