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        はっとして、薫の目が大きくみはられる。
        さまよっていた手に、ぐい、と強く引き寄せられた。





        「薫殿はそんなに実感がないかもしれないが、拙者たちは、そう信じこんでいたから」
        片腕で出せる精一杯の強さなのだろうか、苦しいくらいの力で抱きしめられる。
        剣心の頬が、髪にすりよせられる感触が伝わってくる。けれど、もうどぎまぎしている場合ではなかった。



        「薫殿は生きていると頭では解っていても、無性に怖くなるんでござるよ。また、薫殿が消えてしまったらどうしようかと思って・・・・・・夜中、暗闇でひとり
        でいると、特に」



        何と答えたらよいのかわからなくて、薫は声をかけるかわりに腕をのばした。
        抱擁に応えるように、彼の背中に腕をまわすと、深く、息をつく気配が感じられた。
        「・・・・・・こうしていると、安心するでござるな」
        ぴったりと身体を重ねていると、薫の体温を感じていられる。息づかいが伝わってくる。
        剣心は我ながら馬鹿げていると思いながらも、そうして薫が生きていることを肌で感じて、ようやく安堵の息をつくことができた。
        


        暫くの間、薫はそうして抱かれるまま剣心に身を任せていたが、やがて小さく身じろぎをして、口を開いた。

        「・・・・・・剣心が、昔のことを話してくれたとき。あの日の夜にね」
        「え?」
        「わたしは絶対に死なないって、そう思ったの」
        「・・・・・・薫殿?」
        僅かに、左腕の力が緩んだ。胸にうずめていた顔を上げて、薫はまっすぐに剣心の目を見る。


        「もしわたしが死んで剣心が苦しむんだとしたら、そんなの絶対に嫌だから。だからわたしは絶対剣心より先に死んだりしないって。あなたの話を聞いた
        とき、そう決めたの」


        それはあの夜、薫が恵に対して宣言したことだ。
        あの時恵とはちょっとした議論になってしまったが、結局、理屈ではないのだ。

        わたしは今、剣心のそばにいて、剣心のことが好きで、そして、生きている。
        大事なことは―――きっと、ただそれだけのこと。
        そしてそれは、とても貴重なことなのだ。


        「決めたんだから、もう怖がらなくて大丈夫よ・・・・・・だいたい、そんなに何度もあなたの前で死ぬなんてごめんだもの」
        

        きっぱりと力強く言い切った薫を、剣心は驚いたようにまじまじと見つめて―――やがて、ふっと力が抜けたように、笑った。
        「あの時、そんな事を決めていたんでござるか」
        「そうよ、剣心より先に恵さんにきっぱり宣言しちゃったけど」
        「拙者はあの時、あのような話をして、薫殿に嫌われたのではないかと心配していた」
        「やだ、そんな事思ってたの? ばかねぇ、わたしが剣心を嫌いになるわけないじゃない」

        そう言って笑う薫に、剣心の瞳が揺れた。
        当たり前のようにそう言うが―――薫だってあの時、いきなりあんな話を突きつけられて、さぞ驚いただろうに。どんなにか、苦しかっただろうに。
        それなのに、薫は全部を受け止めて、何も変わることなく笑いかけてくれた。
        だから―――この笑顔を、なんとしてでも守らねばと。あの時、つよく思ったのだ。それなのに―――


        胸にざくりと深く刀を突き立てられ、朱に染まった亡骸。
        一度目に焼きついてしまったあの姿は、偽物だったとわかっている今でも、そう簡単に脳裏から消すことはできなくて。
        

        剣心の表情に陰が差すのを、薫は見逃さなかった。
        彼の目を覗きこみ、薫は気遣わしげに眉を寄せたが、直ぐに「いいことを思いついた」というように明るい顔になって唇をほころばせる。
        「それじゃあ・・・・・・ねぇ剣心。かわりにっていうのも変だけど、わたしは剣心に未来をあげるね」
        「・・・・・・え?」
        「剣心はあの時、過去の話をくれたでしょ? だからそのお返しよ。これから先のわたしの未来、全部あなたにあげるわ」
        「未来・・・・・・?」

        薫は大きく頷いた。そして、澄んだ瞳で剣心を見つめる。
        あの夜、恵に向かって言い切った時よりも、もっと強く、遥かに優しく。
        敬虔な祈りを捧げるように、剣心に誓う。



        「わたしはもう何処にも消えないって、約束する。絶対にあなたを置いて死んだりしないって約束する。来年も再来年も、その先の未来もずっと―――
        剣心のそばにいるって、約束するわ」



        真摯な眼差しを受けとめながら、剣心は咄嗟に言葉を発することができなかった。
        それは、ずっと願っていたもの。ずっと欲しかったものだったから。
        この人とともに、この先の未来を歩めたら、どんなに満ち足りた時を過ごせることだろうかと。ずっと、そんな未来に焦がれていたから。


        ―――ああ、そうだった。薫はいつもそうやって、一番求めていた言葉を与えてくれるのだ。
        出会って間もない頃「過去にはこだわらない」と言ってくれた時、自分の中で新しい何かが始まった。
        「帰ろうね」という暖かい響きが、戦いの最中死の淵から引き戻してくれた。

        そして、夕暮れの帰り道。
        小さな声で、けれどはっきりと言ってくれた、あの言葉。


        「そうだな・・・・・・一緒にずっと、でござったな」
        「覚えてた?」
        「忘れるわけ、ないでござるよ」

        剣心は、ことりと首を前に倒した。前髪が、ふわりと薫のそれと触れ合う。
        ずっと一緒にいたいと思っていたのは、こっちのほうだ。だから―――あの言葉がどれほど嬉しかったか。


        「・・・・・・ありがとう。もう、怖くない」
        今もまた薫は、望んでいた以上のものを約束してくれた。
        ずっと一緒に過ごす未来。でも、それは与えてもらうだけでは意味がないのだ。
        互いに、与えて与えられて、ふたりで一緒に築いてゆくものなのだ。だから―――

        「拙者の未来も、全部あげるから―――薫殿が嫌じゃなかったら・・・・・・」
        「・・・・・・嫌なわけないじゃない。ほんと、ばかねぇ」


        そう言って微笑む薫に、剣心は眩しいものを見るように目を細めた。そして、薫の背中にあった左手を、そっと小さな顎に添える。
        互いの睫毛が触れてしまいそうな、慣れない距離まで顔が近づいて、薫は鼓動が早まるのを感じた。



        あ、どうしよう。
        これって、ひょっとして―――



        「・・・・・・我慢するんじゃなかったの?」
        こんな場面でも憎まれ口を叩いてしまう自分の性格を、薫は恨めしく思った。かなり掠れた、弱々しい口調になってしまったけれど。
        しかし剣心は、むしろその台詞に嬉しそうに笑った。

        「いいんでござるよ。これは・・・・・・そうだな、約束の印だから」
        「しるし・・・・・・?」
        「約束の、誓いの印に」


        暖かい手に、頬を包まれる。
        どうしよう、なんだか泣いてしまいそうだ。
        急に湧き上がってきそうになった涙をこらえたくて、薫は瞳を閉じた。



        それを合図にしたように―――唇が、重なる。



        誓いの、口づけ。
        どうしよう、胸が痛い。
        辛いからとかではなく、剣心のことで胸がいっぱいになって、破裂してしまいそうで、痛い。

        別れて再会してまた離ればなれになって、剣心と出会ってから覚えた様々な感情が、胸によみがえってくる。
        喜びに、切なさに、苦しさに―――そのすべては、彼を愛しく思う気持ちにつながっている。


        離れては、また重なる唇。
        何度も何度も繰り返し触れられて、呼吸が苦しい。息の仕方がわからなくなる。

        「けんし・・・・・・んっ・・・・・・」
        息をつぐように名前を呼ぶと、抱きしめられて耳元に唇を押し当てられた。
        「・・・・・・薫」
        聞こえる、というよりは感じるというくらいの微かな声で、剣心が囁いた。
        耳慣れない呼び方。そうだ、わたしの亡骸を目の前に、一度だけ剣心がそう呼んだんだと―――東京に戻ってから、左之助がこっそり教えてくれた。



        「・・・・・・好きだ」



        それは小さな囁きだったが、耳朶を伝って薫の心のいちばん深いところに、ことりと納まった。
        そろそろ限界だった。こらえていた涙があふれてくる。

        けれど―――これだけは言わなくては。
        片腕しか使えない剣心にかわり、薫はしっかりと手をのばし、彼にすがりつく。



        「わたしも、大好き・・・・・・」


  

        呼吸で紡いだような頼りない音量になってしまったが、その声は剣心に届いたようだった。
        その証拠に、ふたたび薫の頬に剣心の手が添えられ、もう一度強く口づけられた。






        ひと粒こぼれた涙が、剣心の手をあたたかく濡らした。












        7 に続く。