「・・・・・・そういえば、そんな事があったわね」
君は呟くようにそう言った。語尾は屋根を叩く雨音に溶けて消えた。
「京都から帰ってきて間もなくだったから、一年以上前のことでござるな」
「剣心、あの時そんな事考えてたんだ・・・・・・」
空を覆う鈍色の雨雲のせいで、まだ昼だというのに薄暗い。
そんな中、道場の床に仰向けに横たわる君の道着の白が、ぼんやりと明るく浮かびあがるように見える。
「そんなこと知らずに、無茶言ってごめんなさい―――今更謝るのもなんだけれど」
「うん、もう謝らなくてもいいでござるよ」
倒れた君の上に「乗っかった」姿勢で、笑ってみせた。君はなんだか憮然とした表情になって、少し離れた場所に転がる竹刀に目をやった。それは先程ま
で君が握っていた―――俺が弾き飛ばして、君が手から取り落としたものだ。
「・・・・・・そうよね、現にこうして、わたしは剣心に勝てなくなっちゃったんだし」
それが当然なんだけれど、と付け加える声には明らかに悔しそうな色が滲んでいた。当然と思っていても、やはり手合わせをして負けるのは理屈抜きで
悔しいのだろう。いかにも、気の強い君らしい。
「勝ったのだから、ご褒美を貰ってもいいでござるか?」
「わたし、そんな約束したかしら・・・・・・?」
聞こえなかったふりをして、屈みこんで口づける。道場の空気はひんやり冷たいけれど、さっきまで激しく動いていた所為か、抱きしめた君の身体はいつも
より熱いように感じられる。身体だけではなく、絡めた舌も、熱い。
「・・・・・・ね、剣心・・・・・・ここで?」
首筋から、肩を伝って腰へと。君の輪郭を確かめるように身体の線をゆっくり辿って撫でてゆくと、君は困惑の声をあげた。
「ここじゃ、嫌?」
「だって・・・・・・」
そりゃ、困惑して当然だろう。薄暗いとはいえまだ昼間で、しかも此処は、幼い頃から父上と稽古をしてきた道場だ。
しかし、君のそういう困り顔もまた魅力的なものだから―――つい、こういう無茶を言いたくなってしまう。
「・・・・・・嫌?」
そう尋ねながら、紺色の袴の紐に指をかけた。君はふるふると首を横に振って、小さな手を俺の手に重ねて、無体を押しとどめようとする。
「だって・・・・・・こんなの、父さんに怒られちゃうわ」
・・・・・・君にしてみれば、それは必死な制止のつもりだったんだろうけれど。
でも困ったことに俺にしてみれば、そんな可愛い台詞を言われるのは当然逆効果なわけで、だから―――
「大丈夫、拙者がかわりに怒られるから」
そう言って襲いかかったら、君は身をよじって「大丈夫じゃないー!」と悲鳴をあげた。
と、いうわけで。
ここから暫くはあまり人様にはお見せできない状況になるので、一旦回想にお付き合い願いたいと思う。
★
今日は朝からいつ降り出してもおかしくないような雲り空だった。晩秋の雨に当たって風邪でもひいたら大変だ―――そう思った彼女は、稽古にやってき
た門下生たちをいつもより早めに帰してやった。その後、案の定堪えきれずに空は泣き出して、午後からは篠突く雨がけたたましく屋根を鳴らし始めた。
冷たい雨に、家の中に閉じこめられて、稽古も短い時間しかできなくて、身体もなまっていたのだろう。薫は一度普段着に戻ったのをまた道着に着替え
て、そして俺に「一回でいいから、手合わせをして」とお願いしてきたのだった。
前にもこんな事があったなぁと思いながら―――前よりは幾分すんなりと承知した。
「よろしくお願いします」と礼をして、距離をとって向かい合う。
無理のない、自然にすっと背を伸ばす立ち姿に、やっぱり今回も「あ、綺麗だな」と思う。
じりじりと打ち込める間合いまで近づいたところで、こちらから仕掛けてみた。誘うように竹刀を動かしたが、君は簡単には釣り込まれない。手元を狙った
一撃をきれいに払って、今度は君のほうから打ちかかってきた。
だん、と力強く踏みこんで、ふりかぶった竹刀を叩き込んでくる。
無駄の少ない動きだ。相変わらずいい剣を振るうな、と嬉しくなった。
道着の袖からのびる白い腕は折れそうに細いくせに、竹刀と一体となって動く様はしなやかで、打ちは力強く、重い。
大きな瞳がしっかりと俺の姿を捉えて、こちらからの攻撃にも揺るがず、身体の中心を常に俺の方へと向けている。
改めて、強いな、と実感した。
命の駆け引きで振るう剣と竹刀剣術とでは質は違うが、薫の剣は充分に他人を守ることができる、後進を導くのに相応しい、迷いのない剣だ。
単純に彼女の伴侶として、その事実がとても嬉しく、誇らしい。
しかし、稽古といえども勝負はつけねばならないわけで。
でも、やはり自分としては君のことを竹刀で叩いたりはしたくないわけで―――では、どうやって幕を下ろそうかな、と考える。
攻撃を受けながら、少しずつ後退し、足を止めた。
ちらりと視線を周囲に走らせ、壁との距離を確認し、ここでいいかな、と思う。
胴を狙ってきた一太刀。それを、今までより力をこめて大きく払う。薫は衝撃に耐えきれず、体勢を崩す。竹刀を取り落としそうになったのを何とかこらえて
素早く構え直したが―――その隙に、俺は彼女の視界から消えていた。
「えっ・・・・・・?」
たたらを踏んだ薫の背中を、伸ばした竹刀の先で、とん、と軽くつつく。
別に、妙な術を使ったわけでも何でもない。横に跳んで壁を蹴って、それを反動にして彼女の斜め後ろに着地しただけの事だ。まぁ、術ではないが「芸当」
の域くらいには入るかもしれないが。
つぅ、と剣先で背をなぞって、ぴたり、と首の横で止める。
「勝負あり、でござるな」
今の動きは竹刀稽古としては行き過ぎだったかもしれないが―――君に痛い目をみせずに終わらせるにはこれが最良かと思った。
しかし、それに対する薫の反応も、まるで実戦のそれだった。
薫は何も言わずに、ふっ、と深く身を沈めた。膝を折ったまま、ざっ、と身体を反転させ、一気に伸び上がる。勢いをつけて竹刀を跳ね上げ、下から俺の竹
刀を弾き飛ばそうと試みたが―――弾き飛んだのは、逆に彼女の竹刀だった。
「きゃっ・・・・・・!」
君が竹刀を手放したのと同時に、紺色の袴の軸足を、軽く蹴って払った。
細い身体が、床にむかって大きく傾く。受身くらいとれるだろうが、それでも君が床に落ちるところなど見たくないので、ぱっと手を伸ばして抱きかかえるよ
うにして、頭を庇ってやる。
半ば反射的にだろう、薫の手が襟元にすがりついてきた。
そのまま俺も膝を折って―――ふたりで崩れるようにして、床の上に倒れこんだ。
長年の習慣からか、俺の右手はまだしっかりと竹刀を握っていた。
身を起こして、仰向けに倒れた白い首のすぐ横に、剣先を突き立てる。
「今度こそ、降参するでござるか?」
君は無念そうに深く眉根を寄せて、袷を掴んでいた手をぱらりとほどいた。
その手が、ぱたんと床の上に落ちる。
「・・・・・・参りました」
覆い被さっている俺にむかって、薫は悔しさを露にそう言った。
★
以上、回想終了。
そして現在。
君から「ご褒美」を貰った俺は、離れるのが惜しくて素裸の君を抱いたまま、なかなか床から起き上がれずにいた。
降り続く雨音が道場をすっぽりと包み込み、世界からここだけが遮断されてしまったように感じられる。実際、この天気なら今日はもう誰かが訪ねてくるこ
ともないだろう。それならば、安心してこのぬくもりに甘えていられる。
―――なんてことを考えていたら、かりっと腰のあたりに爪を立てられた。何だろうと思って身を起こすと、少し怒っているような、それでいて不安そうな表
情の君と目が合う。
「薫?」
「・・・・・・ねぇ、前は剣心、どきどきするから、わたしとまともに稽古ができなかったんでしょ?」
「まぁ、そうでござるな」
それについては、先程の勝負がついた後、「実はあの時こんなことを考えていた」と、ちょっとした思い出話のつもりで君に話したのだが。
「じゃあ・・・・・・剣心今はもう、わたしにどきどきしなくなっちゃったって事?」
「・・・・・・は?」
あの頃と違って、どきどきしなくなったから。自分に対するときめきがなくなってしまったから、だから今回はあっさり勝てたのか、と。君はそう訊いてきた。
―――って、とんでもない誤解である。
「いや! 薫殿それは違うでござるよ」
「でも、今日は剣心全然戸惑ったふうじゃなかったし。痛くしないように気を遣っているのはわかったけれど、でも」
君の声には、幾分拗ねた色が混じっていた。「どきどきしなくなったのでは?」という疑念だけではなく、いとも簡単に勝負がついてしまった上に、こんな
場所で好きにされたことが腹立たしいのかもしれない。
「戸惑わなくなったのは・・・・・・ちゃんと伝えられるようになったからでござるよ」
子供みたいに拗ねる様子も可愛いのだけれど、しかし、誤解は誤解なのでここはきちんと釈明せねばと思いと真面目な声になる。それを感じとってか、君
は微妙に逸らしていた目を俺に方へと向けてくれた。
「あの頃はまだ、触れたくても触れてよいものかわからなかったし、まだ、その・・・・・・ちゃんと好きだとも言えてなかったし。だから・・・・・・いちいち戸惑った
りどぎまぎしたりしていたのだが、でも」
情事の名残でほんのり桜色に染まった君の頬が、さらに濃い赤になる。そこにそっと触れながら、続けた。
「でも今は、ちゃんと全部伝えられるようになったから・・・・・・それは、薫殿も同じでござろう?」
あの頃、互いの気持ちはわかっていたけれど、互いにそれを口にする勇気はなくて。
触れたいと思っても、それが許されるのかどうかもわからなくて。それに俺は、まだ君に過去のすべてを打ち明けてもいなくて。
だから、あんな手合わせで君と異常接近なんてしたものなら、どう振舞ってよいものかわからず混乱して、どぎまぎしてしまうのは無理のない話だった。
でも今はもう―――想いを抱え込んだまま、じりじり思い悩む必要はなくなったから。
どきどきしたのなら、その感情のままに君を抱きしめればいいのだ。
好きだという気持ちが溢れそうで苦しくなったのなら、何度でも言葉にすればよいのだ。
今はそうやって、互いに愛しさを伝えられるようになったのだから―――もう戸惑うことはない。
「・・・・・・わたしは、あの時は立ち合うのに精一杯で、どぎまぎする余裕もなかったんだけれど」
「うん、そんな薫殿がちょっと羨ましかった」
君はばつが悪そうに首を縮めると、小さな声で「ごめんなさい」と言った。どうやら誤解は解けたようで、俺はほっとして君の手をとる。
「むしろ、あの頃より今のほうがどきどきしているくらいでござるよ、ほら」
先程まで竹刀を握っていた君の右手を、自分の胸へと導いた。裸の胸に触れさせられて、君はますます顔を赤くする。
そして、その手をぱっと振り払ったかと思うと、今度は反対に君が俺の手を掴み―――そのまま、ふくよかな胸の膨らみに、ふにっと押し当てた。
「かっ・・・・・・薫!?」
てのひらに直に伝わる、柔らかい感触。
いや、そりゃ、そこはさっきまで散々好きに触っていたわけだけれど。君から突然そうされると流石に慌ててしまうわけ、で・・・・・・
「・・・・・・わたしのほうが、もっとどきどきしてるもん」
・・・・・・そこは、競うところではないと思うのだけれど。
でも、その行動と思いがけない発言そのものに、「参った」と思った。
「ひゃ!」
びく、と君の肩が跳ねたのは、胸の上にあった指を俺がそのまま動かしたから。
「ちょ・・・・・・ちょっと剣心!?」
「ごめん薫殿、もう一回」
「ふぇっ!? だっ、だからここじゃ嫌だって・・・・・・あっ!」
再び覆い被さろうとすると下から押し返してきたから、その手首を捕まえて床へと押しつける。
どうしてだろう、例えば今だって、優位に立っているのはこっちのほうなんだろうけれど。
それでも―――やっぱり、君には全然勝てる気がしない。
「部屋でなら、いい?」
囁くように、尋ねる。君は潤んだ瞳で俺を見上げて、小さくこくんと頷いた。
抱き上げると、細い腕が首に絡みついてくる。
「ねぇ、剣心」
「んー?」
「今も、どきどきしてる?」
「・・・・・・してるでござるな」
「どのくらい?」
「ちゃんと、教えてあげるから」
額に口づけると、子猫のように頭をすりつけてきた。
そんな君がたまらなく可愛くて、もう一度「参った」と心の中で白旗を揚げる。
世界にひとりだけ、絶対に勝てない相手がいる幸せ。
その事に感謝をしながら、力いっぱい君を抱きしめた。
勝てない相手 了。
2013.12.12
モドル。