それからの、いくつかの後日談である。
まず、孤島での闘いの翌日、剣心は朝食前の蒼紫を捕まえて「手間をかけさせて済まなかったでござる。かたじけない」と礼を言った。蒼紫はいつもの調
子で「いや、たいしたことではない」と答えた。
それでこの話は手打ちにしてもよかったのだが、感謝の念は抱いているものの噂に対して物申したいことも数ある剣心は、結局我慢できず「ところで、少
々気になったのでござるが」と付け加えた。
「お主が流した噂、町の皆はあの内容で納得したようでござるが・・・・・・横恋慕の末に誘拐したという筋書きなら、なぜ薫殿を死んだように見せかける必要
があったのか・・・・・・その説明がつかないでござるよな?」
それは、嫉妬や杞憂を抜きにしても、腑に落ちない点だった。
縁が薫を殺したように偽装したのは、剣心に薫の死を突きつけて、絶望させるためだった。
しかし、蒼紫の流した噂の筋書きでは、縁は意のままにならぬ恋路に業を煮やし、薫を誘拐したことになっている。
色恋絡みの誘拐ならば、ただ薫を連れ去ればいいだけのことで、わざわざ彼女が死んだように偽装する理由はどこにもない。噂を耳にした人々のなか
にも、それを疑問に思った者もいたのではないだろうか。
剣心としては、蒼紫がそんな「隙」のある筋書きを考えたこと自体が不思議だった。
彼ならばもっと他に、すべてにおいて納得できるような筋書きを作れただろうに―――と。
しかし蒼紫は、剣心の疑問にこともなげに返答した。
「お前は、誘拐されたくらいで惚れた女を諦めるのか?」
その言葉に、剣心は「あ」と呟き目を大きくする。
「お前に神谷薫を諦めさせるために、雪代縁は彼女の死を偽装した―――そういう『設定』のつもりだったのだが」
「・・・・・・成程、それなら納得いくでござる」
確かに、連れ去られたくらいで諦める筈がない。
すぐに追いかけて、地の果て海の果てまででも追い求めて取り返すに決まっている。
剣心が大きく頷くのを見て、蒼紫は「そういうことだ」と言って踵を返した。その先では操が「朝ご飯だよー」と彼を呼んでいた。
「あ、蒼紫」
「なんだ」
「本当に―――この度は色々と、かたじけないでござる。戻ったらゆっくり茶でも飲もう」
「戻る?」
疑問形に語尾が上がったのに、剣心は「ああ」と笑って答えた。
「ちょっと、京都に行こうと思ってな」
★
「外用薬はこれで、こっちは内服用。飲み薬は片道分だから、向こうに着いたら別の医者に処方してもらうのよ」
「うん、荷物はできるだけ少ないほうがいいものね」
東京に帰ってきてから日を置かずして、剣心は「京都に行く」と言い出した。
この度の縁の一件と、自分のこれからについて、巴の墓前に報告したい。そうして自分なりのけじめをつけたい、と。そして彼は、薫に「一緒についてきて
ほしい」と言った。
まだ怪我は治りきっていないが、恵はギリギリで「無理さえしなければ大丈夫でしょう」と許可を出した。道中の手当てについて、引き継がれるのは当然
薫である。
「とにかく、傷に負荷がかかるようなことはさせないこと。血と肉を作らなくちゃいけないから、三食しっかり食べること。わかった?」
「わかった。無理はさせないし、ちゃんと食事もとります」
「激しい運動は厳禁よ。いやらしいことも禁止」
「し、してないもんそんなこと!」
「はじめてならなおのこと禁止、剣さんから襲われそうになったら逃げなさい」
「・・・・・・はい」
「今ちょっと間があったわよ」
「気のせいですー!」
真っ赤になってぶんぶん首を横に振る薫に、恵はごく単純に「うらやましいな」と思った。
とっくの昔に、自分の中での彼への想いは決着がついている。波乱の人生を送ってきた彼だからこそ幸せになってもらいたいと思っているし、彼を幸せに
できるのは薫だということを、理解もしているし納得もしている。そして、彼が幸せにしたいと思っている女性は、ただひとり薫だけだということも。
しかし、こうやって初々しく赤くなっておろおろする薫の様子は同性の目から見ても可愛らしくて、「そうか剣さんはこういう子が好きなんだな」と改めて思っ
てしまい、ついでに「うらやましいな」とも思ってしまう。彼の好み云々を別にしても、それは自分にはない個性だから。
もちろん彼は薫の初々しく可愛らしいところだけではなく、元気がありあまっているところや口より手が先に出るような勇ましさやよく泣いてよく怒るところも
好きなのだろうけれど―――と、いう事はわたしが剣さんの好みじゃなかったことが敗因なわけで。
「要するに剣さんの趣味が悪いってことよね・・・・・・」
「え?何か言った?」
薬を巾着に詰めていた薫が首を傾げたが、恵は「いいえ、何も」とはぐらかす。
「それにしても、剣さんも思い切ったことするわよねぇ。嫁入り前の娘と二人旅だなんて」
「や、やっぱりそう思います?どどどどどうしようご近所で噂になっちゃったりしたら・・・・・・」
「別にいいんじゃないの?前から一緒に暮らしてるわけだし、どうせあなたたちそのうち夫婦になるんでしょうし、噂になってもそんな・・・・・・」
そこで、恵ははっとした。
噂といえば、先日蒼紫が流した、「ふたつの噂」である。
剣心はたいそう立腹していたが、結果としてあの噂のおかげで薫はすんなりもとの生活に戻ることができた。もとに戻ったあとは、噂は風化して、忘れ去
られてゆくだけだ。人の噂も七十五日というし、何か他に新しい噂が流れれば、人々の興味はすぐにそちらに移るだろう。
―――もしかすると、これが「新しい噂」なのかしら。
剣さんがこの子を京都に連れて行こうと思ったのは、人生の区切りをつける場に、この子に一緒にいて欲しいからなのだろう。
これからを共に歩む伴侶として、立ちあってもらうために。
それが純然たる理由なのだろうけれど、それだけではなくて。
「ふたりきりで旅に出た」という事実は、きっと噂になるだろうから。その「新しい噂」が広まれば、蒼紫が流した噂は、直ぐにかすんでしまうだろうから。もし
かすると、そんな考えもあって―――
「・・・・・・情が強いにも程があるわね」
ふと、恵は落人群での剣心の姿を思い出した。
そうだ、彼はあんなにも、この子のことが好きなのだ。失った絶望に、心が壊れてしまうほどに。
「ややややややだなぁ恵さん、わたしたちそんな夫婦だなんてまだそんな何も・・・・・・」
「頑張りなさいよ、これから」
「え、何のこと?」
うらやましくもあるが、なかなかに大変そうでもある。
きっとこの子はこれから、やきもちやら独占欲やら過剰な愛情やらを、一生かけて受け止めてゆくのだろう。
★
そして、翌年の話。
とある雑誌に、「ロミオとジュリエットの話」という読み物が掲載された。
それは西洋で有名な戯曲を翻訳したものらしく、人づてにその内容を聞いた薫は「ねえ、あの時蒼紫さんが流した噂って、これがもとになっているんじゃ
ない?」と、興味深く目を輝かせた。
しかし剣心は不機嫌そうに顔をしかめて、ひとこと「そのようでござるな」と答えただけだった。
あの時、無事に帰還したこの町のジュリエットは、最愛のひとと結ばれて、今も夫婦仲良く暮らしている。
町でうわさのジュリエット 了。
2018.01.20
モドル。