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        剣心と薫が東京に戻るのは、明後日の予定だ。
        そうなると、明日は骨休めに使える一日なのだから「じゃあ今日のところは賑やかに過ごしても大丈夫じゃろう」と、いうのが翁の弁だった。
        つまりは、「今夜は飲んで食べて思い切り騒ごう!」という意味である。

        大体において、こういう席で翁と一緒になって場を盛り上げるのは操である。その彼女がいないぶん賑やかさは控え目ではあるが、それでも皆たっぷり
        飲んでたっぷり笑って、楽しく宴席は進んだ。実際、操と蒼紫を待つ身の翁も、今回の一件については心配をしていた筈だ。彼らはまだ東京にいるとは
        いえ、ひとまず無事を祝いたいのも当然だろう。


        しかし、薫は―――文句のつけようもない味の料理を食べても、それなりに酒を飲んでも、今夜の部屋のことを考えてはその度に酔いもふっとぶような
        心地であった。







        ★







        途中、手水に立った薫は、ふと足を止めて廊下から臨む中庭を眺めた。
        虫たちが、涼やかな音色を奏でている。風はひんやりと心地よく、幾分ほてった頬を優しく冷やしてくれた。


        ああもう秋なんだなぁ、などと考えながらひとつため息を落としたところで、「どうしました?」と後ろから声をかけられた。


        「きゃあっ!」
        「あ、すみません! びっくりさせるつもりじゃなかったんですけど・・・・・・」
        振り向くと、そこには酒とつまみの追加を持ったお増とお近が立っていた。なんの気配も感じさせずに声をかけられたのに驚いてしまったのだが、考えて
        みれば彼女たちも御庭番衆のくの一なのだ。普段の所作も常人のそれとは幾分違っている。

        「ぼんやりしてたみたいですけど、大丈夫ですか? 酔ってしまったようでしたら、お水持ってきましょうか?」
        「いっそ、酔えたらいいんですけど・・・・・・」
        「は?」
        「・・・・・・あああああちょっとすみませんなんかもう混乱しちゃってぇぇぇぇ!」
        薫は折りよく通りがかったお増とお近を捕まえて、ここぞとばかりに現状について説明をした。



        同じ部屋にしてくれと、自分から申し出たという剣心。
        しかし、薫にはそのことを伏せていて―――
        と、いうか、自分で頼んでおきながら、自分もそれを知らなかったというように振る舞っていて―――

        「あのっ、これって、つまりどういうことなんでしょう・・・・・・」
        おろおろと訊いてくる様子が初々しくて、お増とお近は、ついくすりと笑ってしまった。葵屋が志々雄一派に急襲されたときには堂々と彼等と対峙した
        薫だったが、今の蚊の鳴くような声で助けを求める様は、まるで別人のような頼りなさである。
        

        「大丈夫ですよ、緋村さんならきっと、優しくしてくれます」
        お増にぽん、と肩を叩かれ卒倒しそうになった薫を、お近がはっしと横から支えた。
        「あら、でも緋村さん怪我人なんだから、案外言葉どおり何もしないつもりなのかもよ?」
        お近の台詞に薫はうんうんと頷いたが、その後に「薫さん初めてなんだから、緋村さんだって万全で臨みたいでしょうし」と続けられてまたもや眩暈に襲
        われた。

        「けど、それならわざわざ同じ部屋にしてくれなんて言わないでしょ」
        「それもそうね、あら、どっちなのかしら?」
        「その気になれば片腕でもどうにか・・・・・・」
        「すみませんすみませんもういいです! ご助言ありがとうございますっ!」
         

        これ以上続けるといよいよ会話の内容が具体性を帯びてきそうだ。真っ赤になった薫がふたりの間に割って入ると、お増とお近はころころと笑った。
        「あはは、ごめんなさいあんまり可愛らしい反応なものだから、ちょっとからかってしまいましたぁ」
        「まぁ、緋村さんが何を考えているのかはわからないけれど・・・・・・実際のところ、一緒のお部屋なのが正解ですよ。今回に限っては」



        ―――今回に限っては?



        そのお近の言葉には、からかっているのとは違う妙な含みが感じられて、薫は「どういう意味ですか?」と首を傾げた。
        お近とお増は顔を見合わせる。一瞬、言うか言うまいかというような間が生まれた。
        そして、躊躇いながら、お近が口を開く。



        「いえね、うち、最近出るんですよ」
        そう言いながら、お近は両の手首を胸の前にだらんと垂らしてみせた。



        「・・・・・・出る?」



        何がと聞くまでもなく、そのジェスチャーは「お化け」「幽霊」の類だ。
        しかし薫はそれを一笑に付した。

        「やだ、冗談やめてくださいよー! 前に泊めていただいたときは、そんなのこれっぽっちも出なかったじゃないですか!」
        そう、志々雄の事件が起きた際も薫たち一行はこぞって葵屋の世話になった。当然、その時はそんなものを目撃することはなかったし、そもそも葵屋の
        ような評判もよく人気のある料亭に幽霊などは似合わない。そういうのはもっと、暗くて古くてさびれた場末の宿にでも出そうなものだ。
        しかし、お近は小さく首を横に振り、幾分声を落として続けた。
      

        「だと思うでしょう? でも、それがそうでもないんです。うちみたいに客商売をやっていると、当然人の出入りって多いじゃないですか」
        「そう・・・・・・ですね」
        「毎日いろいろな人が出たり入ったりしていると、それと一緒に、『人じゃないもの』もついてきちゃうこともあるの」
        「・・・・・・え」
        「お客様は生きている方だけで充分なのにねぇ・・・・・・で、最近新しい『お客様』がいらっしゃったみたいで。残念ながら、もう死んでいるお客様が」
        「・・・・・・えーと、ですから、冗談ですよ、ね?」
        おそるおそる薫が訊くと、ふたりはまた、顔を見合わせて笑った。先程とは違って、その顔に暗い陰が感じられるのは気のせいだろうか。


        「まぁ、そういうのって特に悪さをするでもなく、数日もすればまたどこかに行ってしまうのが殆どですから、害はありませんよ」
        「そうそう、こーゆー稼業にはつきものですからねー。定期的にお祓いもしてもらっているし」
        「そんなわけで薫さん、今回は緋村さんとご一緒のほうが安心ですよ」



        夜中にうっかり、人ではない「お客様」に出くわすかもしれないから。
        だから、剣心と同室のほうが心強いだろう、ということらしいが―――
        それは、確かに心強いかもしれないけれど。





        どうも、今の話を聞いてしまったせいで、気がかりなことが倍増したような気がする。
        薫はうすら寒い思いにかられて、ぶるりと身を震わせた。















        3 に続く。