2









        「お願いします」




        折り目正しく礼をした彼女が、すっと竹刀を構えて正対する。
        これは稽古であって闘いではない。なので、自分も彼女に合わせて同様に青眼に構える。


        真っ直ぐに立つ姿勢が綺麗だな、と思った。
        立てば芍薬という喩えがあるけれど、彼女を表現するならそれよりもっと凛とした、可憐だけれど内に力強さをもった―――たとえば、風雨に耐えてなお清
        冽な花を咲かせる山百合の佇まいだろうか。

        って、いやいやいや、そうではなく。
        雑念混じりでは失礼だ。彼女はあんなに真剣だというのに。

        そう、真剣な瞳が、こちらの姿を捉えている。
        きっと今の彼女は俺のことを「いい仲」と公認されている、憎からず思っているであろう男性ではなく(・・・・・・このくらいの自惚れは許して欲しい)、ただ純粋
        に、手合わせの、稽古の相手として見ているのだろう。


        白い足が、ゆっくりと動く。
        同じ歩幅で、こちらも踏み込む。


        ふたつの剣先が近づき、打ち込める間合いに入る。
        途端、彼女は素早く床を蹴って、飛び込むようにこちらの懐に入ってきた。

        真正面から打ちかかってきたのを受けとめて、払う。その打ちの力強さに、いい一撃だなと思った。
        払われても、彼女の重心は揺るがない。素早く手首を返して、すぐさま次の攻撃を仕掛けてくる。


        おそらくは全力で挑んできている彼女には悪いが、俺は竹刀を受け止めながら「ああ、これが薫殿か」と、なんというか新鮮な感慨にふけっていた。
        だって、こんなふうに彼女と打ち合うのは初めてなのだ(初めて会った時に木刀で打ちかかってきたことはあったけど、あれはほんの一瞬でこちらも反撃は
        しなかったのだし)。

        普段の稽古や時折ついてゆく出稽古先などで、竹刀を振るっている場面は何度も目にしているから、そこから彼女の技量がどのくらいのものか推し量るこ
        とはできた。しかし、ただ見ているだけよりも、こうして竹刀から直接受ける、この手応えの重さ―――この重さが、如実に彼女の腕を語ってくれる。


        「・・・・・・はっ!」
        気迫が、そのまま音になって唇から漏れる。ぶつかってくる身体を受けると見せかけて、すっと横に避けた。
        姿勢が崩れるかと思ったが、彼女は動じずにすぐに竹刀を俺の正面に向けて構え直す。


        確かに、強いな、と思った。
        勿論、動乱の頃相対してきた、戦って生き抜くために振るう剣とはまったく違うけれど。こうして今の時代の東京で一門を担うに相応しいだけの力量が、彼
        女には備わっていると思う。きっと、父上の指導の賜物なのだろう。

        人づてに聞いた彼女の父親の人柄は、真面目で正義感の強い人物だった。
        おそらく自分の娘に対しても他の門下生と公平に、区別することなく、厳しく稽古をつけてきたに違いない。

        もう一年早くこの街に来ていたら、彼女の父上にも会えたのだろうか。出来ることなら、会いたかった。彼女を慈しみ育んできた、その人に。
        いやでも、もし会っていたとしたら、「こんなどこの馬の骨ともわからぬ根無し草を大事な一人娘に近づけるわけにはいかない」と警戒されたのだろうか。
        それは充分ありうるし、そうなるとちょっと―――いやかなり困る・・・・・・って、いかんいかん、また雑念が。


        「はぁっ!」
        体当たりしてきた彼女の竹刀を、今度は避けずに受け止めた。
        鍔元が噛み合うようにぶつかり合い、踏みこんだ彼女の脚が自分のそれに当たって、どきりとした。

        ・・・・・・いや、だからなんでこのくらいで動揺しているんだ俺は十代の少年でもあるまいし・・・・・・
        まぁ、彼女と立ち合ったらこうなってしまうであろう事は、予想はついていたのだが。


        もし、彼女以外の女性相手とこうやって手合わせをしたとしたら、「やりづらい」とは感じるだろうが、ここまでいちいち狼狽えることはないだろう。こんなふう
        に過剰に意識してしまうのは、相手が彼女だからだ。

        真正面から見据えてくる迷いのない瞳は、この瞬間は俺のことしか見つめていなくて。
        体当たりで懐に飛び込まれると、ほんの少し腕をのばせば抱きしめられる距離に彼女がいて。
        好きな女性を相手に、この状況はある意味とても嬉しくて、ある意味とても辛い。

        彼女が通う出稽古先では、彼女に稽古をつけてもらうのを目当てにしている若者も多いと聞いたが、彼らも常にこんな距離で接しているのかと思うと少し
        ―――いやかなり嫉妬心が疼く。しかし、きっと彼らは彼女と竹刀を交えている間は、雑念を抱く余裕などろくに無いのだろう。そんな事を考えていたら、
        一瞬のうちに彼女に叩き伏せられるだろうから。俺の場合、なまじ力量的に余裕があるのがいけないのだろうが―――


        と、また余計な事を考えながら、次の一撃を、竹刀を払って流す。しかし彼女は退かず、そのまま鍔迫り合いとなった。
        鍔の下を握る、拳と拳がぶつかる。背筋をのばしたまま怯まずに力をこめて竹刀を押しつけてくる彼女の顔は、これまでの打ち合いですっかり上気して、
        汗の浮いた額に前髪が貼りついている。

        力で押し合うのは、女性である彼女のほうが圧倒的に不利だ。
        彼女の竹刀を押し下げるようにぐっと力をこめると、彼女はぎりっと歯を食いしばり、その力に耐えようとする。
        そう簡単に負けてなるものか、と。鋭い光をたたえた双眸がこちらを睨みつけてきて―――ああ、こんな表情も綺麗だな、と思う。
        少しずつ、じりじりと、竹刀に力を加えてゆく。彼女の剣先が、耐えきれずに震え始めた。


        「くっ・・・・・・」
        眉が歪んで、唇から苦しげな息が漏れる。
        竹刀が動くのをくい止めようと、必死になっているのがわかる。
        その、懸命に堪えている様子すら「あ、いいな」と思ってしまった不謹慎さに―――きっと罰が当たったのだろう。


        ぐい、と。一層強く押すと、下に向かって伸びきった彼女の両腕の間、胴着の袷から胸元が覗いて見えた。
        その時、床を踏みしめる彼女の足が、上からの圧に耐え切れず僅かにじりっと後退し―――弾みで頤から流れた汗が、つうっと一筋透明な軌跡を描い
        て、胸の谷間に吸い込まれた。


        ―――誠に情けないことに、その有様にどきりとして、一瞬目を奪われた。
        そして一瞬、腕の力も緩んでしまった。


        形勢を逆転させるのは、その一瞬だけで充分だった。
        彼女は刹那の隙をついて、竹刀を握る角度を変えた。ひゅっ、と、押し下げる力を受け流すように竹刀をさばくと、すぐに後方に飛び退く。


        その勢いのまま細い腕を振り上げ、絶妙な間合いで、振り下ろした。



        ばしっ、と。
        竹のはぜる音が高らかに響いた。
        出所は当然―――俺の、頭である。



        「〜〜〜〜っ」



        衝撃に、背中を丸め、反射的に頭を押さえる。当たり前だが、痛かった。
        何が起きたのか咄嗟に理解できなかったのだろう。彼女は一瞬呆然となって立ち尽くし、一拍おいてから竹刀を放り投げて駆け寄ってきた。

        「う・・・・・・嘘っ! ごめんなさい! 剣心大丈夫っ?!」
        「いや、平気でござるよ・・・・・・これ、結構効くでござるなぁ。いい一撃だったでござるよ」
        「・・・・・・え?」
        「薫殿の勝ちでござるな、ありがとうございました」


        手合わせを締めくくるのに、そう言ってぺこりと礼をする。
        やれやれようやく終わったと思いながら顔を上げると、目の前の彼女の表情が気遣わしげな色から驚いたそれに変わり―――
        そして、怒りにわなわなと肩を震わせはじめた。



        「・・・・・・・・・そんな事、あるわけないでしょーーー!!!」







        ―――それから、彼女の怒りを鎮めるのにかなり苦労した。


        彼女は、俺が手を抜いてわざと負けたと思ったらしい。
        まぁ、そう思うのも無理はないのかもしれない。でも本当に、俺が彼女に勝てるわけがないのだ。

        竹刀を持って向き合っただけで、あの大きな瞳に見つめられただけで、どぎまぎして平常心ではいられなくなる。
        懐に飛び込んでこられたりしたら、竹刀を投げ出してそのまま抱きしめてしまいたくなる。

        実戦のように一撃で勝負を決めるのであれば、煩悩に駆られている暇もないので、彼女の望むとおりまともな立ち合いにはなったかもしれない。
        しかし、そんな一瞬で勝負を決めてしまっては、とても「稽古」とはいえないだろうし。



        と、いうかそれ以前に―――俺が彼女を竹刀で殴るだなんて、そんな事、出来るわけないじゃないか!!!



        まったく、ちょっと考えれば彼女も判りそうなものなのに―――いや、彼女のことだから「稽古なんだからそんな事に気を遣う必要はない」と言うような
        気もするが、でも彼女だってそれは同じだろうに。

        俺に一撃を食らわせた後、大丈夫かと言って駆け寄ってきたときの君の顔。
        凛々しく闘う剣士の顔が、一瞬のうちに、泣き出す寸前の可憐な少女の顔に変わった。


        こんな(精神的に)消耗する「稽古」はしばらく遠慮願いたいが・・・・・・まぁ、今回に関してはあんな顔を見られただけでも良しとしよう。





        あれは、きっと普段の稽古では、誰にも見せたりしない表情だろうな、と。
        自惚れかもしれないけれど、そう思うことにした。












        3 へ続く。