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        小鳥がさえずるように笑いさざめきながら、新しい客の一団が向かいの小上がりに着いた。色とりどりの着物が目に鮮やかな娘たちである。



        ―――燕ちゃんくらいの年頃かな。
        少女たちが品書きを見ながらきゃあきゃあとはしゃぐ様子を眺めながら、薫はぼんやりと考える。
        「お茶のおかわりはいかがですか?」
        上からふってきた給仕の娘の声に、礼を言って頷く。店の時計は三時半をとっくにまわっていた。



        「剣心、遅いなぁ」



        薫が「こばと屋」に到着したのは三時前。
        幸運にも狙っていた一番奥の小上がりが空いたところで、薫は上機嫌で席についた。
        しかし、時間になっても剣心は現れない。十五分を過ぎた頃から「遅いっ!」と腹が立ってきたが、三十分を過ぎたあたりから今度は心配になってき
        た。

        今朝の剣心の話だと、警察署での用事はさほど時間がかかるようなものではなかった。
        なら、遅れているのには何か不測の事態が起こったからかもしれない。剣心のことだから、事故よりはむしろ、事件の可能性の方が大きい―――よう
        な気がする。
        「また、何か面倒な事に巻き込まれていたりして」
        ぼそりとひとりで呟き、湯気のたつ煎れたての茶を口にする。

        もしかすると、何か困っている人を見つけて手を貸したりしているのかもしれない。しかし、それなら遅刻も仕方ないだろう、と考える。なんだかんだ言っ
        て、薫は剣心の「困った人を見過ごせない」性格がとても好きなのだから。
        それに、彼がなかなか現れないのは心配だが、一方では「悪い事態」なんてそう簡単には起こらないだろう、と楽観視もしていた。


        ―――だって、嫌な事件なら夫婦になる前にさんざん起こったし。


        誘拐されて窒息死しかかったり、一方的にさよならを言われて京都に発たれたり、殺害を偽装されて離ればなれにされて剣心が廃人になりかけたり、
        あれはどれもかなり最悪だった。あの出来事たちより悪い事態なんてそうそう起こるとは思えない。
        あの頃直面した事件たちのせいで、良くも悪くも薫の「最悪」の基準値は、常人よりもかなり高いレベルに設定されてしまった。


        向かいの席の少女たちが、運ばれてきためいめいの皿を前に可愛らしい歓声をあげている。こばと屋では汁粉やみつ豆などの甘味のほかにも、店主
        がただいま修行中だという洋風の菓子も実験的に提供中―――ということらしく、彼女たちの会話の中には聞き慣れない名前の菓子もあった。
        少女たちがはしゃぐ様子が微笑ましくて、薫はくすりと笑みをこぼした。そして思い出したように品書きを手に取る。注文は剣心が来てから、と思ってい
        たので、まだ薫の卓子にはお茶の入った湯呑みしか置かれていない。


        「まぁ、腰を据えて待つとしますか・・・・・・」


        そういえば出会ったばかりの頃、家で剣心の帰りを待つのが嫌いだった。
        どこか飄々とした彼が、ふっと風のように何処かへ行ってしまうのではないか、もう帰ってこないのではないかと、そんな不安を常に抱いていた。
        今はもうそんな不安はない。むしろ、薫の帰りが少し遅くなるだけで落ち着きがなくなるのは剣心のほうで、どうも自分に対して過保護なのではないか
        と苦笑することもしばしばだ。
        そんな変化が、とても楽しい。日々は同じように過ぎているようでいて、新しい発見に満ちている。



        「すいみませーん、このマドレーヌって、どんなお菓子ですか?」
        とりあえず、時間をつぶすお供にと、新鮮な響きを持つ西洋菓子を注文した。





        ★





        道端で急に産気づいた身重の母親を抱えるようにして支えながら、剣心と薫は少年に案内されて彼らの家へとむかった。
        玄関先に植木が並べられた、小さいけれどこざっぱりした家にたどり着いたところで、近所の主婦らに声をかけ産婆を呼んできてもらう。慌しく人々が動
        くなか、当然のように帰りそびれた剣心と燕はお湯を沸かすだの何だのと手伝いをする羽目になった。

        薫との約束の時間はとうに過ぎ、剣心はちょっと泣きたい気分だったが、お産の母親の手伝いを適当なところで放り出したりなどすると、逆に薫に怒ら
        れることだろう。腹をくくって状況が落ち着くまでは手伝うことにする。


        やがて、いったん陣痛の波が遠ざかった母親が「礼を言いたい」と、額に汗をにじませた顔で剣心と燕を呼んだ。


        「どうも・・・・・・おふたりにはご迷惑をかけてしまって、すみません・・・・・ありがとうございます」
        断続的な痛みに疲れた顔をしていたが、それでも母親は笑顔で二人にそう言った。
        「そんなっ! 迷惑なんて、そんなことありませんっ! あの、わたし、何もしてあげられませんけど・・・・・・がんばってくださいっ!」
        燕の必死な励ましに、母親はより嬉しそうな表情になる。
        「母ちゃん、痛いの大丈夫・・・・・・?」
        いつの間にか、枕元に座った少年が、心配そうな顔で母親をのぞきこんでいた。彼女はするりと手をのばして、ぐいぐいと力強い仕草で少年の頭を撫
        でる。

        「ありがとう、大丈夫よ・・・・・・弟かな、妹かな? 楽しみねぇ」





        ★





        産婆が到着し、剣心と燕はいったん産屋となった部屋を出て、土間の壁に背をついて二人そろって大きく息をついた。


        それは、感嘆のため息。
        燕が感じ入ったように、口を開いた。


        「あの、なんだか・・・・・・変な言い方かもしれませんが、かっこよかった、ですね」
        「いや、拙者もそう思ったでござるよ」
        出産に臨む母親はまだ若かった。おそらく剣心より年下だろう。しかし、痛みに耐えながら長男に笑いかける様子には一種独特の気高さがあって、剣
        心も燕も名状しがたい感動にうたれた。


        「女性というものは、凄いでござるな」


        たおやかなその身体で新しい生命を育んで、この世に生み出す。
        それはごく当たり前の事象であり、素晴らしい奇跡。


        自分は死体の山を築きながら、新しい時代を創ることに奔走した。あの時代の男たちは、それこそが産みの苦しみだと信じていた。
        しかし実際のところ男たちは、か細い身体で痛みや苦しみを受け止めて耐える女性の存在がなければ、ひとつの命を産み出すことすらできないのだ。
        はるか昔から、女性たちはそうやって命をつむいで、歴史をつないできた。



        ―――いつか、薫もこんなふうに、母親になってくれるのかな。



        ごく自然に、そう思った。
        薫は時折、子供を産むならまずは男の子がいい、とにこやかに話す。
        子供が欲しいのは自分も同じだし、彼女がそう語るのはとても嬉しい。けれどその度、嬉しいのと同時に自分のような人斬りの血をひく子供を彼女に産
        ませるのかと、ひどく後ろ向きな考えが頭の隅をよぎるのも事実だった。
        しかし、こうして今まさに新たに生命が産みおとされようとする場に居合わせてみると、そんな考え自体がくだらないということに気づいた。


        新しく、命が生まれること。
        その尊さに比べると、自分の煩悶などなんと小さなことだろう。
        過去の所業や罪などと同列に考えるのは、ただの思いあがりだ。
        生命が誕生することは、そんなのものを遥かに超越した、奇跡なのだから。


        剣心は、自分の心を縛る枷がひとつ消え去ったような晴れやかな心持ちで、口元に笑みを浮かべた。






        「あのぉ・・・・・・」


        不意に、男性の声がした。
        剣心と燕が声のしたほうに目をむけると、痩せぎすの男がぺこりと深く頭を下げていた。
 
        「この度は本当にありがとうございます・・・・・・助けていただきまして」
        見たところ、あの母親と同じくらいの年齢の男。と、すると彼女の夫かとふたりは見当をつける。
        「いえ、そんな・・・・・・奥様にはわたしたちもお世話になって」
        「あの、図々しいのは承知でお願いがもうひとつあるのですが・・・・・・お侍様、ちょっと運び出したいものがあるんです。あっし一人じゃ無理なんで、手伝
        ってはいただけませんか?」
        燕の言葉を遮るように、男は言った。
        剣心は、何かお産に入り用なものでもあるのかな、と納得し「構わないでござるよ、それは何処に?」とふたつ返事で了承した。

        こっちです、と案内されながら、剣心は燕に「では、ちょっと手伝ってくるでござる」と軽く手を挙げて土間から出て行った。



        燕が剣心を見送ると、彼らと入れ違いになるように玄関から賑やかな気配がした。燕はなんだろうと思いそちらに足を運ぶ。
        すると、玄関ではがっしりとした体つきの、浅黒く日に焼けた青年が草履を脱ぐところだった。すすぎの水を持ってきた近所の者が、燕を見て笑顔にな
        り、青年の肩を叩く。

        「ほら、この娘さんが、おかみさんを連れてきてくれたんですよ」
        よほど急いで駆けてきたのだろう、青年は顔にびっしょり汗をかいていた。その顔がぱっとほころぶ。
        「ああ、あんたが・・・・・・うちの家内を助けてくれて、ありがとうございます!」
        燕は、狐につままれたような表情になる。
        「あの、あなたが・・・・・・だんなさま、なんですか?」
        「ええ、俺は植木屋で、今日も得意先の庭をちょきちょきやってたんですが・・・・・・ふたりめが産まれそうだって知らせが来たんで、こうしちゃいられねぇ
        とすっとんできたんですよ」

        照れくさげに笑う青年からは、喜ぶのと同時に妻を気遣う不安げな様子も見てとれた。成程、この彼があの女性の、夫なのだろう。
        


        じゃあ、剣心さんに手伝いを頼んだあの男のひとは―――?



        「えっと、わたしはてっきり、さっき土間に来たひとがだんなさまかと思ったんですけれど・・・・・・」
        「え? 誰ですそれ?」
        「近所の若い衆じゃないですか?」
        「 いや、手伝いには女のひとしか来ていないけれど」




        口々に否定され、燕の胸の中で嫌な予感がむくりと鎌首をもたげた。











        4 に続く。