意地悪させて










        「・・・・・・いい? 明日ちゃんと燕ちゃんに謝るのよ?! わかった?!」




        少し離れて聞こえてきた声に、剣心は枕から首をもたげる。
        廊下の奥のほうで、何やら怒っているような薫の声。やがて襖を閉める音がして、それに続いて足音が近づいてきた。


        「ケンカでござるか?」
        足音が部屋の前にさしかかったタイミングで、小さく声をかけてみる。
        ぴたりと立ち止まった気配がして、するりと襖が開いた。

        「ごめんね、起こしちゃった?」
        寝間着姿の薫がすまなさそうに首を傾げる。おろしたままの髪がさらりと揺れて、剣心は身を起こしながら目を細めた。
        「いや、まだ寝ていなかったし、そんなにはっきり聞こえたわけでもないでござるよ」
        薫は弥彦の部屋のほうにちらりと目をやってから、後ろ手に襖を閉めた。
        「ケンカじゃなくて、注意していたの。弥彦がまた、燕ちゃんに暴言吐いたっていうから」
        「おろ、暴言とは穏やかではないでござるな」
        おやおやと呟きながら、剣心は布団から抜け出して敷布の上に胡坐をかく。その隣に、ちょっと聞いてよと言わんばかりに薫が腰を下ろした。
        「今日赤べこでね、弥彦の引越しがもうそろそろだって話になったらしいの」








        左之助が日本を飛び出してから、結構な日数が過ぎた。
        去り際に弥彦に向かって「お邪魔虫になるから道場を出ろ」と言っていたのを、薫は話半分か冗談程度に受け取って聞いていたのだが、当の弥彦は本気
        にとっていたらしく―――先日弥彦は剣心と薫に、人が住まない部屋はどうしたって荒れるからと言って「そろそろ左之助が使っていた長屋に引越したい」
        と切り出した。

        子供ひとりで住まわせるのは何かと心配だと薫は反対したのだが、意外にも剣心が「まぁ以前もひとりでやっていけてたのだし」と簡単に許してしまった
        ため、そうなると薫も折れざるを得なくなった。不安は残ったが、剣心にこっそり「左之から託された住まいだ、弥彦なりに家主が戻ってくるまで責任を
        持って守りたいと思っているのでござろう」と耳打ちされて、不承不承ではあるが首を縦に振ったのだった。


        「―――で、燕ちゃんがね、引越しするならお掃除とか手伝うって、言ってくれたらしいのよ」
        なるほど、燕らしい申し出だと剣心は頷いた。
        しかしその時、近くで話を聞いていた常連客や他の従業員たちが彼等をひやかしたらしい。


        『いっそのこと、そのまま一緒に住んでしまえばいいのに』
        『そりゃいい、可愛い似合いの夫婦だ』
        笑い声があがり、燕は頬を染めてうつむいた。しかし弥彦は真っ赤になっていきり立った。

        『冗談じゃねーよ! 誰がこんなチビでトロい泣き虫なんかと!』
        大人たちにとっては、軽い気持ちでのからかいの言葉だったのだが、弥彦はそれを笑って聞き流すにはまだ子供だった。
        そして燕は目に涙をためて厨房へ走り去った。








        「・・・・・・っていう経緯を、わたしは夕方妙さんから聞いたんだけど・・・・・・まったく、わたしがいたらその場でぶん殴って謝らせたのに!」


        弥彦の首根っこを捕まえて頭を下げさせる薫の姿は実に容易に想像できて、剣心はつい苦笑を漏らす。
        「まぁ、仕方あるまい、からかわれた勢いでつい口をついて出てしまったのでござろう」
        「それはそうなんだろうけど・・・・・・」
        薫はまるで自分が面罵されたかのように憮然としていたが、やがて力を抜いたように息をつく。

        「そんな事くらいですぐむきになったりして、結局まだまだ子供なのよ。ひとりにさせるの、やっぱり心配だわ」
        「寂しいでござるか?」
        心情を読み取られたようなひとことに、薫はゆるく笑った。別に弥彦は遠くに行くわけではないし、これからも稽古で毎日のように顔を突き合わせる。しか
        し、いつも家の中に響いていた賑やかな声がひとつ減ってしまうのは確かなのだ。


        「・・・・・・そうね、あの子はじゅうぶんしっかりしているわ。寂しがっているのは、むしろわたしのほうよね」
        「薫殿は、ひとりじゃないでござるよ」
        そのひとことには、暗に「自分がいるから」という意味が込められていて、薫ははにかんで小さく首をすくめる。

        そっと、ふたりの上に沈黙が降りた。
        それは気まずいものではなく、暖かな空気。以前のふたりにはなかった、甘やかな静寂。
        こんなふうに黙りこむ瞬間、薫は暖かい幸福感とくすぐったい照れくささを同時に感じて、どんな表情をしたらよいのか戸惑ってしまう。


        「・・・・・・薫殿」
        ふいに剣心が、薫にむかって軽く両手を差し出した。
        薫はなんだろうと思いつつ、つられたように自分も彼に向かって手を伸ばす。
        「きゃ!」
        掴んだ手を、ぐい、と力をこめて引っぱられ―――薫はバランスを崩した。

        「よいしょ」
        子猫を抱き上げるかのように、剣心は引き寄せた薫の身体を反転させると、膝の間に座らせた。
        きゅうっと後ろから抱きしめられる。背中に剣心の体温を感じて、薫の心臓がひとつ大きく跳ねた。


        「け、剣心・・・・・・」
        「んー?」
        本当に猫でも抱いているつもりなのか、剣心は片方の手で薫の首筋をするすると撫でる。輪郭をなぞるように、長い指が顎のあたりを行き来する。
        「や、くすぐったい・・・・・・」
        「うん」

        薫は恥ずかしそうに身をよじった。しかし剣心は手を止めようとはせず、腰をしっかり捕まえる腕をゆるめる気配もない。
        こんなふうに触れあうのも、以前のふたりにはなかったこと。しかし、こんなふうに剣心にじゃれつかれるのに薫はまだまだ慣れなくて、不意うちに抱きしめ
        られたり口づけられたりする度に心臓が破裂しそうになってしまう。


        「・・・・・・ね、剣心知ってる?」
        うるさい鼓動をなんとか落ち着かせようと念じながら、薫は小さく囁いた。ぴったり密着したこの距離なら、この音量でもしっかり彼の耳に届くだろう。
        「弥彦ってね、燕ちゃんにむかってどんなに悪口吐いてもね、絶対に『ブス』って言わないの」
        「ああ、そう言われてみれば・・・・・・」
        「わたしには散々言ってるくせにね。まったく、意地悪なんだかそうじゃないんだか」
        剣心は、薫の髪に頬をすり寄せた。洗ったばかりの彼女の髪は甘い香りがする。
        「好きな女の子には意地悪をしてしまうのが、男の子というものでござるよ。つまりは照れ隠しでござろう」
        「うん、燕ちゃんもね、そこはわかっていると思うんだけどね」

        明日、弥彦がちゃんと謝れば、きっと燕は許してくれるだろう。薫は燕の優しさを信じて、彼等がちゃんと仲直りできるようそっと祈った。
        そして、首を捻って後ろにいる剣心の顔を覗きこみ―――不意に思いついた疑問を口にしてみる。


        「ねぇ、剣心も子供の頃、気になる女の子にわざと意地悪したり、したことあるの?」
        「おろ?」
        「だって、男の子ってそういうものなんでしょ?」
        くすくすと、薫は楽しそうに訊いてくる。剣心は、ふむ、と息をついてから、おもむろに声を低くした。

        「したことがあるというか、拙者は今でも意地悪でござるよ」
        「え?」
        言うなり、剣心は薫の寝間着の袷に、するりと右手を滑り込ませた。


        「・・・・・・っ!」
        薫は息を飲む。
        抗議の声をあげようとしたら、先程から頬のあたりをさまよっていた左の手で口を覆われた。

        「大声だすと、弥彦が気づくよ」
        「・・・・・・!」


        確かに、弥彦を叱りつけたのはつい先程のこと。恐らく彼もまだ起きているか、もしくは寝入り端だろう。薫が喉まで出かかった声をぐっと飲み込むと、それ
        をいいことに、剣心の手が夜着の中でごそごそと蠢く。
        布越しではなく直に素肌に触れられる感覚に、薫はぎゅっと目を閉じた。腕を振りほどいて逃れたくても、身体に力が入らない。剣心の指が特に感じるとこ
        ろを探るたびに、肩がびくりと揺れるのを抑えることができない。
        「・・・・・・可愛い」
        剣心は口元に笑みを浮かべて、すっかり赤く染まった薫の耳元に唇を寄せる。そのまま舌を這わせると、塞がれた口から泣きそうな声が微かに漏れた。

        ―――ああ、震えている。
        抱きしめた腕から小さな震えと、それとともに彼女の困惑も伝わってくる。

        ―――困ったな、どうしてこんなに可愛いんだろう。
        こんなふうに、自分の愛撫に素直に反応する様子が、愛おしくてたまらない。
        初々しく戸惑う様子をもっと見てみたくて、意地悪をせずにはいられなくなる。


        「んん・・・・・・っ!」
        乳房の形を確かめるように、剣心の指がゆっくりと肌の上で動く。声をあげないよう精一杯耐えていた薫は、身体の内側からこみあげてくる疼きにとうとう
        音を上げた。降参とばかりに首を左右に振ると、瞳にあふれた涙が流れて口を塞ぐ剣心の手を濡らす。そこでようやく剣心は腕の力をゆるめて、悪戯を
        していた手を寝間着の中から引き抜いた。
        薫は剣心の膝から逃げ出そうとしたが、力が抜けきった身体は反応が鈍く―――腕を掴まれて引っぱられただけで、崩れるようにして敷布の上に引き倒
        されてしまった。

        「やぁっ!」
        乱れる呼吸を整える暇もないまま、覆い被さってきた剣心に唇を塞がれる。
        「んっ・・・・・・いや・・・・・・待って剣心・・・・・・!」
        「だから黙って・・・・・・聞こえてしまう」
        「ん、むっ・・・・・・」


        まだ、こんなふうに奪うように交わす接吻には慣れていない。
        深く、絡みついてくる口づけが苦しくて、懸命に剣心に応えながらも眉が歪む。

        肌を重ねて愛し合うことを教えられたのも、まだ最近のことだというのに―――突然こんな無理矢理に求められて、薫の目に新しい涙が滲んだ。
        それを教えた当の本人は、口づけから薫を解放せぬままに彼女の寝間着の帯をするりと解く。それに気づいた薫が身を固くしたのを感じて、剣心は漸く唇
        を離した。


        「や、めて・・・・・・」
        弱々しく訴える声を無視して、剣心は寝間着の前をはだけさせる。
        ほの白い裸身が灯りのもとに晒されて、薫は羞恥に唇を噛んだ。

        「ごめん、もう止まらない」
        首筋に顔を埋め、剣心がそっと囁く。
        「弥彦に、聞こえちゃうわ・・・・・・」

        涙目で抗議する薫。濡れた黒い瞳は吸い込まれそうに綺麗で、剣心の胸の奥がざわざわと騒ぐ。
        わかっているのだろうか。そんな顔でそんなふうに言うのは、却って煽るだけだということを。


        「だから、声を殺して―――ね?」
        薫の唇を人差し指でなぞりながら、剣心が愉しげに笑った。
        「・・・・・・意地悪っ!」


        涙を湛えた瞳できっと睨まれたものの、それ以上の抵抗はない。
        ぎゅうっと強く抱きしめて細い首に噛みついてやると、観念したかのように薫の身体から力が抜けた。










        ★









        夜半をとうに回った頃、襖の向こうで小さな足音がした。
        耳をすますと、足音は厠の方に向かったようだ。少しするとまた廊下を反対に戻る音、続いて弥彦の部屋の襖が動く音がかすかに聞こえた。


        「・・・・・・気づかれてはいないようでござるよ」
        剣心は安心したように息を吐きながら、腕の中に横たわる薫にささやいた。それには答えず、薫は小さな拳を強く握って、ごっ、と剣心の鳩尾を突いた。

        結構、痛い。
        剣心は、ぐぇ、と小さく変な声を洩らして身体をくの字に折り曲げた。


        「薫・・・・・・す、少し手加減・・・・・・」
        「知らないっ!」
        薫は僅かに身を起こし、本気で痛がる剣心を見下ろした。
        「剣心が意地悪するから、仕返しだもん」
        剣心は、敷布に投げ出した首を曲げて薫を見上げる。精一杯険しい顔で睨んでいるつもりなのだろうが、その瞳はまだ先程までの情事の名残でとろりと
        潤んでおり迫力に欠けるというか、むしろ可愛らしく見えてしまう。

        「こんなふうにされるのは、嫌?」
        頬は薄紅に染まって汗ばんで、乱れた黒髪が一筋貼りついているのがいやに艶めかしくて、剣心は見とれた。指をのばして彼女の顔にかかる髪をかきあ
        げてやりながら、からかうように続けた。
        「嫌なら、離れるでござるか?」

        薫の瞳が揺れる。
        ぱたり、と起こした身体をもう一度倒して、剣心の目をじっと見つめる。
        「そっちのほうが・・・・・・もっと意地悪だわ・・・・・・」
        切ない、響き。
        か細く掠れた声に、剣心の胸がさざめく。


        「うん・・・・・・ごめん、薫殿」
        裸の腰をぐいと引き寄せて、柔らかな頬に触れる。
        「今のは、悪ふざけが過ぎた―――離れるどころか、頼まれたって離さないでござるよ」

        泣きそうな目許に唇を寄せて、そっと閉じさせる。そのまま、目蓋に頬に唇に口づけを繰り返す。
        先程のような押さえつけて咬みつくような接吻ではなくて、愛情と尊敬と、こうして腕の中にいてくれる事に対しての限りない感謝の念をこめた、優しい口
        づけ。

        「言ったでござろう? 好きな子には、つい意地悪をしてしまう、と」
        だから、すまない、と。
        剣心は唇を重ねながら、小声で詫びる。



        誰よりも愛しい、慈しんでいきたいひとなのに、つい裏腹に苛めてしまうのは、腕の中の彼女が戸惑いを露わに見上げてくる困った表情が好きだから。
        いつもは勝気な光をたたえた瞳が不安気に揺らいで、そこから流れる透明な涙が綺麗だから。
        そして―――彼女はいつも必ず自分の仕掛ける「意地悪」を、許してくれることを知っているから。

        子供じみた独占欲も自分勝手な我侭も、薫はすべて承知で受けとめてくれる。
        ひとまわりも年下の彼女に甘えきった自分の意地悪は、弥彦の燕に対する照れ隠しなどよりも遥かにたちが悪いだろう。



        薫の目蓋が開いて、澄み渡った夜空の色の瞳がじっと剣心を見つめる。
        「・・・・・・もう、ほんとに子供みたいなんだから・・・・・・」
        悪戯をため息まじりで赦す母親のようにそう言うと、薫は剣心の胸をそっと小突いた。彼女の唇に優しい微笑みが戻っていることに安心して、剣心も笑み
        を返す。

        そして薫はひとつ深い息をつくと、剣心の肩口に頭をことりと預けた。すっかり疲れきったのか、そのままの姿勢でじきに安らかな寝息をたてはじめる。
        無防備な薫の寝顔をごく近くで眺め―――剣心は満ち足りた気分で目を閉じた。







        多分いくつになっても、どれだけ歳月を重ねても、きっと君の前では大人にはなりきれない。
        わがままに君を求める、聞き分けのない子供で、どうかいさせて。
















        
了。





                                                                                     2013.11.11








        モドル。