視界に広がるのは、見慣れた天井。
神谷道場に居着いてから、十数年ぶりに「自分の部屋」というものを持った。
しばらく、その部屋からは離れていたが、今日は久方ぶりに此処に帰ってくることができた。
それは大変喜ばしいことなのだが―――剣心の気は晴れなかった。
先程まで続いていた賑やかな気配は、今はない。
宴席はお開きになったのだろう。皆も疲れている筈だし、大なり小なり怪我も負っている。弥彦などはそろそろ寝所に送られて、既に夢の中にいることか
もしれない。
ずいぶん前に布団に入ったにもかかわらず、剣心は眠れずにいた。
目を閉じても落ち着かない。黙って横になっているだけで苛々する。寝返りを打ちたくても、銃創に響くからそれも叶わない。内心で何度目かの舌打ちを
したとき、襖の向こうから訪う声がした。
「・・・・・・剣心、起きてる?」
寝んでいるかもしれないという気遣いからだろう、薫の声は控え目だった。剣心はそれに、「起きているでござるよ」と答える。
襖が開き、薫の姿が見えた。「入るわね」と断わって、彼の枕元に腰を下ろす。
「みんなは?」
「左之助と恵さんは帰ったわ。恵さんは明日また怪我の具合を診に来てくれるって。弥彦は寝ちゃったわ。へとへとだったし、ご飯食べて蒼紫さんの話を
聞いたらもう限界だったみたいで・・・・・・布団に入ったとたんにぐっすりよ」
操ちゃんの言葉を借りれば「ばたんきゅー」ですって、と。薫が口真似をしてみせるのに笑いつつも、ずっと眠れずにいる剣心としては、今頃熟睡している
であろう弥彦が羨ましかった。そしてもうひとつ、気になったのが「蒼紫の話」である。
「それは・・・・・・先程、妙殿が言っていた話のことでござるか?」
「あ、そうそう。死んじゃってたはずのわたしが帰ってきた経緯についてね、蒼紫さんが筋書きを作ってくれたの。それがね・・・・・・」
薫は、蒼紫が流したふたつの「噂」について説明した。剣心は布団から起き上がり、うんうんと頷きながら聞いていたが、その顔がみるみるうちに険しくな
る。途中で話を遮ったりはせず最後まで聞くことはできたが―――聞き終えてから、改めて盛大に反証を唱え始める。
「話はすべてわかったでござる。しかし・・・・・・もっと他に、筋の通る噂を流せなかったものでござろうか」
反証というよりは、苦情というべきか。不機嫌な表情を隠そうともしない剣心に苦笑しつつも、薫は内心で嬉しさも感じていた。剣心がこんなふうに、感情
を素直にあらわにすることは珍しいことであったから。
「一応、筋は通ってはいるんじゃない?まあ、捏造もいいところだけど、実際の事情を知らないひとたちを納得させるには、充分だもの」
「だからといって・・・・・・!」
思わず声を荒げそうになったが、剣心はどうにかそれを飲み込む。
わかっている。蒼紫は限られた時間の中で筋書きを考え、それを素早く流布させたのだ。
俺の過去や縁との因縁を皆に知られないよう、葬儀まで行われた薫がごく自然に皆の輪に戻れるよう、腐心したに違いない。
かつて敵として闘った相手が、そこまで骨を折ってくれたのだ。その労と心遣いとに、感謝こそすれども苦情を訴えるなどもっての他だろう。
芝居がかった筋書きと、まさしく芝居の筋書きと―――そのふたつの噂は好意的に受け入れられ拡散し、薫は何事もなかったかのように、この町に戻っ
てこられた。
それは、喜ぶべきことなのだろうが―――
「・・・・・・それでもやっぱり、拙者は、納得できないでござるよ・・・・・・」
かくんと首を倒し、無事な左手で顔を覆う。あまりに沈鬱な様子に、薫は気遣わしげに彼の下向きに落ちた肩を見つめた。
妙の発言に、激怒した剣心。その反応に恵は「妬いているんでしょう」と言っていたが、これはただ単純に悋気を起こしているわけではないような気がす
る。薫は躊躇いがちに、「・・・・・・どうして?」と尋ねた。
「どうして・・・・・・そこまで納得いかないの?」
きっと、この頑なさには何か他に理由があるのだろう。そう思って訊いてみると、剣心は顔を覆った指の隙間から、ちらりと薫の顔を見た。狭い視界から
覗く、彼女の困ったような、心配しているような表情に―――剣心は、顔を上げた。
「薫殿は、『横恋慕された相手に誘拐された』ということになっているのでござろう?」
「ええ、そうらしいわね」
薫は「雪代縁が聞いたら怒りそうな話よねー」と付け加えて笑ったが、剣心としては、それどころではなくて。
「・・・・・・その噂を聞いて、心ない想像をする人間も、いるかもしれないでござろう・・・・・・」
憂色に眉を歪めて、剣心は薫の目をじっと見つめる。
言葉の意味がわからず、薫はきょとんとしてまばたきを繰り返し、数拍の間の後、理解する。
それは薫に限らず、すべての女性に言えることだが―――
誘拐された若い娘が晒されるのは命の危機と、もうひとつ、女性としての尊厳が蹂躙される恐れだろう。
実際には、あの縁が姉に軽蔑されるような行動を取るわけがないことを、剣心はちゃんと知っている。
しかし、流された噂は「一方的に懸想した果ての誘拐」という「設定」なのだ。その所為で、穿った想像をする輩がいないとは限らない。
そう考えると、剣心の胸は苦衷で張り裂けそうになる。薫はきれいなまま帰ってきたのに、ありもしない噂が原因で彼女の名誉が傷つけられるなんて、我
慢ならない。たとえ誰かの想像の中だけでも、薫が汚され踏みにじられる事など耐えられないし許せない。
しかしそもそも、無事に彼女を取り戻せたとはいえ、今回の一件は俺への復讐に薫が巻き込まれたわけで、その所為で薫は誘拐されたわけで突き詰め
るとすべての事の始まりは俺なわけで―――
「これでは拙者、薫殿の御両親に申し訳が立たないでござるよ・・・・・・」
慚愧の念に堪えないというふうに、絞り出た言葉はそれだった。
剣心としては、それは心からの素のままの発言だったのだが、薫は彼の台詞に目を大きくし―――あろうことか、くすくすと笑い出した。
「・・・・・・薫殿?」
予想外の反応に、剣心は訝しげに眉を寄せる。が、薫の笑いは止まらない。
「ご、ごめん・・・・・・ここでいきなり父さんと母さんが出てくるとは思わなくて・・・・・・とつぜん話が飛躍したものだから、びっくりしちゃって」
「別に飛躍などしていないでござるよ、拙者はそのくらい・・・・・・」
そのくらい、君のことが大切で。この先の人生を君と一緒に歩いていきたいと真剣に考えていてだからこそ君の両親に顔向けできないようなことがあって
はならないと思っていて―――と。勢いにまかせて想いの丈をすべてぶちまけてしまいそうになったけれど、薫の声がそれを寸前で止めてくれた。
「うん、ありがとう剣心。心配してくれてるの、すごく嬉しい。でもね、あなたひとつ間違ってるわ」
「・・・・・・え?」
「だって、わたしは神谷薫なのよ?」
意味がわからずに、剣心は目を白黒させる。そんな彼にむけて、まるで小さな子供にものの道理を説いて聞かせるかのように、薫はゆっくりと、言葉を続
けた。
「わたしが死んだと思って泣いてくれた、わたしのことをよく知っているひとたちは―――わたしが、そんな酷い目に遭ったら大人しく黙っているような娘じ
ゃないことも、ちゃんと知っているわよ」
にこにこと、笑顔でそう言われて、剣心は薫の顔をまじまじと見つめた。
「だってほら、もしも酷い目に遭わされたとしたら、わたしは今頃ここにはいないもの。行き過ぎた報復をしでかして警察に捕まって、町の皆は『薫ちゃん
だから仕方ない』とか言って頷いている頃じゃないかしら」
あっけらかんと言い切る薫に、剣心は不謹慎と思いつつも吹き出してしまった。ついでに、日頃弥彦がそうされているように、竹刀を振りかぶった薫に追
いかけられている縁の姿を思い浮かべてしまい、ますます可笑しくなった。
そんな、笑い事で済まされる話をしているわけではないのだが、しかし薫の今の発言は剣心の杞憂を見事に吹き飛ばしてしまった。
確かに、薫をよく知っている剣心からしても、惚れた欲目があるにもかかわらずそれでも――― 一矢どころか二矢三矢と報いようとする彼女が、困った
ことに容易に想像できてしまう。
「そ・・・・・・そうでござるな、薫殿ならそうでござろうな」
笑いながらそう言うと、薫がすました顔で「犯罪者にならずに済んでよかったわ」と答えるものだから、さらに笑いに拍車がかかる。
負けん気が強くて正義感も強くて、男まさりではねっかえりで、腕に覚えのある剣術小町。それが、神谷薫だ。
彼女が理不尽に対し、黙っているような娘ではないことは、町の皆が知っている。
現実的に、大の男相手に報復が敵うかどうかは、また別な話である。しかし、そんな事はこの際重要ではない。とにかく薫は自らの気性を笑い話にして、
剣心の憂慮をきれいさっぱり霧散させてしまったのだ。
負けん気が強くて正義感も強くて、男まさりではねっかえりで、そして、とびきり優しい娘。それが、神谷薫だ。
剣心はくつくつと笑いながら、改めて、彼女の気遣いに心から感謝した。
そして改めて、旅の果てに出逢えたのが、薫でよかったと。薫と想いを交わせてよかったと、心から思った。
この、優しさのかたまりみたいな少女を好きになって、本当によかった、と。
「・・・・・・すまない、薫殿」
「すまないって、何が?」
「いや、駄目でござるなぁ・・・・・・どうも悪いほうへ悪いほうへと考えてしまうのは、拙者の悪い癖でござるな」
「そんなの、用心深くてよく考えているってことじゃない。わたしなんか逆に軽率で考えなしで、我ながら危なっかしいなと思うもの」
「ああ、それはそうかもしれないでござるな」
「ちょっと剣心?!あっさり同意されたらそれはそれで頭にくるんだけれど?!」
憤慨する薫に「おろろ、すまない」と謝りながらも、剣心は「だから俺たちは惹かれあうのかな」と思った。
互いの、足りないものを求めあって補える相手だから。特に俺は―――君の持つまぶしい光に、どうしようもなく惹かれたんだ。
この噂についてあれこれ悩むのは、もうやめよう。
薫の言うとおり、町のひとたち、薫をよく知っているひとたちはきっと、噂をそのままの意味で受け止めてくれていると信じよう。
それに、「人の噂も七十五日」というように、噂はやがて風化する。
もしくは、何か他に新しい噂が流れれば、人々の興味はすぐにそちらに流れるのだろうし―――
「・・・・・・あ」
何か、思いついたかのように小さく呟いた剣心に、薫は「どうしたの?」と首を傾げる。それに対して再び「いや、なんでもないでござるよ。とにかくすまなか
った」と謝罪する。そんな剣心に、薫はふっと肩から力を抜いて、彼を正面からじっと見つめた。
「ねぇ、剣心。わたしのほうこそ、ごめんなさい」
「え?」
不意の、彼女からの謝罪に、今度は剣心が首を傾げる番だった。
「心配かけて、ごめんなさい・・・・・・ううん、心配どころじゃなかったのよね」
不思議そうな目でこちらを見ている剣心。
その目をまっすぐ見つめ返して、薫は続けた。
「わたしが連れていかれた後の、剣心のこと・・・・・・左之助が、教えてくれたの」
7 へ続く。