「大事な話があるの」
そう切り出されて、つい悪い方向へと考えが向いてしまうあたり、つくづく自分は後ろ向きな人間だと思う。
例えば、嫌いになったと言われるとか別れを告げられるとか―――しかし、そんな嫌な想像をした直後、いや待てよ俺はまだ彼女に面と向かって好きだと
言ってすらいないじゃないかと思い直す。
実際周りからはすっかり「いい仲」と公認されるようになったし、大体自分もそのつもりで京都からこの家に戻ってきたのだけれど、でもまだちゃんと気持ち
は伝えていない。ではひょっとしてこの後彼女から告白されたりするのだろうかと、先程とは正反対に前向きなことを考えてみた。
いや、しかしそんな大事な事を女性の口から言わせるのはどうなんだ? じゃあ先に俺から言ってしまうべきじゃないか。でもまだ彼女にはきちんと俺の過
去の話を打ち明けていないのだ、好きだと告げるよりも、まずはそちらが先ではないかと―――そんなことをぐるぐる考えていたら、目の前の彼女が急にく
るりと背を向けた。
「・・・・・・薫殿?」
「ちょっと、ついて来て」
居間では、できない話なのだろうか。そういえば、彼女が今身につけているのは道着である。しかし、今日の稽古は既に終えていた筈だが―――
そう思いつつ後をついてゆくと、連れてこられたのはやはりというか何故かというか、道場である。
そして彼女は、壁に掛けられていた竹刀を二本手に取った。つかつかと歩み寄ってくると、そのうちの一本を俺へと差し出す。
「わたしと、手合わせしてほしいの」
彼女の声音は真剣だった。
けれど、それに対してまず出た声は「・・・・・・は?」という間の抜けたものだった。
大事な話というのは、手合わせの申し入れを指していたらしい。しかし、あまりに予想外な展開にどう返答したらよいものかわからず、立ち尽くしたまま
まじまじと彼女の顔を見る。
「剣心、最近よく弥彦に稽古つけてあげてるわよね」
「ああ、そうでござるが・・・・・・」
最近、というのは京都から帰ってきてから、という意味だ。
それまでは―――いちど東京を去ったときまでは、自分はいつか此処からいなくなる人間だと思っていたから、いずれ皆の前から去る時のために、皆の
心に自分の痕跡が残るようなことはしないでおこうと思っていた。自分から弥彦に稽古をつけなかったのも、そんな理由からだ。
しかし、今はもう此処を離れるつもりはなく、此処を帰る場所にしたいと強く思っている。弥彦の未来も、ちゃんと見守ってやりたいと思えるようになった。
もともと弥彦に剣術を勧めたのは自分なのだし、それならば直接の師匠ではなくても、彼の振るう剣には自分にも責任があると言えよう。そんなことを考え
つつ、最近は毎日のように弥彦の稽古を見てやっているわけなのだが―――
「わたしね、剣心がそうしてくれるのはとっても嬉しいの。あの子も喜んでいるし、それで弾みがついて、わたしとの稽古にも今まで以上に力が入るように
なってきたし・・・・・・でも」
「でも?」
そこで一回彼女は言いよどみ、次に発すべき言葉を選んでいるようだった、が。
「弥彦ばっかり、ずるいっ!」
悩んだ末に選択した言葉は、どうやら一番素直な言い方だったようだ。
「ずるい・・・・・・?」
「そうよっ! わたしだって前からずっと稽古の相手をして欲しいって言ってきたのに、剣心一度も相手にしてくれなかったじゃない! ううん、過去形じゃな
いわ、今だってそうよ!」
・・・・・・確かに。まだ出会って間もない頃、それこそ弥彦がこの家に来る前から彼女はそう言っていた。そして俺はそれをのらりくらりとかわし続け、そんな
やりとりは現在まで続いている。
「わたしだって剣心に稽古つけてもらいたいのにー! ねぇ、どうして弥彦はよくてわたしは駄目なのっ?!」
駄々をこねるような口調になってきたが、彼女の言っていることは間違っていない。実際、竹刀剣術は苦手だ、慣れていないと言いながら彼女の「お願い」
を断ってきたのだが、今はその竹刀を握って弥彦に稽古をつけているのだし、もうそんな言い訳は通用しない。
けれど、彼女を相手に弥彦と同じようにしろと言われても、そんなこと出来っこないのだ。だって―――
「そうは言っても・・・・・・薫殿はもう、拙者が勝てる相手ではないでござるよ」
彼女は、一瞬きょとんとして、それから今の言葉の意味を頭の中で咀嚼して―――茶化されていると、受け取ったようだ。
「・・・・・・・・・そんな事、あるわけないでしょー!!!」
たっぷり吸った息を腹いっぱいにためこんで、一気に吐き出したような大音声。つまりは、怒りの声が道場に響き渡った。
「何それっ?! わたしが剣心よりも強いっていうの?! そんな馬鹿なことあるわけないじゃない断るにしてももう少しマシな嘘をつきなさいよー!」
柳眉を逆立てた彼女が詰め寄ってくる。ぎっ、と至近距離で睨んでくる黒い瞳はいきいきとした生命力に満ちていて、こんな状況だというのに「怒った顔も
綺麗だな」と思ってしまう。そういえば、弥彦を叱りつけたり言い合いをしたりする「怒り顔」を傍らで眺めることはあっても、こうして怒りの矛先が俺の方に
向いたのは久しぶりかもしれない。
と、そんな事を考えながら強い視線を受け止めていたが、不意に、彼女の口許がふっと歪んだ。
「薫・・・・・・殿?」
瞳に浮かんでいた怒りの気配は、悲しげな色へと変化する。小さな顎をすっと引いて、睫毛の長い目を伏せる。
「それとも、わたしが女だから・・・・・・そんな適当なこと言うの・・・・・・?」
―――しまった。
怒らせただけではなく、傷つけてしまった。
「そ、そんなつもりはないでござるよ! その、今のはちょっと言葉が足りなかったが、拙者は本当に・・・・・・」
慌てて補足をして誤解を解こうとしたが、彼女はもう一度顔を上げると、先程より更に真剣な眼差しをまっすぐ俺へと向けてきた。
「お願い・・・・・・一回だけでもいいから」
・・・・・・うわぁ・・・・・・
なんて瞳で見つめてくるんだ。しかも、こんな近い距離で。
「そりゃ、わたしは女だけど、それでも剣術をやっている人間の端くれとして、優れた腕の相手と立ち合ってみたいって思うんだもの・・・・・・そう思うことに、
男も女も関係ないでしょう?」
「それは判るが、でも」
「それに・・・・・・」
次の言葉を紡ぐのを躊躇うかのように、彼女の唇が震えた。
しかし、僅かな逡巡のあと、小さな声がこぼれ落ちる。
「それに・・・・・・剣心、もうどこにも行かないのなら・・・・・・わたしとだって手合わせ、できるんじゃないの・・・・・・?」
それは、些か抽象的な言葉の集まりだったけれど―――はっとさせられた。
彼女は、気づいている。俺が以前は弥彦に稽古をつけなかった理由と、うって変わって今はまめに面倒を見ている、その理由を。
覚悟を決めるように、大きくひとつ息をついた。
彼女の手から、竹刀を一本取り上げる。
「・・・・・・承知したでござるよ」
そう返事をすると、彼女の目が驚きに大きくなった。次いで、頬にさっと喜びの色が差す。
「でも、一回だけでござるよ? 今日だけ特別にでござる。それでもいいでござるな?」
念を押すと、彼女はこくこくと繰り返し頷いてきらきらした瞳で「ありがとう・・・・・・!」と言った。
・・・・・・仕方ない。
だって、そんな「どこにもいかない」なんて事を不安そうに言うものだから。
俺はもう、二度と君のそばからいなくなったりしないよ、と。
それを証明させるためにも、一度だけ、彼女と立ち合おうと思った。
―――勝てる自信など、まるでなかったけれど。
2 へ続く。