今でいう士族が侍と呼ばれていた頃、つまりは今から十年と少しばかり前。武家に生まれた者は、家同士が決めた縁談に従うのが通例だった。
親の意に背き、違う相手との結婚を望むことは不義と謗られて当然だったし、結婚後の不倫に至っては更に厳しく、姦夫姦夫は重ねて四つに斬られても
文句は言えないとされていた。
「つまりは、夫ある身の女性に懸想することは人倫に反するということだ。四民平等の今の世でも、それは守るべき道徳だと俺は思う」
一人の青年が滔々と語り、彼と同じ道着に身を包んだ仲間達はそうだそうだそのとおりだと頷いた。
薄曇りの晩冬の空の下、道の真ん中に立ってなにやら気勢を上げている若者たちを、他の通行人たちが訝しげな目で眺めつつ行き過ぎてゆく。
「すなわち、俺たちが薫さんに想いを告げられるのは、今日が最後の機会になる。何故なら、今日を逃したら薫さんは・・・・・・」
「ちぃーっす」
力の抜けた挨拶が、青年の熱弁を遮る。
若者たち―――前川道場の門下生たちの視線が一斉にそちらへ注がれる。
そこにいたのは、竹刀袋をかついだ弥彦だった。
門下生たちは一様に「しまった」という表情になる。
薫が出稽古に来るときは、大抵弥彦もついてくる事を、彼らはすっかり失念していた。
「い、いや別に弥彦がいてもどうということはないだろう?」
「そうだそうだ、俺たちはやましいことをするわけではないんだから」
「なんだったら証人として俺たちの覚悟を見届けてもらうとか」
「いや剣術の試合じゃないんだからそれはどうなんだ?」
自分より年上の青年たちが文字どおり額を集めて相談している姿に、弥彦は色々察してすーっと目を細くする。
「薫ならもうすぐ来るぞ。俺は先に行くから、まぁ頑張れよ」
そう言うなりすたすた歩き去る弥彦に、青年たちはほっと胸を撫で下ろした。
そして、もうすぐ来るという彼女を待ち構え、顔を上げて道の先を見据えた。が、
向こうからやってくる人影は、ひとりではなかった。
「あれ?皆さん、こんなところでどうしたんですか?」
道着の上に、えんじ色の羽織を重ねた薫が、不思議そうに小首を傾げる。前川道場に向かう道すがら、そこの門下生たちが五人ばかり立ちふさがってい
たのだから、奇妙に思うのも無理はないだろう。薫の疑問に若者たちがとっさに返事が出来ずにいると、彼女の隣にいた赤毛の剣客がすかさず口を開い
た。
「おろ、これは・・・・・・わざわざ出迎えに来てくれたのでござるか」
邪気を微塵も感じさせない声音に、一拍置いて、若者の一人が反応する。
「そ、そうなんですよ!ほら、なんというか今日は特別な日、ですか、ら・・・・・・」
当初の予定とは、全く違う台詞である。しかし、数日後に薫の良人となる人物―――剣心を前にして、用意していた台詞を口にするのはどだい無理な話
だった。
「薫さんのことが、ずっと前から好きでした」なんて、言える訳がない。
「え?今日って、何かあったかしら?」
「その、薫さんが、お嫁に行く前の、最後の出稽古、なので・・・・・・」
血を吐く思いで絞り出された言葉に、他の門下生たちの顔も苦悶にゆがむ。しかし、「お嫁に行く」の部分にぼわっと顔を赤くした薫は、彼らの悲嘆には気
づかず「や、やだそんな!改めて言われると照れくさいじゃないですかー!」と、乙女らしく羞じらった。
「それに、わたしは遠くに行く訳じゃないんですから。結婚したって、今までと変わらず出稽古には伺いますので・・・・・・これからもよろしくお願いします!」
ぴょこんとお辞儀をする薫に、門下生たちも「よろしくお願いします!!!」と、深々と腰を折った。
泣きそうに歪んだ顔を、彼らのマドンナに見られるわけにはいかなかったから。
★
「いや、それはどうも・・・・・・情けないところをお見せしてしまい、申し訳ない」
申し訳ないと謝罪しつつも、前川の声は笑いを含んでいた。どちらかというと、苦笑に近い笑いである。
情けないと斬り捨てられた出迎えの門下生たちは、いじらしいことにちゃんと稽古に参加している。ただ、すっぽりと面で顔を覆っていても、大きく落ちた
肩から漂う悲愴感は隠しようがなかった。
先ほど若者たちが言っていたとおり、今日は薫の独身最後の出稽古の日である。そこに剣心が同行したのは、祝言で親代わりをつとめてくれる前川に
改めて挨拶をするためだった。
―――と、いうのが第一の目的ではあるが、実のところ、薫に懸想している男たちを牽制するという狙いもある。
案の定、来る途中の道では「薫さんが独身のうちにひとこと好きですと伝えたい」という門下生たちがしっかり待ち伏せていた。「まったく油断も隙もない」
と剣心は内心で眉をひそめたが、彼らの気持ちもわからないでもない。なにせ、剣心がこの街に来て薫と出逢ったのは今から一年前のことである。それ
以前から薫に憧れていた前川道場の青年たちからすると、突然ふらりとやってきた流浪人風情に憧れの剣術小町をさらわれて、口惜しくないわけがな
い。彼らが「せめて嫁に行く前に一言だけ」と思うのも無理からぬことだろう。
「とはいえ、こちらの道場の方々にも、是非祝言には来ていただきたいでござる。彼らには、その・・・・・・」
酷かもしれないが、と言うのは流石に傲慢であろうかと語尾を濁したが、前川は「ああ、そこは剣心君が気にする事ではないよ」と察してくれた。
「必ず伺わせるから安心しなさい。薫君の祝言を寂しいものにしてしまったら、儂があちらに行ったとき御両親に合わせる顔がなくなってしまう」
そう笑ったあと、ふっと遠くを見る目になり「越路郎たちにも、見せてやりたいものだな」と呟く。言うまでもなく、薫の花嫁姿のことであろう。剣心は頷きつつ
「拙者は・・・・・・御両親にお会いしたかったでござる」と素直な心情を吐露した。
道場に薫の凜とした声が響き、剣心と前川はそちらに目を向ける。
この場所で皆に稽古をつけている瞬間、きっと彼女の頭の中からは間近に迫った祝言のことも俺のことも一旦消えて、目の前にいる門下生たちと真剣に
向き合っているのだろう。そう思いながら剣心は、まもなく自分の妻となるひとの清廉なたたずまいを惚れぼれと見つめた。
そんな剣心に、前川はしみじみと「君が、この街に来てくれてよかったよ」と、口にした。
「実を言うと・・・・・・薫君はこの先誰とも結婚しないのではないかと、そう思っていたのでね」
思いがけない発言に、剣心は目を丸くする。そしてすかさず反論せずにはいられなかった。
「いや、御言葉でござるがそんなことはないでござろう。薫殿は気立てがよくて明るくて優しくて芯が強くて器量よしで・・・・・・第一、こちらの道場の皆から
もあんなに好かれているではござらんか」
立て板に水の勢いで長所を並べ立てられて、前川は「これはどうも、すっかり惚気られてしまったな」と笑う。
「確かに、薫君に憧れている門弟は多いようだな。中には、数年越しで懸想している者もいるようだ」
「だったら・・・・・・」
俺がこの街に来なかったとしても、薫と出逢わなかったとしても、彼女はその中の誰かと一緒になる可能性だってあったじゃないか。そう思ったが、口に
出しては言えなかった。
何故なら、それが「もしも」の話だと分かってはいても、心情的には大変面白くない話だったから。
「だが、君より前から彼女が好きだった者の中で、君より先に彼女に『夫婦になろう』と言えた者は、一人もいなかった。おそらく、彼らにとって薫君があ
まりに特別になってしまった所為だろうが・・・・・・」
器量がよくて心根の優しい娘ならば、この街に他に何人もいるだろう。しかし、薫のように同年代の異性と臆さず会話ができて、皆に公平に接してくれて、
道着姿で一緒に竹刀をふるって汗を流すような娘は他にはいない。女性にしては規格外の活発さや負けん気の強さは欠点とも言えたが、この界隈の剣
術青年たちはそれすらも薫が「他の娘とは違う」ことを際立たせる特徴として受けとめた。弥彦などに言わせると「趣味の悪い物好きが多すぎる」とのこと
だったが、事実として彼女に惹かれる若者は何人もいたのである。
だけど、大勢が彼女に憧れることはあっても、誰かひとりが彼女の近くまで踏み込むことはなかった。
薫は皆が憧れる剣術小町であり、皆が眺めている高嶺に咲く花だ。そんな存在が、誰かひとりの手に落ちてよいものか―――と。
「まあ、つまりは遠巻きに見ているだけで、好きだと口にする勇気を出せた者はひとりもいなかった・・・・・・というわけだよ」
情けないことだがね、と前川は苦笑した。薫に憧れる剣術青年たちはそんな体たらくだし、また薫にしても剣心に出逢うまでは「色恋よりも剣術第一」な娘
だった。
「越路郎が健在だったら、いずれは彼が目にかけた門弟との縁談でもあったかもしれない。だが、彼が鬼籍に入ってしまい、薫君は『自分が道場を守って
いかなくては』と、頑なに思いつめてしまったからな」
「それは・・・・・・わかるような気がするでござる」
はじめて逢ったときもそうだった。
薫は父の流派の汚名をそそぐべく、女の身で夜回りをして辻斬り犯を捕らえようとしていたのだ。今思い出しても無茶というか無謀というか、とにかく剣心
にとっては肝の冷える一件ではあった。しかしながら、あの事件がきっかけで薫と出逢うことができたのだから、考えようによっては彼女の無鉄砲さに感
謝するべきなのかもしれない。
「勿論、誰かと一緒になることが幸福に直結しているとは限らんよ。結婚をせずとも満ち足りた人生を送る女性だっている。けれど、儂は薫君を小さい頃か
ら見てきたからね・・・・・・あの子の花嫁姿を見たいと考えるのは、ごく自然なことだと思うのだが、どうかね」
珍しく、前川は薫のことをあの子と呼んだ。
薫が出稽古に来ているとき、彼女とは各々の流派の代表同士として接している前川だが、その呼称には亡き盟友の遺した少女に対する、深い慈しみが
感じられた。
「それは勿論・・・・・・自然なことでござるよ」
前川の想いを受けて胸の奥があたたかくなるのと同時に、剣心は背筋をたださずにはいられなかった。
「好きだと口にする勇気」と前川は言ったが、自分だってその勇気を出すまでに結構な時間と葛藤を要した。
ちゃんと「好きだ」と薫に言えて、「妻になってくれ」と求婚できたものの、そこに至るまでに何度彼女を泣かせたことか。それどころか、危険な目にまで遭わ
せてしまって―――
前川をはじめとした、薫を慕い、身内のように大事に思ってくれている人々のためにも。そして花嫁姿を見ることができなかった彼女の両親のためにも、こ
れから先、俺が彼女を守ってゆかなくては。
これ以上泣かせたり危ない目に遭わせてしまったら、彼らに対してますます申し訳が立たなくなるし、間違いなく、俺が自分自身を許せなくなる。
「誓って、大切にするでござる」
刀を手にする時よりはるかに気負った様子でそう言った剣心に、前川は「まあ、その誓いは祝言の時までとっておきなさい」と笑った。
★
「剣心って、薫のことになると心が狭いよな」
稽古をつけに行った前川と入れ替わりに、竹刀をかついだ弥彦が歩み寄ってきた。
「おろ、そうでござるか?」
「しらばっくれるな。自覚あるんだろうが」
じとりと睨まれて、剣心は肯定の意味をこめつつ肩をすくめてみせる。
「さっきの奴らが出迎えに来たんじゃないことぐらい、わかってたんだろ?告白くらいさせてやりゃーよかったのに」
「・・・・・・弥彦は優しいでござるなぁ」
「今日のお前が優しくないんだろ。見ろよ、あいつら成仏しきれない幽霊みたいになってるじゃねーか」
「ふむ、言い得て妙でござるな」
防具をつけていたら、一見誰が誰だかわからない。しかし、告白が未遂で終わった若者たちについては遠目でも一目瞭然だった。明らかに肩が落ちて動
作もふらふらで覇気がない。
「確かに、『告白くらい』ではござるな・・・・・・」
わかっている。彼らは結婚に反対しているわけではない。薫が人妻になることを嘆き悲しんではいるが、それでも祝言当日にはおめでとうと祝ってくれるこ
とだろう。薫のことが好きだからこそ、彼女の門出を祝福してくれることだろう。ただ、きっと彼らは後悔している。これまで薫に「好きです」と言えなかった
ことを。
仮に今、彼女にそれを言ったとしても薫の気持ちは変わらない。おそらく彼女は彼らの告白に驚いて、そして「ありがとうございます、でもごめんなさい」と
彼女らしい率直さで応えることだろう。そんな展開になることは百も承知で、それでも彼らは今日、蛮勇をふるって告白をしようとした。それはきっと、「好き
です」と言った事実を作りたかったからだ。
ずっと言えなかった想いを伝えれば、片恋にけりをつけることができ後悔も少しは薄れるだろう。
自分の想いに決着をつけるため、彼らは今更なのは承知で決行に挑んだ。
そういう意味では弥彦の言葉は実に的を射ている。告白という宿願を果たせば、散り砕けたとしても恋心は成仏できただろうから。
それは、わかっているのだが―――
「仕方ないでござるよ、拙者は心が狭いのだから」
そう言ってにっこり笑う剣心に、弥彦はやれやれと首を振って稽古に戻ってゆく。
その背中に、あえて言わずにおいた本心を、ごくごく小さな声で呟いた。
「・・・・・・そんなの、他の男に言わせてたまるものか」
彼女に好きと言えるのは俺ひとりでいい。他の者に言わせるなんて、そんな事は許せない。
それが単純で正直な気持ちだったが、話したところで弥彦は更に呆れて言葉を失うだけだろう。
以前左之助が、薫に対して「惚れちまいそうだ」と言ったことがあった。それは、男ふたりで居たときに発せられた軽口で、左之助の目的は剣心を狼狽させ
ることだった。なんのことはない、当時薫と「いい仲」と認識されるようになった剣心をからかうための一言だったのだが、それが冗談とわかっていても面白
くなかった。理屈抜きに、嫌だった。
あの頃は周囲からいい仲と公認されてはいたが、実のところまだ口に出して「好きだ」と告げてはいなかった。自分の過去について黙ったまま、その言葉
を口にするのは卑怯ではないかという葛藤もあった。だからこそ、冗談とはいえ軽々しくあんな台詞を言ってのける左之助に腹が立った。腹が立ったので
あの後左之助は痛い目を見ることになったのだが―――竹刀でさんざん打ち据えられた左之助は「こんなんで妬くくらいなら、早いとこちゃんと嬢ちゃん
とくっついて嫁にしちまえ」とあちこちにできた痣をさすりながらぼやいたものだった。しかし、それは左之助の見込み違いだったようだ。
勇気をふりしぼって告白をして、ちゃんとくっついて両想いになって晴れて結婚することが決まっても、妬けることに変わりはないのだ。それどころか、心
の狭さには更に磨きがかかるばかりである。
それとも、夫婦となって一緒に過ごす時間を重ねてゆくうちに、いつかこの狭い心が広くなる余裕もできるのだろうか。他の男からの「好き」という告白くら
い、許せる程度には。
そこまで考えて、剣心はぶんぶんと首を横に振った。
どれだけ年を重ねて老成したとしても、そんな物分かりのいい男にはなりたくない。
君に「好きだ」と言える男は、未来永劫俺ひとりがいい。
「皆さん、お疲れ様でした!」
稽古を終えた薫はいつもどおりの挨拶をした後、淡く頬を染めながら「祝言、来てもらえたら嬉しいです」と付け加えた。
わっと祝福の拍手が上がったが、一部の者は完全に泣き笑いの顔になっていた。
剣心はその様子をにこにこしながら眺めつつも、「一部の者」たちの顔の確認を怠らなかった。
帰り道、またも彼らが無謀な待ち伏せを企んだりしないよう、目を光らせておかなくては―――と、内心で呟きながら。
3 へ続く。