彼の背中






        「・・・・・・どうかしら?」




        肩ごしに、鏡に映る彼に問いかける。
        首のあたりに散った髪の毛を払いながら、剣心は満足そうに「うん、軽くなった」と頷いた。

        「かたじけない薫殿、巧いものでござるなぁ」
        「そう・・・・・・?ならいいけど・・・・・・」
        床に敷いた紙の上に散らばった赤毛を一房つまみながら、「でもちょっと勿体無いかなぁ」と、薫は呟く。
        「何が?」
        「こんなに思いきり切っちゃって・・・・・・わたし剣心の髪、好きだったんだけど」







        突然に「髪、切ろうかな」と思いたった剣心に頼まれて、鋏を渡された薫。驚きながらも引き受けたのはいいが、こうして切り落とされた髪の毛を眺めて
        いると少々残念な気もしてくる。それは薫が女性ゆえ生まれた感情かもしれないが。
        「似合わないでござるか?」
        肩の上までの短髪になった剣心が首を傾げる。薫は同じ方向に首を傾けながら、じっと彼の顔を見つめたのち、ぱっと陽が射したような笑顔になった。

        「・・・・・・ううん、短いのも新鮮!」
        短くなった髪の中に両手の指を差し入れて、くしゃくしゃと掻き乱してやる。今までと異なり、指を簡単にすり抜けてゆく感触がまた楽しかった。
        「うん、長いのも好きだったけれど、わたしこっちも好きだわ。男前が上がったわよ」
        そう言って、朗らかに笑う。剣心はお返しとばかりに、薫の両手を捕まえて彼女の頬にぐりぐりと自分の頭を擦りつけた。きゃあ!と笑い混じりの悲鳴が
        あがる。

        ちょっと前なら、こんな時はぎゅうぎゅうと思いきり抱きしめてやったところだが、最近とみに大きくなってきた彼女のお腹を見るにつけ、剣心は流石に自
        重せねばと自身に言い聞かせているところだった。



        薫の中では今、小さい生命が確かに息づいている。
        経過は順調で、次の季節には家族がひとり増える予定だ。



        「後は拙者が片づけるでござるよ、ありがとう薫殿」
        「うん、お願いね・・・・・・でも剣心」
        髪の毛の散った床の上の紙をまとめる剣心に、薫は不思議そうに尋ねる。
        「何で、急に切る気になったの?」
        少年の頃から長く伸ばしていた髪だ。「突然思い立って」以外にも何か思うところがあったのでは、と思い、訊いてみる。
        「薫殿、リボンつけるのやめたでござろう」
        「え、それこそ何となくなんだけれど・・・・・・」


        お腹に赤ちゃんがいることがわかってからも、薫はトレードマークのリボンは変わらず結っていた。しかし、腹部が膨らみ出すにつれ、髪に揺れる少女ら
        しいリボンと大きなお腹の組み合わせがアンバランスに見えてきて、薫は鏡の前で首を傾げたのだった。そんなわけで、リボンは少し前からつけるのを
        やめている。
        もともと、剣の稽古の時は邪魔になるから外していたし―――きっと子供が産まれたらいろいろと慌しいだろうから、そういう意味でも、もうリボンは結わ
        ないだろう。

        「拙者も、薫殿と同じでござるよ。何となく心機一転、でござる」
        「心機一転、かぁ」
        薫はちらりと鏡を覗いた。そこにはリボンをつけていない自分の顔が映っている。
        大きなお腹に似合わないと感じたから、何となく外したリボン。
        確かに「何となく」からの行動だったが、それは薫なりの「母親になるため」の準備とも言えた。


        「・・・・・・あ」
        剣心のほうに視線を移した薫は、その後ろ姿を見て小さく声を漏らした。
        「どうかしたでござるか?」
        「剣心、ちょっとそのままでいて」



        言いながら薫は、まじまじと彼の背中を見つめた。
        今まで、首の後ろから垂らしていた髪。
        背中の半分を隠していたその長い髪がなくなって―――同じはずの背中が、そのぶんいつもより大きく見える。



        「お父さん、って感じがする」
        「え?」



        歩み寄って、広くなった背中にそっと身体を預ける。
        「剣心、背中が頼もしくなってるわ」


        リボンをとって、無意識のうちに形から母親らしくなろうとしている自分。
        剣心も同じなのかもしれない、そう思うと嬉しくて、薫は彼の背中に頬をすり寄せ微笑んだ。






        剣心は薫の体温を背中で感じながら、今くらいは思いきり抱きしめても許されるよな、と心の中で呟き―――次の瞬間、実行に移した。













        (了)


 




                                                                                     2012.03.19 




         モドル。