困惑しながら薫が廊下から戻ってからほどなく、賑やかな宴席はおひらきとなった。
翁はまだ飲み足りないような顔をしていたが、さすがに主賓が長旅で疲れているであろうことを気遣ったのだろう。ましてや剣心は怪我人である。存外
あっさりと「今夜はゆっくりと休みなされ」とふたりを解放した。
その後、風呂を浴びた薫はあてがわれた例の部屋に戻り、布団の上にちょこんと座って―――途方に暮れていた。
並べて敷かれた布団と布団の間には、ほんの少しだけ距離がある。わずか五寸ほどの、短い距離だ。
「・・・・・・なんか、わたしたちの距離みたい」
小さく、ひとりごちる。
互いの気持ちの在処は知っているけれど、どうやって触れ合えばよいのか、まだ互いに戸惑っている。
出逢ったときから比べると、心も身体も信じられないくらい近づいた。とても近くに、すぐ隣にいるけれど、まだ距離は零になってはいない。
寄り添って、てのひらを重ねて、歩いた今日の夕暮れ。
今晩この後、もっと近くに行けるのだろうか。
剣心は、そう思って同じ部屋を所望したのだろうか。
・・・・・・っていうか、剣心怪我してるんだし。片手使えないんだし。
さっきのお近さんの台詞じゃないけれど、どっち、なんだろう。
わ、わからない。だって知らないんだもんやったことないんだもん・・・・・・いやそうじゃなくて!
薫は今日何度目かわからない思考のループに陥り、頭をかかえようとして―――
ふと、視線を感じた。
「・・・・・・?」
うつむいていた顔をあげて、きょろきょろと部屋の四方を見る。当然、誰もいない。
立ち上がって障子を開けて、外を窺う。闇にひっそりと沈むような、庭木の輪郭が見てとれた。人の姿はなく、ただ虫の音が静かに響いている。
「気のせい、なのかな」
もう一度、布団の上に戻って小さく呟く。
今感じた(ような気がした)視線のせいで、忘れてしまいたかったもうひとつの懸案事項、「最近、出るらしい」を思い出してしまった。
いくら男勝りとかお転婆とか言われている薫でも、狐狸妖怪の類に対しての所見はごく一般的な若い娘と同じである。つまりは、あまりお近づきになり
たくない。そういう怖いものは、単純に苦手である。
志々雄一味の襲撃で建て替え規模の改築をした葵屋は、畳は青々として、新築の清々しい木の香りがする。およそ幽霊などこの真新しい建物には似
合わないのだが、先程のお近の話には妙なリアリティがあった。まさかとは思うが―――本当に「出る」のだろうか。
「あー、もう・・・・・・」
ばふ、と布団に倒れこむと、ふかふか柔らかい感触に身体を受けとめられた。
流石にいいお店は寝具もいいものを使っているなぁとぼんやり考えていると、するりと襖が開くのが見えて剣心の足が目に入った。
「おろ、疲れたでござるか?」
「・・・・・・ん、少し」
と、いうかぐるぐると同じことを考えるのに疲れてしまったのだが。
お行儀が悪いかな、と思いつつも横になったまま答えると、剣心が隣の布団に腰をおろした。
「出立は明後日なのだから、明日はゆっくりすればよいでござるよ。薫殿も今までなかなか気が休まらなかったでござろう?」
「剣心こそ」
確かに、薫も誘拐されて軟禁されてと散々な目に遭ったわけだが、それを言うなら剣心こそ今回の件では肉体的にも精神的にも酷く苦しめられた。一度
は、完膚なきまでに「壊れて」しまった程にだ。そう考えると、すべてが解決して、こうしてふたり並んで言葉を交わしていることすら奇跡のように思えてく
る。
「傷も治りきっていないのに、また遠出しているんだもの。明日は静養のつもりでのんびりしちゃいましょうね」
ね?と薫が見上げると、剣心は目を細めて微笑った。
「・・・・・・そうでござるな」
そして、薫と同じように―――ぱたりと布団の上に身体を倒す。
互いに横たわった姿勢で、視線が絡まる。
見つめられて、薫の心臓がひとつ高く鳴った。
こんなふうに、寝転がった格好で目を合わせるのは初めてだ。
何故だろう、夕方手をつないで歩いたときとたいして変わらない距離だというのに、これは、やけに気恥ずかしい。
すっ、と。
剣心は無事な左手を、薫のほうへと伸ばした。
指が、前髪にからまる。
子供が遊ぶように、小さく引っ張られて、指で額を撫でられて。
くすぐったさに、薫は肩をすくめて瞳を閉じた。
指先が睫毛をかすめて、頬を辿って、下へと降りてくるのがわかる。
―――あ、唇・・・・・・に、触れられた。
ゆっくりと、指が唇をなぞってゆく。
くすぐったさとは違った感覚に、背中が震える。
額に、自分のそれとは違う髪が触れたのを感じた。
驚いて目を開けると、すぐ近くに。ほんとうにすぐ近くに剣心の顔があって―――もっと驚いた。
「・・・・・・っ!」
「あ・・・・・・す、すすす済まないっ!」
びくっ、と反射的に身を震わせた薫に、剣心は慌てて顔をあげ勢いよく飛びのく。
横になった姿勢のまま硬直してしまった薫の目に、すばやく離れたのはいいけれどうっかり勢いをつけすぎてしまい、隣の布団に尻餅をついて、身体を
支えようとしたものの右手が肩から吊られたままだったために―――結果として、ごろんと布団の上に転がってしまった剣心の姿が映った。
それは、今まで薫が幾度も目にしてきた、流麗ともいえる剣をふるい頼もしく戦う彼と同じ人とは思えないくらい―――残念ながら、間の抜けた有様で。
そんな、今まで目にしたことがない程の剣心の慌てぶりが可笑しくて、薫は腹の奥からこみ上げてくる笑いをこらえることができなかった。
「笑っちゃ悪い」と思いながら、くつくつと喉からこぼれる声を必死で押し殺そうと身体を丸める薫を、剣心は困ったような表情で見ていたが―――やが
て、布団の上に座りなおすと、ゆるく結わえた髪に左手を差し入れて、がしがしと掻きむしった。
「あー、どうも・・・・・・いかんなぁ」
「な、なにが・・・・・・?」
笑い混じりの声で尋ねる薫を見下ろし、剣心はもう一度「いや・・・・・・済まなかった」と、頭を下げる。
「その、薫殿」
「はい?」
「本当は、拙者から頼んだんだ。薫殿と一緒の部屋にして欲しいって」
―――あらら。
ここで白状しちゃうんだ。
あっさりと打ち明けられて、薫は些か拍子抜けした。
だって、こちらは今の今まで、その事がずっと気になってぐるぐる考えていたというのに。
「うん」
「・・・・・・うん?」
「知ってたの。お増さんから、聞いていたから」
「は?」
「えっと・・・・・・ごめんなさい」
かくん、と剣心の顎が下に落ちた。
かあっと首筋から耳まで血がのぼり、見事に真っ赤に染まる。
「う、うわぁぁぁぁぁぁぁ・・・・・・」
そのまま、ばったりと布団の上に突っ伏して呻き出す。
穴があったら入って埋められたい心境なのだろう。頭を抱えて苦悩する剣心を見ていると、薫はなんだか知っていたのに黙っていたことが申し訳なく思
えてきた。うつ伏せに倒れた彼にむかって、弁解するようにおずおずと声をかけてみる。
「あの・・・・・・ごめんね? なんかちょっと、言い出しにくかったものだから、それで・・・・・・」
ぴく、と剣心の肩が小さく動いた。
首をまわして、布団に埋めていた顔を薫の方にむける。
「・・・・・・いや、そんな、薫殿が謝ることなど何もないでござるよ」
剣心は頬を紅潮させたまま、微妙に視線を泳がせた。ひとまわり以上年上の彼のそんな表情は、まるで自分と同年代の少年のようで、薫にはなんだか
新鮮だった。
「悪いのは、拙者のほうだ」
よいしょと身体を返し、剣心は仰向けの姿勢をとる。最初にこの部屋に来たときそうして見せたように、再び怪我をしている右腕を薫に示しつつ、今度は
苦笑いを浮かべた。
「こんな腕だから安心しろと言っておきながら、いざとなるとあっさり抑えがきかなくなるのだからなぁ・・・・・・我ながら情けない」
「え、今・・・・・・わたし危なかったの?」
「うん、危うく襲ってしまうところだった」
真顔で言われて、今度は薫が赤面する番だった。
珍しく直截的な事を言われて、薫はどう言葉を続けたものかともごもごと唇を動かしていたが――
やがて、おもむろに身体を起こして、剣心の顔をじっと見下ろして、言った。
「・・・・・・いいよ」
「え?」
「襲っても、いいよ」
4 に続く。