かぜのおねがい






        寒いような暑いようなだるいような、頭が喉が痛いような。
        そんなふうに「なんか変だなぁ」と思いつつ薫は目を覚ました。



        一拍遅れて、隣で寝ていた剣心が起きる。
        おはよう、と言った薫の声がひどく掠れていたので、「おろ?」と剣心は薫の額に手を当てた。

        「薫殿?!凄い熱でござるよ?!」

        剣心のぎょっとした顔を見ながら、「そういえば風邪なんて久しぶりだなぁ」と薫はぼんやりと思った。





        たいしたことはないと言ったのに、剣心は朝一番で診療所から玄斎をひっぱってきてくれた。
        「いや、実際薫くんが思っているより重症じゃよ。今年は性質の悪い風邪が流行っているから、まぁ二、三日は大人しくしていなさい」
        そう言って玄斎は熱冷ましやら何やらを置いて、次の患家に向かった。
        玄関先まで玄斎を送った剣心はすぐに寝室に戻ってきて、薫の顔をのぞきこむ。

        「気分は?」

        「・・・・・・ぼーっとするけど、けっこう平気・・・・・・」
        「何か、してほしいことあるでござるか?」
        薫は普段より回転数の鈍る頭で考えた。
        「・・・・・・もうすぐ弥彦が来ると思うから・・・・・・稽古つけてあげて」
        「承知いたした。他には?」
        「んー・・・・・・」

        万事についてまめまめしい剣心のことだ、家事云々は薫に指示を下されるまでもなくさっさと済ましてしまうことだろうし―――
        「今のところ、だいじょうぶ・・・・・・」
        「わかったでござる。じゃあ、薬を飲んだのだから、少し眠ったほうがいいでござるよ」
        「ごめんね、心配かけて・・・・・・」
        つぶやくような声に、剣心は笑顔を返した。




        その日の夕刻。
        まだ下がらない熱にうとうとと浅い眠りの中をたゆたっていると、玄関から騒がしい気配がするのを感じた。
        お客様かな、と思っていると、困惑顔の剣心が部屋に入ってきた。

        「何か、あったの・・・・・・?」
        「押し込み強盗だそうでござる」

        来訪したのは警察からの遣いだった。
        押し込み強盗が出て、現在人質をとって商家に立てこもっているそうで、剣心は例によって応援を頼まれたのだ。

        「大変じゃない・・・・・・すぐに行かないと」

        「ああ、でも」

        「うん、くれぐれも気をつけてね・・・・・・」
        「そうじゃなくて、薫殿を残してゆくのは・・・・・・」
        場合によっては一晩帰ってこられないかも知れないのに、高熱の薫をひとりで残しておくのは心配で―――普段ならこういう場合すぐに手伝いに飛んで
        ゆく剣心も、今日ばかりは躊躇した。


        しかし薫はすぐにそんな彼の心情を読み取った。
        「私は大丈夫・・・・・・だいぶ楽になったし、どうせ寝てるだけだもの、行ってきて」
        熱でとろんとした瞳で、それでも剣心の顔を見て薫は微笑んでみせる。
        剣心はかなり後ろ髪を引かれるような顔をしていたが、遣いの警官に急かされながら結局は足早に道場を後にした。


        「・・・・・・静かだなぁ・・・・・・」


        ひとり、まだ完全に日が暮れる前から横たわっていると、カチコチカチコチと時計の音ばかりが耳につく。
        楽になったというのは強がりを言ったわけではなく、薬が効いてきたのか頭痛もひいたし呼吸もそんなに苦しくない。
        重症とは言われたけど、まぁ風邪なんだし、死ぬわけでもないんだし。
        剣心も朝から甲斐甲斐しく看病してくれているし。
        それなのに。


        「・・・・・・不思議」


        剣心がこうして出かけるなんて、いつものことなのに。
        いつもよりずっと心細くなっている自分に気がついて、薫はそれを不思議に思った。

        ただの風邪も、馬鹿にできないなと思った。
        だってこんなに心が弱ってしまうんだもの。


        薫にとって幸いなのは、薬のおかげかこうしている今も、とろとろと眠りの波が静かに寄せてくることだった。眠ってしまえば心細いのも忘れるだろう。

        意識がふわふわと遠くなる。
        できれば剣心の夢をみたいなと思いながら、薫はぼうっと熱を持つ目蓋をゆっくり閉じた。







        鳥の鳴き声。
        まぶたの裏がほんのり明るい
        頬にあたたかな陽光の感触。



        「・・・・・・あれ?」


        もう朝か、と薫は驚く。あのままずっと眠っていたらしい。
        まだ、熱は完全に下がっていないようだが、昨日に較べるとずっと気持ちの良い目覚めで、ああ少しよくなってきてるかもとほっとする。

        そして、耳をくすぐる寝息に気がついてもう一度驚く。
        首を横にめぐらせると、隣には剣心が布団もかぶらずに普段着のまま横たわっていた。


        「ちょ、けんしん・・・・・・」
        「ん・・・・・・?」
        薫の声に、剣心は身じろぎをして目を覚ます。
        「あ・・・・・・おはよう・・・・・・具合はどうでござる?」
        「うん、昨日より楽・・・・・・って剣心、いつ帰ってきたの?」
        「ん、昨夜遅く・・・・・・無事解決でござるよ」
        「よかった・・・・・・」
        薫は安堵の息をついた。剣心は布団から身を起こして、んんん、と大きく腕を上げて伸びをする。

        「ずっといてくれたの?」
        「ん?いや、薫殿の顔を見てから寝ようと思ったら、そのまま・・・・・・」
        ふぅ、と息をつきながら腕をおろすと、布団の傍らに置いておいたらしい籠を、薫の横にとん、と置いた。

        「はい、お土産」
        ごそごそと籠の中から取り出したのは・・・・・・卵。
        「わ、どうしたのこれ?」
        「昨夜行った店の人がくれたんでござるよ」
        「・・・・・・え、強盗に入られた先の?」


        事件解決の後、もう夜中だから署に泊まりますかと言われたのだが、剣心は「妻が風邪で臥せっているから」と帰ろうとした。それを聞いていた店の者
        たちが、お礼です、奥さんに食べさせてください―――と持たせてくれたのだった。


        「しかも、これだけではなく」
        「なあに?」
        「あさつきも付けてくれたでござる」
        もったいぶった様子で、籠の下から青々としたあさつきを取り出した剣心に、薫はぷっと吹き出した。
        「ああ、笑った。ほんとに元気になったみたいでござるな」
        「だ、だってその組み合わせ、どういう意味なの・・・・・・?」
        「これで雑炊を作りなさいって、言ってたでござるよ」
        「あ、そっか・・・・・・」
        卵雑炊に、緑のあさつきを小口に切って散らして。それは確かに美味しそうだ。
        そういえば昨日からずっと食欲がなかったが、一夜あけて漸く空腹感もよみがえってきたようだ。

        「後でこしらえるゆえ、食欲が出たら食べるといい―――他には薫殿、何かしてほしいこと、あるでござるか?」

        昨日とまったく同じ台詞。

        薫は、昨日から夢うつつの中考えていたことを口にした。

        「いっぱいある」
        「おろ、何でござる?」
        何でも言って、と、剣心はどこか嬉しそうに薫に顔を近づける。
        「まずね、剣心、風邪ひかないで」
        「・・・・・・え?」

        首を傾げる剣心に、薫はくすりと笑った。

        「あのね、昨日から熱を出してね、苦しいのは勿論だけど、剣心がいないとき心細かったの。でね、もし剣心が同じように風邪をひいちゃって、もし同じよ
        うに私もそのとき、外で用事があって出かけちゃったら・・・・・・剣心、心細いでしょ?」


        意外な要求に、剣心は少し驚いたような顔になる。

        「だから、そんな思い剣心にしてほしくないから、剣心、風邪はひかないで」
        「・・・・・・わかったでござる」
        「わたしからうつらないように、気をつけて」
        「わかった、それがしてほしいこと?」
        「うん」

        優しい要求に、剣心の顔がほころんだ。

        「で、次は?」
        「次はね、卵雑炊はお昼ご飯に食べたい」
        「それも勿論。ほかには?」
        「えっとね・・・・・・これ」



        するり、と。

        まだ熱い手を、薫は布団の中から覗かせる。
        「ちょっとだけ、手、握ってほしいな」


        昨夜、心細かったから。
        その気持ちを今埋めたいから、ちょっとだけ。
        それはささやかな、でも心からの「してほしいこと」。


        「それも、喜んで」
        剣心は、薫の手を包み込んで、きゅっと、力をこめる。
        「・・・・・・ありがとう」
        薫は、もう一度目を閉じた。





        十分後、再び眠った薫の手を剣心はそっと放した。
        そして、寝息をたてる彼女の唇に触れようとして―――先程の「うつらないように気をつけて」という言葉を思い出した。
        ちょっと考えてから、額に口づける。

        「・・・・・・まだちょっと、熱いかな?」
        唇から伝わった温度に、剣心が小さくつぶやく。



        既に夢の中にいる薫の口元が、僅かにほころんだように剣心の目に映った。








      モドル。