「あなたの眼に眠りが、そして胸には平和が宿りますように!

     いや、私自身がその眠りと平和ともなって、あなたの眼と胸とに宿りたい!」









     7








        剣心は、はっとして―――それから、なんともばつの悪い表情になり、ぱたんと布団の上に身体を倒した。


        「剣心?」
        「・・・・・・いや、それこそ薫殿は何も悪くないでござるよ。悪いのは、あの時縁を倒せなかった拙者のほうでござる」
        またしても、左手で顔を覆って、くぐもった声で答える。しかし薫はふるふると首を横に振った。
        「ううん、それでも・・・・・・心配かけたのは、わたしのほうだもの」



        薫が縁に殺された後の―――実際には死んではいなかったわけだが、ともあれ、その後の剣心がどうなってしまったのか。
        薫は、それを左之助から聞かされてはじめて知った。

        薫の亡骸を前に、膝をついて泣き崩れたこと。
        皆の前から姿を消し、落人群で発見されたこと。
        そこにいた剣心は、完膚なきまでに「壊れて」しまっていたこと。



        それほどに―――薫の死を嘆き、悔やみ、絶望したことを。



        そんな事実を、左之助は「ありゃマジで大変だったよなぁ」としみじみ語り、恵は「その大変な剣さんを置いてあんたは何処に行ってたのかしら」と冷やや
        かに言い放った。
        左之助は視線を泳がせながら「いやいやいやまあなんてゆーか、勧誘活動ってか?そのうち神谷道場に門下生がひとり増えるかもしれないぜ?」と、よ
        く意味がわからないことを言い、「まぁとにかく、あの壊れっぷりを見て、嬢ちゃんすげぇ愛されてたんだなーと思ったわけよ」と締めくくった。
        操が「もうそれ、過去形じゃないよね」とにやにや笑い、薫はきっとこれは不謹慎なことだと思いながら頬に血がのぼるのをどうすることもできなかった。


        ―――ううん、でもやっぱり不謹慎よ。だって剣心はその時、とても辛かった筈だもの。
        そう思った薫は、改めて剣心に謝罪する。

        「心配かけた・・・・・・どころじゃないわよね。悲しい思いをさせてしまって、ごめんなさい」
        「いや、本当に。薫殿が謝ることではないでござるよ」


        あれは、あの時の感情は、悲しいなんていうものを超えていた。
        あれは、絶望というものだった。


        足下が崩れて暗い穴があいて、奈落の底まで落ちてゆくような、絶望。
        自分の心が砕けて壊れてゆく音を、あの時たしかに聞いた気がする。
        悲嘆と絶望と後悔と虚無感とに支配されながら、この世から消えてしまいたいと思った。消えてしまおうとしていた。

        ―――しかし結果的には「あの時死ななくてよかった」と、今は当然そう思っているのだが。
        こんなふうにまた薫と逢うことができるだなんて、彼女と見つめ合って言葉を交わすことができるだなんて、あの時は、夢にも思わなかったから。



        敷布の上に倒れてしまった剣心を見下ろしていた薫は、膝に置いていた手に、きゅっと力をこめる。
        そして、きっぱりと言い放った。

        「・・・・・・もう、絶対にこんなことはないから」
        凜とした声に、剣心は顔を隠していた手を外し、薫を見上げる。
        視線が合った。まっすぐに強い、彼女の眼差しと。



        「わたし、もう二度と剣心の前から消えたりしないし、あなたより先に死んだりしない。もう二度と、剣心に怖い思いはさせないから・・・・・・約束するわ」



        ―――ああ、本当に。
        あの日永遠に失った筈の彼女から、こんな台詞を聞けるだなんて。
        改めて、薫を取り戻せた喜びに、彼女が帰ってきた幸せに、苦しいくらいに胸がいっぱいになる。

        「・・・・・・約束、でござるか?」
        「約束する。なんなら、指切りしたっていいわよ」
        「まぁ確かに、順当にいくと先に逝くのは拙者の方だが」
        「駄目!剣心もわたしより先に死んだりしないで!」
        「薫殿、無茶苦茶言っているでござるよ」
        嬉しさのあまり、うっかり求婚めいた含みの台詞を発してしまったが、薫はそれに気づかない。気づく余裕も無いほど真剣に「約束」を訴えてくれる彼女
        に、「ああ本当にあの時落人群で死ななくてよかった」としみじみ思った。


        ふと、闘いの前の、夕焼けの帰り道の情景が胸によみがえる。
        一緒にずっといたいと、言ってくれた君。
        俺も、まったく同じ想いだ。



        願わくば、これからの長い年月を、ずっと―――君と一緒に。



        「・・・・・・じゃあ、約束」
        剣心は、左手を持ち上げて差し出した。
        誓いを交わす、小指を立てて。

        薫はふわりと微笑んで、細い指を彼のそれに絡める。
        「指切り、げんまん・・・・・・」と、軽く節をつけて、声をそろえて。「指切った」と締めくくった後も、ふたりは結んだ指をすぐには離せなかった。









        ★









        それから、ふたりは結んだ小指を手のひらに握りなおして、そのままとりとめのない話をした。


        「明日、蒼紫さんにお礼を言ってね」と言われた剣心は不承不承という顔で頷いたものの、「いや、やっぱり納得いかないでござる」と抵抗する。
        「あの西洋の芝居でござるが、あの筋書きのとおりだとまるで薫殿と縁が駆け落ちを計画したみたいではござらんか。そんなのは拙者納得いかないでご
        ざるよ」
        「もうー!作り話と現実を一緒にしないで!あの人との駆け落ちなんてありえません!だいたい、あのお芝居を広めた理由は、死んだ人間が戻ってきた
        ことを皆に納得してもらうためにでしょう?駆け落ち云々の部分は別に重要じゃないわよ」
        「・・・・・・では、拙者となら?」
        「え、何が?」
        「駆け落ちでござるよ」
        「い・・・・・・意味わからないんだけど!そんなの、わざわざする必要もないでしょう?!」
        「したくないのでござるか?」
        「・・・・・・それ、は・・・・・・」







        久々に、同じ屋根の下で過ごす夜。月はゆっくりと傾いてゆく。



        「早く寝ないと恵殿に叱られるでござろうか」「そうね傷に障るわね」などと話しながら、もう少し、あと少しと、離れがたいまま夜は更けていった。













        8 へ続く。