玄関のほうから声が聞こえた。
        誰か訪ねてきたのかしら、と薫が腰を浮かしかけたら、廊下を小走りする足音とともに「拙者が出るでござるよ」という声がした。

        どうも、この身体になってから、剣心の過保護に磨きがかかってしまった気がする。
        大事にしてくれるのはとてもありがたい。しかし甘やかされすぎるのもあまりよろしくないので、一度「あんまり動かないでいると却ってお産が重くなるの
        よ」と諭してみたところ、彼は顔色を変え「それは困るでござるな」と唸って考えこんでしまった。
        あのときの剣心の大真面目に悩む顔は、なんだか可笑しくてそして可愛らしくて―――薫は膝の上で浴衣をほどきながら、申し訳ないとおもいつつ、こっ
        そりと思い出し笑いをこぼす。


        ―――と、玄関から「どうぞ、おあがりください」という声が聞こえた。薫は誰が来たのだろうと首を傾げながら、裁縫は中断することにして浴衣を畳む。
        何度も水をくぐって柔らかい肌触りとなった、お古の浴衣で拵えていたのは、夏に生まれてくる赤ん坊の襁褓だった。






      祈 り







        「高荷先生から、これを預かってきまして」



        剣心と薫を訪ねてきたのは、会津から出てきたという若者だった。医者の卵で、上京したのは医術の勉強のためだという。
        「中央のほうが色々進んでいますし、居留地には外国人のお医者様もおりますから、数年は修行を積んでくるようにと送り出されたのですが・・・・・・僕の師
        である先生が、高荷先生と昵懇でして」

        知人の弟子が東京に行くと聞いて、恵は「それなら、神谷道場にこれを届けてくれませんか?」と、小さな荷物をひとつ託したという。
        「それは、遠路はるばるかたじけないでござる・・・・・・長旅に荷物を増やしてしまって申し訳ない」
        「いえ、ごく軽いものですから何の苦にもなりませんよ。どうぞ、お確かめください」
        若者に勧められ、丁寧にくるまれた包みを解いて―――薫が、ぱっと顔を輝かせる。


        「わぁ・・・・・・可愛い!」
        中から出てきたのは、三角の耳がぴんと立った、小さな犬張子だった。


        「安産の、御守りでござるな」
        剣心の言葉に、薫は目を細めて頷く。両の手のひらで包みこめるくらいの大きさの犬張子は、手触りがしっくりと心地よく、顔立ちもなんともいえず愛くるし
        い。若者は郷里の自慢の民芸品を誇るように、「張子細工といえば、やはり会津のものが一番ですよ」と大きく頷き、「こちらもお渡しするようにと」と言って
        手紙を差し出した。
        恵からの手紙には、自身の近況の報告と薫の懐妊を祝う言葉が三割、残り七割は延々と妊婦の心得についてや妊娠中はあれをしたほうがいいこれを食
        べたほうがいいという「指導」が事細かに綴られていた。

        「あ、ほら剣心!赤ちゃんがお腹にすわったらできるだけ動きなさいって!やっぱり怠けるのはいけないのよ」
        「薫殿は門下生に稽古までつけているではござらんか・・・・・・動きすぎるのはいけないとは、書いていないのでござるか?」
        情けない声を上げる剣心に、薫はくすくす笑ったが、ある一文を見てその笑いは即座にひっこむ。
        「どうかしたのでござるか?」
        「『あんまり甘やかしたらつけあがるから、剣さんは過保護はほどほどにしてください』ですって」

        薫は「つけあがったりしないわよ失礼しちゃうわ」と憤慨し、剣心は「過保護にしたことなど一度もないでござるが」と真顔で首をかしげた。
        ふたりの様子を見ながら若者は、「高荷先生にはふたりともお元気だということと、仲の睦まじさにあてられたと報告しておこう」と、心の中で呟いた。









        しばらく会津のことなど世間話をしてから、若者は神谷道場を辞した。
        帰り際、彼から「どうぞご自愛なさって、元気なお子さんを産んでください」と言われ、薫ははにかみながら礼を返した。


        「よいものを貰ったでござるな」
        居間に戻って剣心がそう言うと、薫は返事をするかわりに犬張子を顔の横に持っていって「わん」と鳴き真似をした。もちろん、にこにこと満面の笑みで。い
        やそれは反則だ可愛すぎるだろうと思いながら、剣心は薫にむぎゅっと抱きつく。
        「・・・・・・この子、神棚に上げたほうがいいのかしら?」
        犬張子は魔除けになるというし、生まれた子供が元気に育つための御守りになるという。張子をとことこと剣心の腕の上に歩かせるように動かしながら、
        薫は疑問を口にした。剣心は犬張子をひょいと取り上げ、その鼻先で薫の頬をつんつんとつつく。
        「もっと見やすいところに飾っておいても構わないでござろう。今、神棚は混みあっていることでござるし」
        薫はくすぐったそうに笑いながら、「確かに、そうね」と答えた。

        神棚が混みあっている、というのも妙な表現だが、事実そのとおりなのだ。
        薫が「おめでた」を報告してからというもの、出稽古などで世話になっている各道場をはじめとした友人知人多方面から、次々と安産の御守りやら縁起物
        などを贈ってもらった。そのすべてを身につけることは到底出来ないので、現在その殆どは神棚の上に収まっているのである。



        「・・・・・・嬉しいわね」
        そう言いながら、薫は犬張子を剣心の手から取る。「がぶー」と擬音を口にしながら犬の口を彼の頬に押しつけると、剣心はお返しとばかりに薫の耳にが
        ぶりと噛みついた。
        きゃーと悲鳴をあげた薫の耳に唇を寄せて、剣心は「張子がでござるか?」と訊く。薫は犬張子を畳の上にそっと置くと「全部がよ」と答えた。

        新しい命が宿ったことを、恵が祝ってくれたこと。
        医者である彼女が、出産の無事を願っての手紙をしたためてくれたこと。
        安産と子供の成長を祈っての犬張子を贈ってくれたこと。
        あの若者が、遠路はるばるそれを届けてくれたこと。彼が「元気な子を」と言ってくれたこと。
        そして、今日の出来事だけではなくて―――神棚の上の御守りたちが示すように、沢山のひとたちが「無事に子供が生まれてくるように」と祈ってくれてい
        る。その真心が、嬉しくてたまらなかった。


        「うん・・・・・・嬉しいでござるな」
        剣心が薫を抱く腕は、どこまでも優しかった。薫と、彼女のなかに在る小さな命を、ともに慈しみ守ろうとするように、やわらかくあたたかく抱きしめる。
        「こんなに沢山のひとが応援してくれているんだから、ちゃんと、元気な赤ちゃんを産まなきゃね」
        「ああ、大丈夫でござるよ。薫殿は、絶対に」

        こんなに沢山のひとが祈って、応援しているのだから。こんなに沢山のひとに慕われて愛されている彼女なのだから。
        もしもこの祈りが届かないとしたら、そんなの、絶対に神様のほうが間違っている。
        罰当たりな考えかもしれないが、だってそうとしか考えられない。


        「・・・・・・父さんが亡くなったときね、わたし、自分がひとりぼっちになったと思ったの」
        突然、話が飛んだようで、剣心は「うん?」と相槌を打ちながら身じろぎをする。
        「家族がみんないなくなって、独りになって・・・・・・悲しくて、心細かったわ。でも、だからこそこれからは独りでも、しっかり生きていかなくちゃって。そう思っ
        たの」
        似たようなことを俺も思ったかな、と。剣心は時代が明治にかわり、流浪の旅を始めた頃の自分を思い返す。もっとも俺の場合は、独りで生きることを「罰」
        として自分に科したのだけれど。
        「でも、そうじゃなくて。わたしはあの頃も、ひとりじゃなかったのね」
        剣心の肩先に頬を押し当て、今頃気がついたわ、と薫は呟くように言った。

        葬式に駆けつけた遠縁の者たちとは、ろくに顔を合わせたこともないような間柄だったけれど。けれど、皆薫が女の身で道場を切り盛りしてゆくことを心配
        してくれた。この街の、縁がある剣術道場の面々も、流派を継いだ薫のことを何かと気遣ってくれた。他にも、友人知人、様々なひとが薫のことを応援して
        くれていた。
        今、この身体になって、その頃のことを振り返って思い出して―――あの頃も、ひとりぼっちなどではなかったことに、改めて気づく。

        「わたしだけじゃないのよね。世界中のひとたちはみんな―――ひとりじゃないし、ひとりじゃ生きていけないんだわ」
        そして顔を上げた薫が、「だって、今日食べたお米だってお野菜だって、お百姓さんが作ってくれたんだし。食べるものだけじゃなくて、着るものも住むとこ
        ろだってそうだし・・・・・・それって、誰かの力を借りなきゃ生きていけないってことよね?」と大真面目に言ったものだから、剣心は思わず笑ってしまった。笑
        いながら、「俺も、そうだったんだろうな」と。心の中でひとりごちた。


        これからは独りで生きてゆこうと思った、あの頃。他人との繋がりを作ってはならないと思いながら、常に他者と距離をとって、旅暮らしを続けてきた。
        しかし、その旅の目的こそが「目にとまる人々を救けること」だった。誰かを救けることで、犯した罪を償いたいと思っていた。

        けれど、今にして思えば―――俺は、誰かを救けることで、俺自身が救われていたのではないだろうか。
        結局俺は―――人とのかかわりを捨てきれなかったんだ。


        「薫殿は、ときどきすばりと真理をつくでござるなぁ」
        「うふふー、凄いでしょう?」
        得意気に微笑む薫の額に、剣心はひとつ口づけを落としながら続ける。
        「まず・・・・・・自分ひとりでは、ひとは産まれてくることすらできないのだし」
        「そうよ。あなたもわたしもそうだったんだし、世界中の誰もがそうなんだし・・・・・・ほら」
        薫は、剣心の腕に優しく自分の手を添えて、彼の手のひらをふくらんだお腹へと導いた。



        「この子も・・・・・・あなたがいたから、産まれてくることができるのよ」



        自分はひとりだ、と思っていたふたりがめぐりあって。恋をして想いを交わして愛し合って、そうして紡いだ新しい命。
        そして、この子も俺たちだけじゃなくて、様々なひとに応援されて、手助けをされて祈りを受けて、やがてこの世に生まれてくる。

        産まれてくる瞬間から、この世に別れを告げる瞬間まで。生きている限り、ひとはひとりではない。
        必ず、どこかで誰かの力を借りて、何らかの形で誰かに繋がっている。
        君に出逢わなかったら―――俺はそんなあたりまえの事実にも気づくことなく、一生を過ごしていたんだろうな。



        「・・・・・・ねぇ」
        「うん」
        「みんなには、内緒よ?みんなが祈ってくれているのは嬉しいし、素晴らしいことだけど・・・・・・やっぱり、いちばん効くのは、お父さんのお祈りだと思うの」
        悪戯っぽくそう言う薫に、剣心は「光栄でござるな」と笑った。彼女がそう思っていることが、とても嬉しかった。
        畳に寝そべるように身を屈めて、薫の腰に抱きついて、彼女のお腹に頬を寄せる。こんな格好、たとえば弥彦あたりが見たものならば「骨抜きにされすぎ
        だろう」とさぞかし呆れることだろうな、と思う。まぁ、そのとおりなのだから別に構いはしないのだけれど。

        「・・・・・・みんなが、楽しみにしているよ。お前が産まれてくるのを」
        ゆっくりと、囁くように。おなかの中の小さな命に語りかける。
        薫の―――母親のぬくもりと愛情にくるまれたこの子に、この声は聞こえているだろうか。



        「拙者も薫殿も・・・・・・はやく、会いたいでござる」



        だから、無事に、元気に産まれておいで。
        そう祈って目を閉じると、かすかな、しかし確かな胎動を感じた。


        「・・・・・・動いた!」
        剣心は、喜色もあらわな顔をばっと上げた。
        「ぼくも早く会いたいです、って。返事してくれたのね」
        「おろ、男の子なんでござるか?」
        「あら?そうね、どうかしら。今なんとなくそう思って・・・・・・」
        身体を起こした剣心は、薫の頭を抱きこんで、熱っぽい口づけを贈る。おなかの子供が男の子ならば、嫉妬されてしまうかな、などと思いながら。






        みんなが待っているよ。早く会いたいよ。
        だから、どうか無事に、どうか元気に、産まれてきておくれ。









        その祈りは、きっと届く。
















        了。







                                                                                         2015.11.09






        モドル。