「これが今から二時間にわたって演じます舞台の仕事でございます。

     どうかよろしくご静聴わずらわせたく、作者の意足らざるところは、

     われら俳優懸命につとめ補う所存でございます」


                               (Shakespeare ROMEO AND JULIET ac1595)









     町でうわさのジュリエット







     1







        「出血もおさまりましたし・・・・・・大丈夫、志々雄真実と闘ったときより、よっぽど軽傷ですよ」




        雪代縁との戦いが決着し、孤島に集まった一同が帰りの船に乗り込む前に、恵は剣心の怪我を診察した。
        持参した薬箱でとりあえずの応急処置をし、てきぱきと傷の具合を診てゆく。戦いの最後に黒星から受けた銃創も、太い血管は傷つけられてはおらず
        既に血も止まっていて、恵は「すぐに、前と同じように動かせるようになりますよ」と太鼓判を押す。その言葉に、剣心本人よりもむしろ、薫をはじめとした
        周りの面々が安堵の息を漏らした。


        「・・・・・・じゃあ、あなたの番ね」
        「え?わたし?」
        戦った者たちを順に手当していった恵は、最後に薫の顔を見た。思いがけない視線を受けて、薫はきょとんとする。


        「わたし、別に怪我とかしてないけれど・・・・・・」
        「そうかもしれないけれど、数日とはいえ囚われの身だったのよ?そういうひとの健康状態を確認するのも医者の勤めですからね。はい男どもはちょっと
        あっち向いて」
        男性陣に背中を向けさせた恵は、彼らの身体を衝立代わりにして「ちょっと失礼」と、薫の着物の裾をめくる。同様に、袖をまくって両の二の腕までを確認
        した。
        「手足に外傷はなし、と・・・・・・着物の下も大丈夫なのね?」
        「うん、大丈夫」
        男性達に「もういいわよ」と声をかけつつ、恵は更に質問をした。

        「顔色も平常ね・・・・・・捕まっていたときは、ちゃんと食事はとれていたの?」
        「ええ、台所が使えたから」
        「え?あなたが?自炊してたの?」
        「うん、そうよ」
        薫は素直に頷いたが、恵は深刻な面持ちになって大仰に首を横に振る。
        「栄養状態は劣悪だった、と」
        「ちょっと恵さん?!」
        憤慨の声が上がり、それに皆の笑い声が重なる。
        薫と恵が小さな喧嘩めいたやりとりをするのはいつもの事だ。こんな応酬ができるのは、つまりはすべてが終わって、日常が戻ってきた証拠と言えよう。


        「冗談抜きに、食事を甘く見ちゃいけないわよ?不味い食事は心身ともに悪影響を及ぼすんだから・・・・・・まあ、身体的には健康のようだけれど―――」
        「不味いって言った・・・・・・」と恨めしげに呟く薫を、恵は「事実でしょ」と切り捨て黙らせてから、改めて尋ねる。

        「あとは―――囚われている間、嫌な思いはしなかった?」
        精神的に、苦痛は与えられていないか。それを確認するため恵は訊いた。
        すこし考えるように、薫は「えーと・・・・・・」と、瞳をくるりと動かす。



        「・・・・・・みんなと会えなくて、寂しかった」



        薫の答えに、一同は頬を緩ませる。
        その言葉こそが、彼女が心にも身体にも傷を負うことなく無事に帰ってきたことを、明確に物語っていた。




        「『みんなと』じゃなくて、『剣心と会えなくて』の間違いじゃねーの?」
        「ちょ、ちょっと弥彦?!」
        真っ赤になった薫が慌てて、剣心も頬に血を上らせ目を泳がせる。再び起こった笑い声は、あたたかな響きを伴っていた。









        ★









        「でもさ、どうして雪代縁は、薫さんを生かしておいたんだろうね」



        東京に戻る船に乗り込んで一息ついたところで、操が首を傾げた。
        それは、以前から皆が疑問に感じていた事だ。


        薫の生存が判明した際、皆はまず喜び、そして「ならば、居場所を突き止め無事に助け出さねば」と動きだした。
        なので、「何故、あんな手の込んだ真似をして、わざわざ死を偽装したのだろうか」という謎については、ひとまず棚上げになったのだが―――

        剣心から一番大切なものを奪って、絶望に叩き落とそうとしていたのに。それならば何故、縁は薫を殺さなかったのだろうか。それは、こうして薫を無事に
        取り戻せた今だからこそ、口に出せた疑問だった。


        発言したのは操だったが、その場にいる全員が同じことを考えていた。しかしその理由は、他ならぬ薫が知っていた。


        「あのひと・・・・・・若い女性は殺せないらしいの」
        「え、何それー?あいつ平気で殺しもできるような男だったんでしょ?なのに、女性には親切にする主義なわけ?」
        「お姉さんのことを、思い出してしまうから・・・・・・なんじゃないかしら」
        言葉少なに、薫は言った。そして操は、それで察した。

        彼の姉―――巴が、若くして命を散らしたから。
        子供の頃、その有様を目の当たりにした縁は、それが心に傷になって刻まれた。
        そして彼は、巴と同じ「若い女性」の死を忌避し、手をかけることが出来なくなった。


        「海で溺れた人がそれ以来水を怖がるようになったり、火事に遭った人が火を怖がったりするのと同じことね。心の病気の症例として、よくあることだわ」
        恵のいかにも医者らしい分析に、左之助が「それで嬢ちゃんが助かったのは何よりだけどよ、また随分と繊細な奴だなぁ」と遠慮のない感想を述べる。
        「あんただって、食あたりにあったら暫くは同じ料理を食べる気にはならないでしょう」
        「いーや、負けっぱなしは悔しいからすぐにまた同じものを食うな」
        「・・・・・・まぁ、馬鹿って幸せよね」
        恵がこめかみを押さえてため息をつき、すこし考えるような顔をしていた操が「でも、ちょっと待って」と、新たな疑問を口にする。

        「そのことって・・・・・・雪代縁が薫さんに話したの?」
        「え?まさか、そんな事話してもらえるような友好的な雰囲気じゃなかったわよ」
        「じゃあ、薫さん、なんでその事を知ってるの?まさか・・・・・・」
        皆の視線が一斉に薫に集まる。
        薫としては、一件落着した今となっては、余計な火種をおこしたくはなかったのだが―――たちまち物騒な色を帯びたこの場の空気は、黙秘を許してくれ
        そうになかった。


        「えーと・・・・・・一度ね、隙をついて逃げだそうとしたことがあって、でも失敗して返り討ちに遭っちゃって・・・・・・それで・・・・・・」
        殺されそうになって、と。続けた語尾は、ごくごく小さな音量になった。しかしそれはしっかり皆の耳へと届き、物騒な空気はもはや殺気へと変わっていた。


        一番血の気の多い左之助が、怒気もあらわに「あの野郎・・・・・・!」と叫んで立ち上がる。
        「奴がブチ込まれてるのは何処だ?!ちょっと行ってくらぁ一発ぶん殴らねぇと気が済まねぇ!」
        「落ち着きなさいなそんなの警察が許すわけないでしょう?!だいたい、あいつとの決着はもう剣さんが着けてるでしょう!」
        恵はすかさず左之助の鉢巻きの端を捕まえて引き戻した。ぐきっと首が変な音をたて、左之助は「ぐえぇ」と悶絶する。

        左之助のように激昂はせずとも、弥彦や操も顔色を変え怒りの表情を浮かべている。予想どおりの彼らの反応に、薫は「あああやっぱり言うべきじゃなか
        った」と後悔に縮こまる。別に縁をかばうわけでもないが、彼が「若い女性を殺せない」理由は、そもそも剣心に起因することなのだ。だから、極力この話
        題には触れたくなかったのだが―――


        と、肩にふわりとぬくもりが触れて、薫は顔を上げた。
        ぬくもりの主は、剣心だった。ずっと傍らにいて、それまで黙って身体を休めていた彼は、僅かに身を傾けて薫の肩へと寄りかかる。



        「だから―――縁は薫殿を、助けてくれたのでござるかな」



        その言葉に、皆はっとする。
        闘いの最後に、半ば錯乱した黒星が撃った弾丸。
        凶弾が狙ったのは剣心で、薫は身を挺して剣心を守ろうとした。しかし、撃たれそうになった薫を救ったのは、縁だった。


        一度は、本気で殺そうとした相手を守った縁。
        それは、彼が「姉と同じ年頃の女性が死ぬこと」を、本能的に忌み嫌う故の行動だったのだろう。

        けれど―――その直後、縁は泣いていた。
        子供のように、「守りたかった」と言いながら、泣きじゃくった。



        彼が、本当に守りたかった相手は―――



        「あの時・・・・・・わたしを助けてくれたとき、彼の目に映っていたのは、わたしじゃなくて巴さんの姿だったんじゃないかしら」
        薫は、ぽつりと呟くように口にした。
        その言葉に剣心は、「拙者もそう思っていた」と微笑んだ。そして薫の手に自分のそれを重ね、ぎゅっと握りしめる。



        「薫殿が生きていて・・・・・・本当に、よかった」



        決して大きくないその声には、しかし大きな喜びと安堵の念、隠しきれないいとおしさが滲んでおり―――その場にいた一同の胸に強く響いた。
        周りの目をはばからず身を寄せ合うふたりを、普段なら全力でひやかしてからかうであろう左之助や操も、今は黙っていた。


        亡くなったと思っていた最愛のひとが、戻ってきたのだ。
        会いたかったひとと、ようやく無事に会えたのだ。
        外野は無粋な真似などせず、今はただ、ふたりは再会の喜びに浸るべきなのだ―――でも。




        「・・・・・・でもよ、この後どうするんだ?東京にいる皆は、薫が死んだと思ってるんだぞ?」




        弥彦が、その懸念を口にする。
        薫は大きな目をぱちくりさせて、「・・・・・・死んだ?」と弥彦の言葉を反芻する。







        今度は皆が薫に、彼女が拉致された直後から、何が起こっていたのかを説明する番だった。
        その間も、剣心は薫の手を離そうとはしなかった。
















        2 へ続く。