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        右腕を軽くあげたまま、ぴたり、と剣心の動きが静止する。
        瞬きを忘れた目が、薫を見つめる。



        ふいに降りた沈黙。
        薫は剣心の瞳を見つめ返す。




        今の言葉を相当の「覚悟」で口にした薫は、剣心がどんな反応を返してくるのかを緊張の面持ちで待った。
        無意識のうちに唇を噛み、膝に乗せた手のひらをかたく握りしめる。

        その沈黙はとても長い時間に感じられたが、実際はほんの数秒だったのかもしれない。
        やがて剣心は薫から目を離さないまま、ゆっくりと布団の上に身を起こした。
        薫に向かいあって、座りなおす。



        左手が、ためらいがちに薫に向かって伸ばされる。
        先程、前髪に触れられたときのように、薫は殆ど反射的に目を閉じた。
      
        指が、近づいてくる気配。
        しかし、今度は―――触れられなかった。



        気配が遠退くのを感じて、薫はおずおずと目を開く。
        目の前にいる剣心は、一度近づけた左手を引っ込めて、そのままぐーぱーと閉じたり開いたりを繰り返している。



        「・・・・・・っ、今ほど腕を撃たれたことを悔しいと思ったことはないでござるよ・・・・・・」



        腹の底から絞り出すような、無念そうな声。
        かくんと首を前に倒して、落とした肩はわなわなと震えている。

        その、力の限り残念がる様子が可笑しくて、薫の噛みしめていた唇から、くすりと笑いがこぼれる。
        はりつめていた緊張がとけ、その反動のようにまたもや笑いが止まらなくなる。剣心は顔をあげると、ちょっと情けない顔で、困ったように笑った。


        「・・・・・・拙者、今日はみっともないところばかり見せているでござるなぁ」
        「そ・・・・・・そんなこと、ないよー」
        「そう言う割には、まだ笑っているようでござるが」
        「ご、ごめん、なんか止まらなくなっちゃって・・・・・・って、いうか、むしろ嬉しくって」
        「え?」
        「そういう剣心を見るのって初めてだから、嬉しいの」

        まだ半分笑っている声でそう言われて、剣心は肩をすくめてひとつため息をつく。
        できることなら、薫の前では常に格好をつけていたいのが男の見栄というものなのだが―――しかし、目の前の薫の邪気のない笑顔を見ていたら、な
        んだか今更取り繕うのも馬鹿馬鹿しく思えてきた。今日はもう色々と「仕方がないか」と諦めることにする。そう、色々と。

       
        「とにかく、今夜はもう指一本触れないから。今度こそ約束するでござる」
        ならばせめてここは潔く、と。剣心は邪念を振り落とすように軽く首を横にふって、改めて薫の目を見てきっぱり宣言する。 
        薫は何度か瞬きを繰り返した後、子猫のような上目遣いで、小さな声で尋ねた。
        「あの、わたしよくわからないんだけど、やっぱりその腕じゃ・・・・・・えっと」
        「あー、それは、なんというか。拙者としてはやはり、ちゃんと、両腕で・・・・・・その」
        薫の婉曲な質問に、これまた剣心が婉曲に答える。
        ぼかした言い方だったけれど、それでも彼の思っていることは汲み取れたので―――薫は恥ずかしそうに頬を染め、こくんと頷く。

        その返答に薫は今度こそ「安心した」が、その一方で胸の奥には「残念」という感情もあった。
        同じ部屋ということを知ってから、ずっとぐるぐる色々な事を考えていた。怖いという思いもあったし、幾許かの期待もあった。きっとその両方が、今の
        正直な気持ちなのだろう。


        でも、「襲ってもいいよ」と言ったのも本心からで、だから―――


        「それじゃあ、治ってから・・・・・・ね?」


        小首を傾げて、確認をするように。
        羞じらいながらのその言い方があまりに可愛らしかったものだから、剣心は「触れない」と言ったそばからまた手を伸ばしそうになる。つくづく諦めの悪い
        手をもう一度引っ込めて、その手のひらで悔しそうに、ぱしり、と顔を覆った。まったくもって、自由にならない右腕が恨めしい。

        「・・・・・・あー、しかしそうは言っても、これでは薫殿、落ち着いて休めないでござるよな。衝立でも貸してもらおうか」
        近い距離にふたつ並んだ布団を指して、剣心が提案した。
        「え、大丈夫よ。別にそこまで気を遣わなくても」
        「ではせめて、もう少し離して敷こうか。拙者は部屋の隅のほうでいいから・・・・・・」




        と、剣心が布団に手をかけようとしたその時。





        きしり、と。
        天井が軋んで音をたてた。





        ぴくりと、薫の肩がそれに反応する。


        きし。
        きし、きし、きし。
        それは微かだけれど、妙に神経に障る音。


        「おろ?」
        剣心は手を止めて、天井を仰いだ。


        「鼠・・・・・・? いや、違うでござるな」
        ずるり、と。
        音は天井裏をひっかくような小さな軋みから、なにかもっと奇妙なものに変化していた。



        もう一度、ずるり。
        空耳などではない。天井のほうから、ふたりの頭上から聞こえる、これは―――



        「何の音でござろう・・・・・・って、薫殿?」
        はっしと、夜着の袖を握りしめられ、剣心は首をかしげた。
        「どうしたのでござるか? 顔色が・・・・・・」
        「・・・・・・出た、かも」        
        「は?」
        「どうしよう! お近さんが言ってたとおりなのかもっ!」

        薫は袖を離さないまま、ぐっと身を乗り出した。そして宴席の途中で教えられた「最近出る」という話について、剣心にすがりつかんばかりの勢いで説明
        する。薫の語る内容は真実味を帯びていて、剣心はうんうんと頷きながら耳を傾けたが、それでも幽霊などという非現実的な事をにわかに信じることは
        できなかった。


        「しかし薫殿、その話には説得力はあるが、幽霊などそう簡単に遭遇するものでは・・・・・・」
        「じゃあっ! この音は何だっていうの!?」
        「・・・・・・それは、確かに」

        ふたりの会話に反応するかのように、頭上からまた、ずるりと音がした。
        ずるり、ずるりと断続的に。
        何かが這い回っているような、引きずられているような、気味の悪い音が。


        薫だって、お近たちの話は半信半疑で聞いていた。と、いうかあんな怖い話を信じたくはなかった。
        けれど今、気のせいでもなく幻聴でもなく、音は聞こえてくる。
        すっかり顔色をなくした薫は、剣心の袖を握る指にぎゅっと力をこめた。




        ずるり。
        ずるぅ・・・・・・り。
        何かが、上にいる。

        
        ふたりはその「何か」の正体を探るかのように、天井を見上げて息をつめた。すると。



        ずる、り。



        音が、ふたりの真上で止まった。
        薫が、怪訝そうに眉をひそめたその瞬間。






        ばさり、と。







        頭上から何か黒いものが降ってきた。
















       

       
 5 に続く。