帰り道の途中、紺色の暖簾がはためく茶店の前で、どちらともなく足を止めた。
用事を終えて、後は道場に帰るだけ。しかし今日は結構寒いしそんな中を沢山歩いたし、何よりいささか気疲れしていた。頭の中を覗き見ることはできな
いが、おそらく俺だけではなく君もそうなのだろう。揃って立ち止まったのがその証拠だ。
「ひと休み、していこうか」
そう提案すると、君は大きく頷いた。
「何か、半分こしましょうよ」
はんぶんこ、という言い回しがなんとも可愛くて、それだけで目尻が下がるのを自覚する。確かに、今の時間に沢山食べると夕飯が入らなくなりそうだか
ら、そのくらいにとどめておくのが賢明だろう。
「半分にしやすいのは・・・・・・饅頭とか?」
「あ、いいわね!じゃあお饅頭ひとつと・・・・・・わたし、甘酒が飲みたいわ」
「じゃあ、拙者はお茶で」
注文を給仕の娘に伝えて、ふたりでほっと息をつく。
「これで、だいたい済んだわねぇ」
「ああ、ひと仕事終えた気分でござるよ」
「お疲れ様でした!」
そう言って君は笑い、ぺこりと小さく頭を下げてみせた。
今日は年始の挨拶を兼ねて、ふたりで「祝言を挙げることになりました」という報告をして回った。
行った先は薫の知己―――主に、彼女の父上と親交のあった他流派の道場などである。薫にとっては、嬉しくも気恥ずかしい報告であっただろうが、俺
としてはそれに加えて緊張もあった。彼女の御両親と親しかった方々への挨拶というのは、なんとなく、間接的に父上母上に「娘さんをください」とお願い
しているような気分でもあるし、しかもその大半が初対面の相手なのである。気疲れもしようというものだ。
とはいえ、行く先々で「ああ、君があの・・・・・・」と先回りして合点されたので、自己紹介が思ったより簡便に済むのは有り難かった。この界隈に自分の名
前が知れ渡っていることは気恥ずかしくもあるが、この度はそれに感謝である。少なくとも、道場主である剣術小町の良人になるだけの腕はあると認めて
貰えたはずだから。
「お待たせしました」と、卓子の上に皿と湯呑みが置かれた。皿にひとつ載せられた饅頭を取って、真ん中から二つに割った―――のだが、しっかり均等
な「半分」にはならなかった。なので、やや大きめの方を「はい」と君に差し出す。それは殆ど無意識の行動だったのだが、何故か君は、急に難しい顔に
なる。
「・・・・・・ねぇ、剣心。わたし、あなたと夫婦になる前に、言っておきたいことがあるの」
え?
なんだ、なんだこの展開。
饅頭を手にしたまま、俺は凍りつく。こういう言葉の後に続くのは、大概にして不穏な内容の告白と相場が決っているではないか。
いや、しかしそれにしても、茶店で饅頭を前にした今の状況で、いったい何を切り出すというのだろう。
「わたしのこと・・・・・・あんまり、甘やかさないでほしいの」
殊更にしかつめらしい顔を作って、君はそうのたまった。
・・・・・・って、え?
予想はいい方向に裏切られたようだが、しかし―――
「甘やかすって、誰をでござるか?」
訳がわからず尋ねてみると、君はすかさず「もちろん、わたしをよ」と返す。
「甘やかした覚えはないのだが・・・・・・」
「だって、今だってわたしに大きい方を渡そうとしているでしょう?」
饅頭のことを言っているのだろう。いやしかし、別にこれは深く考えて大きい方を渡そうとしたわけではないのだが―――
「この前だって、お芋の煮付けの最後の一個わたしにくれたし、赤べこでも、大きなお肉はわたしのお皿に入れてくれるし」
「・・・・・・食べ物の事ばかりでござるな」
「食べ物に限らずよ!」
挙げられた例が可愛らしいものばかりだったので、うっかり笑ってしまいそうになるが、君はあくまで真剣だった。
「たしかに、今わたしが言ったことって些細なことかもしれないけれど・・・・・・心配なんだもん」
「何が?」
「食べ物のこと以外でも、こんなふうに剣心に優しくしてもらうのは、嬉しいの。とっても嬉しいんだけれど・・・・・・それに甘えてばかりいたら、わたしどんど
んわがままになっちゃいそうで、怖いのよ」
・・・・・・ああ、成程そういう事か。真剣な眼差しで訴える君には悪いけれど、微笑ましくてついつい頬が緩んでしまう。
「大丈夫でござるよ。そうやって自分から『甘やかすな』と言うようなひとが、わがままになるわけがないでござろう?」
「そうかしら・・・・・・」
いまいち納得のいかない表情をしている君の手の上に、饅頭の半分を乗せてやる。初志貫徹というわけでもないが、やや大きい方だ。それに目を落とし
て、君は「・・・・・・剣心は、優しいわよね」と呟く。
「え?」
「優しくて、うんと年上で、頼り甲斐があって・・・・・・だからわたし、いつの間にか剣心に甘えちゃってること、たびたびあると思うの」
言われる側にとってはなんとも面映ゆい言葉が続いたが、君の目は真剣そのものだった。
「甘えすぎて、わがままな嫌な子にはなりたくないの。だって、そしたら剣心わたしのこと・・・・・・」
嫌いになっちゃうでしょう、と。ふっと俯いてそう言うのがいじらしくて、「嫌いになるわけないでござる」と大声で叫んでしまいそうになるのをなんとか堪え
る。なんとか堪えて、常識の範囲内の音量でその台詞を口にした。
「だいたい、拙者のほうが薫殿よりずっとわがままなのだから、そんな心配する必要ないでござるよ」
「嘘!剣心がわがままなわけないじゃない」
すかさず打ち消してくれる優しい君に感謝しつつも、小さく首を横に振る。
ありがとう、でも、俺は本当にわがままなんだ。だって―――
「薫殿と夫婦になりたいと思った時点で、拙者はもうわがままなんでござるよ」
いぶかしむように眉根を寄せる君に、俺は続ける。
「本来なら、拙者のような者に幸せになる資格など、ない筈なのだから」
その言葉に、君の目許が険しくなる。こういうことを言った時、きちんと怒ってくれる君が好きだ。ともあれ、気色ばんで反論しようとするのを制して、続ける。
「でも、拙者は薫殿と一緒になりたいし、それは誰が何と言おうと譲れないでござる。だから―――拙者はわがままなんでござるよ」
きっぱり言い切った俺の顔を君はまじまじと見つめて―――そして、ぱっと花が咲くように、笑った。
「剣心がわがままで、よかったわ」
ああ、本当に―――君には感謝しかない。
こんな面倒な男の過去も現在もこれからもまとめて受けとめて、一緒に生きようと決めてくれた君には。
君は「よかった」と笑ってくれるけど、たとえば縁のような、俺に遺恨を持つ者たちにしてみれば、俺の決意は単なるわがままでしかないだろう。
闘いの最中に「自害しろ」と言い放った縁。それほどに、俺に対する彼の恨みは深かった。
「それはできない」と、俺はその言葉を撥ねつけたが、もしもあと一年早く縁が日本に戻っていたなら。あと一年早く闘って、同じ言葉を投げつけられてい
たなら。俺は彼の言うとおりに従っていたかもしれない。
撥ねつけることができたのは、答えにたどり着けたからだ。生きて、ひとつでも多くの笑顔を守りたいと思ったからだ。そして、一番近くにいる一番大切な
ひとの笑顔を守るためにも、俺は死ぬわけにはいかないと―――そう、思ったからだ。
残されるほうの哀しみを絶望を、俺は確かに知っている。君に、そんな思いをさせないために、俺は生きたい。
それがわがままであろうとも身勝手であろうとも、誰に責められようと詰られようとも、俺は生きる。
君の笑顔を守るため―――石にかじりついてでも生きてやる。
「これ、まだ蒸したてね。あったかくておいしーい・・・・・・」
饅頭を頬張って、うっとりと目を細める様子が可愛くて「拙者のも食べるでござるか?」とすすめたが、「だから、甘やかさないで!」と断わられる。
「甘やかしたいでござるなぁ」
「けーんーしーんー?」
半眼になって睨む、そんな表情までもが、困ったことに可愛らしい。
「冗談でござるよ」とはぐらかしつつ口に運んだ饅頭の半分は、君が言うとおりほのかに温かい。優しい甘さとぬくもりが、口の中に広がった。
「美味しいでござるな」
「でしょ?美味しいものはちゃんと分け合わないとね。夫婦って、そういうものなんでしょう?・・・・・・って、やだ、ちょっと気が早かったかしら」
自分で言った台詞に照れて頬を赤らめる君に「早くないでござるよ」と返す。だって、俺としてはもうこの後帰宅してすぐさま誓いの盃を交わしたっていい
くらいの気持ちでいるのだから。
しかしそれでは、今日の挨拶回りの意味がなくなってしまう。はやる気持ちを落ち着かせつつ、俺は来月に思いを馳せた。
白無垢に身を包み、皆からの祝福を受けて微笑む君を思い浮かべながら、予行演習のように心の中で誓ってみる。
ずっと、君を大切に守ります。
ずっとずっと―――君と一緒に生きてゆきます、と。
了
2019.09.28
モドル。
現代版は、こちら。