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        引ったくり犯は、燕から奪った花柄の風呂敷包みを小脇に挟んで、全速力で駆けた。
        そのただならぬ雰囲気と勢いに、慌てて周りの者は身体をどけて道をあける。はね飛ばされそうになった若い娘が高い悲鳴をあげた。
        風呂敷は軽く、何か柔らかい感触とかさかさと紙が擦れるような音が聞こえる。あの娘が口にしていた「大事なもの」とは、さては高価な晴れ着であろう
        かと男の口の端が上がったが、まだ失速はしない。油断せず、出来るだけ長い距離を全力で走りぬけて逃げ切るのが彼の「流儀」で、そうやってあちこ
        ちの街でずいぶん稼いできた。

        男は売り飛ばす算段を考えながらも、速度をゆるめず走り続けていたが―――と、そこで急速に近づいてくる足音に気づいた。



        「あー、ちょっと、そこのひったくり犯」



        ごく近くで聞こえた声に、男はぎくりとする。
        「申し訳ないが拙者急いでいるゆえ、お主の追いかけっこに付き合う時間はないのでござるよ。あきらめて捕まってはくれぬか?」
        剣心は足を止めぬまま、立ち話でもするような呑気な調子で男に声をかけた。
        

        ―――ありえない、今まで俺に追いついた者などいなかったのに。しかもこんな速度で走っていながら、微塵も息を切らしていないなんて。
        男は、妖怪にでも話しかけられたように顔を歪めた。得体の知れぬ相手から逃れるように、更に加速をつける。
        剣心はやれやれと思いながら強く地面を蹴った。

        ぶん、と風を切るような音がしたと思った瞬間、男は自分の目の前に、緋い髪の小柄な男の姿があることを知る。追い抜かされた事に気づいたものの、
        勢いをつけた脚は容易には止まれないし、すぐさま方向転換をして逃げることもできない。

        男の動揺には構わずに、すっ、と剣心は片足を滑らせるように動かす。
        脚払いをかけられた男は均衡を失い、音を立てて大地に抱擁した。
        全速力で走っていたところを転倒した男は、あまりの衝撃に、うつぶせになったまますぐには動けずにいた。痛みに呻く男の腕を、剣心は後ろにひねり
        上げてあっさりと拘束する。目の前で繰り広げられた捕り物に、周りの通行人たちからやんやの喝采があがった。


        「緋村さーん!」
        剣心が顔をあげると、道の向こうから巡査が二人走ってくるのが見えた。どうやら通報してくれた者がいたらしい。
        息せき切って駆けつけた巡査たちは「御苦労様でありますっ!」と敬礼をしつつ、剣心にかわって地べたに押し付けられたひったくり犯の腕をとって、縄
        をかけた。
        「け、けんしん、さん・・・・・・っ! だ、大丈夫、ですかっ・・・・・・」
        巡査たちに少し遅れて、燕が肩で息をしながらもようやく追いついた。
        「ああ燕殿、荷物は無事に・・・・・・」

        転倒した犯人の手からすっ飛んだ風呂敷包みは、結び目が緩んで、中身がのぞいた状態で地面に転がっていた。
        それを拾おうと、剣心が手を伸ばした、その時。



        一陣の、風が吹いた。



        またしても上がる燕の悲鳴。
        剣心は一瞬何が起きたのかわからなかった。



        突風に舞い上がった、五枚の紙切れ。




        「きゃあああああっ! 妙さんが入手できるのを心待ちにしていた『月岡津南幻の連作錦絵・新撰組風雲五番勝負』があああああっ!」




        説明的な燕の絶叫に、大事な品とはそういうことかと剣心は脱力しかけた。しかし、叫びを耳にした通行人のうち何名かの若い娘が目の色を変えたの
        を見て、「成程或る層にとっては稀少なお宝なのだろう」と納得する。
        いずれにせよ、何であろうと燕の―――ひいては妙の大事な物には違いない。剣心はてんでばらばらな方角へ飛んでいった錦絵を追って、もう一度走
        り出す。

        「な、なんだよ、どんな凄い物かと思ったら・・・・・・」
        巡査に引っ立てられるようにしながら、がっくりと肩を落としたひったくり犯は情けなく呟いた。




        風呂敷の中、もうひとつ残っていた品物は、洗いざらしの「赤べこ」の制服のエプロンだった。





        ★





        文字通り「風まかせ」に舞う錦絵を追うのは、実のところひったくり犯を捕まえるのより骨だった。
        いくら剣心の動体視力がずば抜けているとしても、相手は五枚いっぺんに、である。飛ばされたうちの三枚は自力で捕まえ、別方向に飛んだ一枚は今
        の逮捕劇の見物人が拾ってくれた。

        残り一枚―――と剣心が首を巡らすと、よりにもよって橋のあるほう―――つまりは川、つまりは水のある方へ、ひらりと錦絵が気まぐれな軌跡を描く
        のが目に入る。

        「あ、あああっ!」
        思わず剣心は声をあげた。追いかけてきた燕は、青ざめた顔を手で覆う。
        錦絵は、橋の下へと吸い込まれるようにして剣心と燕の視界から消えた。
        


        しかし、一拍おいて響いた子供の声を聞いて、ふたりは橋の欄干まで慌てて駆け寄った。


        「母ちゃーん! なんかキレイなのが降ってきたぁ!」


        身を乗りだすと、川で水遊びをしていた男の子が錦絵を手にかざしている。その子の視線を追うと、橋の上、剣心たちの隣で大きなお腹をした母親が
        ふるふると男の子に向かって手を振っていた。






        「ほんっとーに、ありがとうございました!」


        地面に頭がついてしまうのではないか、というくらい深々と、燕は頭を下げる。
        「あらあら、そんなに喜んで・・・・・・よかったわねぇお兄ちゃん、良いことしたわねぇ」
        川面に落ちるぎりぎりで錦絵を「救出」した少年は、母親に頭を撫でられて誇らしげな顔で胸を張った。
        「あの、わたし『赤べこ』って牛鍋屋で働いているんです。是非今度食べにいらしてください、わたし、ご馳走しますから!」
        「まあまあ、かえってありがとうございます。じゃあ、身二つになったら伺いますね」

        お腹をさすりながら、母親が言った。臨月をむかえるくらいの、大きなお腹である。
        「本当に助かったでござるよ、ありがとうでござる」
        「絶対ぜったい来てくださいね!」


        少年と母親に手を振って別れを告げ、剣心は大きく息をついた。
        思わぬ事態となってしまい、時間を食ってしまった。急いで「こばと屋」に行かないと、薫を待たせてしまうことになるだろう。
        「じゃあ燕殿、拙者はこれで」
        「剣心さんも、どうもありがとうございました! 薫さんによろしくお伝え・・・・・・」
        「母ちゃんっ?!」


        ふたりの会話に、少年の悲鳴のような声が重なった。
        驚いてふりむくと、母親は崩れるように膝をつき、脂汗を滲ませ苦しげに歯を食いしばっている。
        「母ちゃん! 大丈夫!? しっかりして!」


        剣心の顔が、「まさか」と引きつった。
        いやいやこれは大変ではあるがとてもめでたい瞬間で、それをまさかなどと言ってはいけないのだろう、が、しかし。




        「う・・・・・・生まれそ、う・・・・・・」




        母親のしぼりだすような声に、隣に立つ燕が剣心の袖をぎゅっと握り、すがるような目で見上げてくる。






        あああもうどうにでもしてくれという気分で、剣心は空をふり仰いだ。








        3 へ続く。