「きゃあああああああああっ!」
絹を裂くような悲鳴とともに、薫は身体ごとぶつかるようにして剣心に飛びついた。
その、あまりの勢いに薫を受け止めきれずひっくり返りそうになった剣心は、左手を後ろについてなんとか体重を支える。
「きゃーっ! きゃーっ! きゃーっ! 何っ!? 何なのこれっ!?」
「ちょ、ちょっと薫殿、落ち着いて・・・・・・」
恐慌をきたしてしがみついてくる薫の背に左手をまわし、片腕だけで抱きしめる。
そして剣心は首を動かして、天井から落下してきた「黒いもの」に目をやった。
布団の上でもぞもぞと蠢いているのは―――大人の手のひら程もある、巨大な黒い、一匹の蜘蛛だった。
「薫殿、大丈夫でござるよ。ただの蜘蛛でござる」
「へ・・・・・・?」
剣心の胸から頭を起こした薫は、おそるおそるそちらを見て、再び悲鳴をあげた。
「いやぁああああああああっ! やだやだっ!蜘蛛だって怖いわよー! 剣心なんとかしてっ!」
・・・・・・確かに、女性にとっては幽霊も蜘蛛も同列かもしれない。
剣心は立ち上がって追い払おうとしたが、腰を上げるより早く蜘蛛はかさかさと長い脚を動かして窓の方へと向かった。そして、まるで煙が吸い込まれ
るかのように、するりと窓の隙間に身体を滑り込ませ、あっという間に見えなくなる。
剣心は、おや、と思って目をこらしたが―――蜘蛛の姿は、何処にもない。
「外に行ってしまったでござるよ」
薫はもう一度顔をあげ、布団の上に蜘蛛がいないことをこわごわ確認する。
彼女の身体からふっと力が抜けるのが腕に伝わって、剣心はくすりと笑った。
「結局、幽霊ではなかったでござるな」
もう天井から音は聞こえない。と、いうことは、異音の正体はあの蜘蛛だったのだろう。そう考えるのが妥当だが、それにしては妙だと薫は眉を寄せる。
「でも、それっておかしくない? 蜘蛛があんな大きな音たてるかしら?」
「確かに、人間が這い回っているくらいの音でござったなぁ」
それに、窓から外に出る時の様子も面妖だった。あんな大きな蜘蛛が、まるで溶けて無くなるかのように、閉じられた窓の隙間に入りこんで消えてしま
うなど、物理的に不可能ではないか。
「もしかすると・・・・・・幽霊ではなく妖怪の類だったのかも」
「いやっ! 怖いこと言わないでっ!」
握った拳で胸をひとつ叩かれ、剣心は笑って薫の頭を自分の胸へと引き寄せた。
「・・・・・・ところで、薫殿」
「なぁに?」
「今度こそと言ったのに、また約束を破ってしまった」
「・・・・・・あ」
非常事態の勢いでこうなってしまったわけだが―――薫が今いる場所は、剣心の腕の中。
指一本触れないどころか、隙間もないくらい密着してしまっている。
今更ながら、薫の顔に血がのぼり、身体がぴしりと硬くなった。
「いっ・・・・・・いやでもこれは、わたしのほうから飛びついたんだし・・・・・・」
「うん、まぁ、それはそうでござるが・・・・・・」
しどろもどろに言い訳めいた事を口にしつつも、互いに離れようとはしなかった。
気持ちの在処は知っているけれど、どうやって触れ合えばよいのか、互いに戸惑っていた。
でも、本当は触れたかったし、触れてほしかった。
なりゆきで「約束」が反故になった今、ふたりとも離れる理由が見つからなくて、身体を重ねたまま、動けなくなる。
薫の頭のてっぺんに唇を寄せるようにして、剣心はおずおずと訊いた。
「その・・・・・・もう少し、このままで、いいでござるか?」
「いい、けど・・・・・・右手、痛くない?」
剣心の胸に顔を埋めた薫は、肩から吊った右腕を押しつぶしているのではないかと気遣って訊いたが、剣心は「平気でござるよ」と薫の背中を撫でた。
慈しむように、そっと優しく。
薄い寝間着越しに、薫の体温が伝わってくる。
あたたかさと柔らかさを感じながら、剣心はため息をついた。
「・・・・・・やっぱり、左手だけではもどかしいでござるなぁ」
「そ、そうなの・・・・・・?」
剣心は心底残念そうな口ぶりだったが、薫にはそんな余裕はない。今にも自分の心臓の音が自分の耳まで届いてしまいそうな有様だ。
抱きしめられる腕が片腕だけでも、こうしていると充分すぎるほどに、彼に包まれていることが実感できる。
「まぁ、薫殿から許可も貰えたので、ここから先は治った後の楽しみにとっておくでござるよ」
「ば・・・・・・ばかっ!」
今まで言われたことがない種類の軽口に、薫はますます赤くなって剣心の胸をどんと小突いた。そんな薫を宥めるように、剣心はぽんぽんと優しく背を
叩く。安心させるような、ゆっくりとした軽い振動に、だんだんと動悸がおさまってゆく。
少しずつ緊張がほぐれて、こわばってきた身体が楽になってきた薫は、剣心の胸に額を擦り付けてみた。お返し、とばかりに指が髪の中に挿し入れられ
て、地肌をくすぐるように撫でられる。その感触に目を細めながら、薫はふと頭に浮かんだひとつの疑問を口にした。
「・・・・・・ねぇ、剣心」
「うん?」
「どうして、一緒の部屋にしてくれって頼んだの?」
髪を撫でていた手の動きが、止まった。
「だって、その・・・・・・何もしないって最初から決めてたなら、前のときみたく別々のお部屋でよかったんじゃないの・・・・・・?」
そう、「危なく襲ってしまいそう」になるくらい理性に自信が持てないのなら、最初から別々の部屋にしておけばよいだけの話だ。
なのに、あんな白々しい嘘までついて、何故―――?
たっぷりの沈黙の後、剣心は薫を抱いたまま、ぼそりと言った。
「怖かったから」
「え?」
「ひとりで寝るのが、怖かったから」
「・・・・・・は?」
薫は頭を起こし、照れくさいのも忘れてまじまじと近くから剣心の顔を覗きこんだ。
その、どこか「観念した」というような彼の表情からは、冗談ではないということが見てとれる。
「え、ええっ? なんでっ!? どうしてっ!? だって剣心、今まで道場では全然そんなこと・・・・・・」
「道場でだって、ほんとは怖かったでござるよ」
いい大人が口にするとは思えない理由に、薫は混乱する。しかし、剣心は大真面目に続けた。
「とてもじゃないが弥彦や左之たちには言えた話ではないが、薫殿にはもう今晩散々みっともないところを見せてしまったからなぁ。ここで取り繕うのも今
更でござるしな」
「え、その、冗談とかじゃなくて・・・・・・ほんと、なの?」
信じられない、というふうに見つめてくる薫に、剣心は笑ってみせた。
小さく首を横に振って、ゆっくりと口を開く。
「正確に言うと、薫殿がそばにいないと、怖い」
「・・・・・・わたしが?」
剣心は薫の背中にそっと触れた。
薄い寝間着の上から肩甲骨をなぞって、細い肩を撫で、二の腕を下がって、手首の方へと手のひらを滑らせる。
薫の輪郭を、形を。
そこに居ることを確認するかのように、ゆっくりと。
「拙者、薫殿が・・・・・・死んでしまったかと思っていたから」