3  そして









        ずんずん、ずんずん、剣路は歩く。


        この道は、何度も歩いたことがある道だ。ただしいつもは両親かもしくは弥彦が一緒なので、こうしてひとりで歩くのははじめてである。
        幼い子供にとってそれは充分に「冒険」たりうるもので、その高揚感がぐんぐん背中を押してくれる。太陽はまだ高く、春の風に乾いた地面を小さな足でい
        さましく踏みしめて、ずんずんずんずん剣路は歩く。

        途中、茶店の前を通りかかったら、給仕の娘に「あら?剣路くんひとりなの?」と声をかけられた。
        「けんじはもうおにいちゃんだから、ひとりでへいきなの!」と大声で答えて、目を丸くしている娘に見送られつつ、更に進む。


        と、順調だった道行きに、突如として障害が立ちふさがった。
        いや、正確には立ってはおらず、寝そべっているのだが―――
        ともあれ、道の真ん中で行く手をふさいでいるのは、明らかに剣路よりも大きな体を持つ白い野良犬だった。


        昼寝中らしく、とろんとした目でうつらうつらしている犬を前に、剣路は一瞬息を飲む。
        大きいが、おとなしそうな犬だ。吠えかかってくる様子もないし、そのまま横をすり抜けて道の端を歩けば、きっと問題なくその先へと進めるだろう。
        しかし剣路は、ふん、と気合いを入れてこぶしを握ると、まっすぐその犬にむかって歩をすすめようとした。が―――



        「こらこらこら!」



        突如、背後から伸びた腕が慣れた手つきで剣路を抱き上げる。
        驚いて振り向くと、腕の主は誰あろう、父親だった。

        「やー!はなせー!」
        憤然と足をばたつかせ抗議の声を上げる我が子を、剣心は「いじめては駄目でござろう?」とたしなめる。
        「いじめない!なでなでするの!」
        「おろ、そうでござったか」
        合点した剣心は、まず自分が手を伸ばして、野良犬の頭に触れてみる。犬は小さくあくびをしたが、嫌がるそぶりは見せない。これは大丈夫そうだなと半
        断して剣路を下に降ろしてやる。

        野良犬に歩み寄った剣路は、父親に倣ってそぉっと頭に触れた。そのまま腕をのばして背中のあたりを撫でてやると、犬は申し訳程度にだが尻尾を動か
        してぺちぺちと地面を叩く。その仕草に剣路は瞳を輝かせ、「なかよくなった!」と笑顔で父親を振り仰いだ。
        剣心は微笑ましさに目を細め、「よかったでござるなぁ、では、うちに帰ろうか」と我が子を促す。が、剣路はとたんに不機嫌な顔になり、ぷいっとそっぽを
        向く。


        「かーちゃは、ちびけんのおせわでいそがしいもん。だからけんじは、べつのおうちにいく」


        やはりそうかと心のなかで頷きつつ、剣心は「おろろ」と困った顔で笑った。
        ちびけん、というのは、先頃緋村家に誕生した次男の愛称である。剣心の子で剣路の弟だから「ちび剣」と、門下生たちなどが親しみをこめてそう呼んで
        いる。
        剣路は弟ができたことをたいそう喜んだものの、いかんせん、まだ生まれたばかりの赤ん坊なので一緒に遊ぶことはかなわない。また、両親は子供たち
        を分け隔てするつもりはないものの、どうしても目配りは多く赤子のほうへと行ってしまう。特に母親である薫は弟にかかりきりになる事も多く、剣路にして
        みれば、それが面白くない。かまってもらえないなら、べつのおうちにいってやろう―――つまりは、家出を企てたわけである。

        実際のところ、剣心はそれで剣路を捜して追いかけてきたのだ。
        剣路の姿が見当たらない、近所の家で遊んでいるふうでもない。これはもしやと思い、剣心は薫の心配そうな顔に見送られ道場を飛び出した。
        近所のひとたちに「聞き込み」をしつつ足取りをたどってゆくうちに、ああこれは前川道場にむかっているのだなと見当がついた。あちらこちらで寄り道をし
        ながらの子供の足である。前川家にたどり着く前に、こうして無事に剣路を見つけることができたのだが―――


        「薫殿になかなか甘えられなくて、寂しいでござるか?」
        「けんじ、あかちゃんじゃないから、へいきだもん」
        「・・・・・・拙者は甘えたいでござるがなぁ」
        我が子には聞こえないよう、小さな声でひとりごちる。

        「どこのうちの子になるつもりでござるか?」
        「まえかわどーじょー。まえかわせんせいのでしにしてもらうもん」
        「前川殿のうちの子になったら、薫殿に毎日会えなくなるでござるよ?」
        「・・・・・・それでも、へいきだもん」
        「あー、そうかそうか。会えなくても平気ということは、剣路はもう、薫殿のことが好きじゃないんでござるな?嫌いなんでござるな?」

        頑なな態度を崩さない剣路に、わざと意地悪な問いを投げかける。
        すると剣路は、父親によく似た明るい色の目を怒らせて、きっと剣心を睨みつけた。


        「きらい、ちがう!けんじはかーちゃが、だいすき!」


        まっすぐすぎる返答に、剣心はふわりと頬をほころばせる。

        ずっと、思ってきた。
        薫に好きだと言えるのは、世界で唯一俺ひとりがいいと。
        そんな特別で大切な言葉を、他の男に言わせてたまるものかと。

        想いを告げる前からも、恋人同士になってからも夫婦になってからも、変わらずずっとそう思い続けてきたが―――



        「・・・・・・はじめての、例外でござるなぁ」



        小さくこっそりと、呟く。

        剣路が強くはっきり「だいすき」と言い切ったことが、嫌どころかとても嬉しかった。
        今はまだ喋ることができない弟も、いつか兄そっくりにこの言葉を口にするようになるのだろうか。それを想像すると、更に嬉しくなった。

        「それを言ってあげれば、薫殿、喜ぶでござるよ」
        「・・・・・・かーちゃ、よろこぶ?」
        「ああ、すごく、すごーく、喜ぶでござる」
        しゃがみこんで、同じ目の高さで剣路の顔を覗きこむ。
        「喜んで、きっとにこにこ笑って、剣路のことぎゅーってしてくれるでござるよ。剣路は、薫殿にぎゅーってしてもらうの、好きでござるか?」
        「すきー!」

        ようやく、剣路は笑顔を見せた。剣心は大きく頷いて、小さな身体を高く持ち上げてやる。
        「よし!それでは、帰ってぎゅーっとしてもらおう!」
        肩車をされた剣路は、家出の計画などすっかり頭から消え去ってしまったのだろう。元気な声で「しゅっぱーつ!」と叫ぶと、陣太鼓を打ち鳴らすように父
        親の頭をぽこぽこ叩いた。
        「ああ、こら、痛いでござるよ」


        道端には、一部始終を聞かされていた白い野良犬が残された。
        犬はやれやれやっと静かになったかというように大きくあくびをすると、ふたたび目を閉じて午睡を再開することにした。





        「ところで剣路、拙者のことは?好きでござるか?」
        「とーちゃは、すぐかーちゃのこととるから、きらい」

        ・・・・・・地味に傷つく答えが返ってきた。
        しかしまぁ、嫌いな理由がわかりやすくはっきりしているのは救いであるし、つまり俺は剣路にとって、薫をめぐる好敵手という位置づけなのだろう―――
        と、剣心は前向きに考えることにした。








        ★








        剣路は、自分の父親はいつもにこにこしているが、怒るととても怖いことを知っている。大声で怒鳴りつけられたりはしないが、ひやりとした空気を放ちなが
        ら静かな口調でこんこんと叱ってくるのには、えもいわれぬ迫力があって、怖い。

        そして、自分の母親もいつもにこにこしているが、怒るととても―――本当に、とても怖いことをよく知っている。なんというか単純に、父親以上に凄く怖い。
        普段の優しく快活な様子との落差が激しいせいか、とにかく怖い。それについては父親もやはり、「うん、薫殿は怒るとおっかないでござるからなぁ」と神妙
        に認めているところである。


        そんなわけで―――肩車をされて上機嫌で神谷道場に帰ってきた剣路を迎えたのは、門のところで赤ん坊を抱きながら柳眉を逆立て、仁王立ちをしてい
        る母親の姿だった。
        それを見て、剣路は自分が「すごくおこられることをしてしまった」ことを思い出す。


        「父さんにも母さんにもなんにも言わないで、ひとりで遠くへ行くなんてどういうことなの・・・・・・!」


        いつもは柔らかく優しい響きの、薫の声。しかし、今のように怒っている時の声音は、さして張り上げてもいないのにあたりの空気をびりびりと震わせるよう
        な凄味があって、剣路は耳にしただけでぴしっと身体がすくんで動けなくなってしまう。
        肩車を降ろされて薫の前に立たされた剣路は、おろおろと助けを求めるように父親の顔を見た。剣心はやれやれと笑いつつ、「剣路、薫殿に言いたいこと
        があるんでござろう?」と促してやる。
        その言葉に、剣路はぷるぷる震えながらも気力を振り絞り、怒り心頭となっている母親を見上げた。

        「あのっ・・・・・・けんじ・・・・・・けんじは・・・・・・」
        表情から察するに、「ごめんなさい」と謝罪するのだろうと予想して、薫の目許がわずかにゆるむ。
        「ほら、剣路」と、剣心は我が子の頭にぽんと手を置いた。
        乾いた大きな手のあたたかさに勇気づけられて、剣路は大きく息を吸い込み、大きな声で―――


        「だいすき!」


        薫にしてみれば、完全に虚を突かれた台詞である。目を丸くした母親にむかって、瞳に涙をためて小さなこぶしをきゅっと握りしめた剣路は、もう一度繰り
        返す。



        「けんじは、かーちゃが、だいすき!」



        なんとか「母親の威厳」を保とうとしたが、不可能だった。あっという間に眉間から険しさが消え、薫は降参と言わんばかりに天を仰ぐ。
        「ずるいわー!そんなこと言われたら怒るに怒れないじゃないのー!」

        薫は「ちょっとお願い!」と叫んで抱っこしていた赤ん坊を剣心に預ける。そして、飛びつくようにしゃがんで、剣路をぎゅっと抱きしめた。
        「ごめんなさいー!」
        母親の腕のなかで剣路は素直に謝り、そのままわんわんと泣き出した。その様子をほのぼのと眺めていた剣心は、ふと薫から託された「ちび剣」に視線
        を落とす。
        天下泰平、という風情で健やかに眠るこの子も、いつか兄のように子供ながらも強い意志を持って、その一挙手一投足で両親を困らせたり喜ばせたりす
        るようになるのだろう。

        そうなると、我が家は今より更に賑やかになるのだろうが―――そんな時が訪れるのが、とても楽しみに思えた。








        ★







        「ああもう、反省だわー・・・・・・がっつり叱ってやるつもりだったのに」


        並んで敷かれた小さな布団を横目に、薫はしみじみ嘆息する。そこには幼い我が子たちが眠っているので、嘆き声の音量は控え目だ。
        「剣路だって、ちゃんと反省しているでござるよ。今日はつい、薫殿にかまってもらいたくてあんなことをしてしまったのでござろうが、今に兄である自覚も
        出てくるでござろう」
        「・・・・・・そうね。とりあえず、今日のところは剣路が無事に帰ってきてよかったわ。ありがとう、剣心」
        そう言って身を傾けて、薫は傍らに座る剣心の肩に寄りかかる。黒髪が頬をくすぐる完食に目を細めつつ、剣心は「どういたしまして」と微笑んだ。
        そのままふたりは、身を寄せあって子供たちの寝顔を眺めていたが―――ふと薫が、思い出したように口を開いた。

        「ねえ剣心」
        「うん?」
        「わたしね、剣心以外の男のひとに抱きしめられたり口づけられたりするのなんて、絶対に嫌なのよね」

        その言葉に、剣心はぎょっとして目をむいた。
        「え、何でござるか突然。まさか、そんな真似をしようとした不届者がいたんでござるか」
        奇妙に平坦で抑揚のない口調は、本気で怒っている証拠である。今すぐにでもその相手のところに飛んで行って制裁を加えねば―――とばかりに腰を
        浮かせた良人の袖を、薫はあわてて掴んで引き止める。


        「違うの!そうじゃなくて喩えの話よ!それと同じようにね、剣心以外の人には絶対『好きだ』って言われたくないって・・・・・・ずっとそう思っていたのよ」


        剣心は、はっとして薫の顔を見た。
        「たかが言葉なんだけど・・・・・・なんていうのかしら、抱きしめられたり接吻されたりするのとおんなじで、剣心からしかしてほしくない特別なことなのよね。
        わたしにとっては」



        ずっと、思ってきた。
        薫に好きだと言えるのは、世界で唯一俺ひとりがいいと。
        そんな特別で大切な言葉を、他の男に言わせてたまるものかと。

        想いを告げる前からも、恋人同士になってからも夫婦になってからも、変わらずずっとそう思い続けていて、我ながら独占欲が強いにも程があると呆れ
        ていたものだが―――



        ・・・・・・よかった。
        君も、俺と同じ気持ちでいてくれたんだ。



        「・・・・・・わかるでござるよ。拙者だって、薫殿にしかそういうことはしたくないし、言うのも薫殿だけにでござる」
        薫が同じ想いでいてくれたことが嬉しくて―――だからこそ、自分も同じであることをしっかり伝えねば、と。剣心はここぞとばかりに真剣な面持ちで返答
        する。薫は照れくさげに「ありがとう」と笑みを浮かべて、そして「例外ができちゃったけどね」と続ける。

        「剣路のことでござるか?」
        「そう!嬉しいものね・・・・・・自分の子供から『大好き』って言ってもらえるものって」

        ああ、なるほど。それを言いたいがための、この話の流れだったのか。
        「例外」に関しても想いはまったく同じだったので、剣心はますます嬉しくなる。


        「もう少し経てば、例外がもうひとり増えるでござろうな」
        無論、じきに次男坊が喋れるようになったら、という意味である。すると薫は、娘時代と変わらぬ表情ではにかみながら、「わたしはあとひとりふえたら、も
        っと嬉しいな。女の子も、ほしいもの」と答えた。剣心は妻の顔をまじまじと覗きこみ―――これは言葉にするより行動で応えたほうが早いと判断し、がば
        っと抱きついた。
        きゃあと可愛らしい悲鳴をあげた薫を、傍らの布団へと押し倒す。そのまま口づけようとしたところで、賑やかな気配を感じたのだろうか、剣路がうーんと唸
        って寝返りを打った。
        剣心と薫は、ぴたりと動きを止め子供たちの方を窺う。どうやらふたりとも目覚める様子はないことを確認してから―――額と額をくっつけて、声をひそめ
        てくすくす笑いあった。

        「・・・・・・でも、せっかくの例外だけど、きっと今だけなのよねぇ」
        「え、何がでござるか?」
        「剣路よ。あの子たちから好きって言ってもらえるのは嬉しいけれど、成長して大きくなったら、母親に対してそんなこと言わなくなっちゃうものでしょう?」
        「おろろ、気が早いでござるなぁ」

        剣心は笑ったが、薫がそう思うのも理解できた。きっと剣路ら子供たちはこの先成長してからも、朗らかで優しい母親のことをずっと好きでいることだろう。
        しかしそれを素直に口に出して言ってくれるのは、おそらくは幼い子供の時分だけだろうから。
        けれど―――


        「拙者は・・・・・・拙者だけは、ずっと言い続けるでござるよ」


        敷布に頬を預けながら、薫はすぐそばにある良人の目をじいっと見つめる。
        珊瑚色の唇がふわりとほころんで、剣心しか耳にすることができない、甘えた声が紡がれる。


        「ねぇ、今、言って・・・・・・?」


        何年経っても、幾つになっても、俺はその言葉を君に捧げ続ける。
        この言葉を贈ることを君に許された幸運に、心からの感謝をこめながら。



        「薫が、好きだ」



        わたしも、という囁きを追いかけるかのように、剣心は薫の唇に自分のそれを重ねた。









        「・・・・・・それにしても、ちょっと身の程知らずなこと言っちゃったかしらねー」


        枕の上に散った、剣心の明るい色の髪をつんつんと引っ張りながら、薫は呟くようにそう言った。
        それは剣路が生まれる前から彼女がよくしていた仕草で、剣心が短髪になった今でも変わらない癖のようなものだ。

        「おろ、何のことでござる?」
        「『剣心以外のひとから好きって言われたくない』って、それは本当なんだけどね?そもそも、わたしみたいながさつな女に好きって言ってくれる男性、剣
        心以外にいるわけないわよねー」

        薫は「よかった、剣心がいてくれて」と笑って肩先に頬をすり寄せてくれたが、あまりに的外れな発言に、剣心は絶句する。が、すぐに気を取り直して反証
        を唱えた。
        「いや薫殿、そんなことないでござるよ。例えば、ほら、前川道場の門下生の面々とか・・・・・・」
        剣心の言葉に薫はきょとんとして――― そして一拍おいて、彼の発言を笑いとばす。


        「やだ剣心!そんなことあるわけないじゃない!前川さんのところの門下生はみんな真面目で稽古熱心なひとたちばかりだもの、そんな浮ついたこと考
        えるひとなんていないわよー!」


        一瞬―――本当に一瞬、ささやかながらではあるが、剣心は薫に懸想していた青年たちのことを気の毒に思った。端から見ていても丸わかりだった彼ら
        の恋慕の想いを、当の本人は欠片ほども察していなかったとは。
        しかし、同情の念を抱いたのは刹那のことで、剣心はすぐにその考えを打ち消した。たとえ一方的な恋心でも、それを言語化して告白していないとしても、
        想いが届かないに越したことはないのだから。

        祝言を挙げる直前などは特に、彼らのことを牽制したものだったが、晴れて薫と夫婦となって、数年経って二児をもうけた今だって、当時と想いは変わっ
        ていない。相変わらず妬けるし独占欲は強まるばかりだし、一向に心が広くなる気配はない。
        こんなみっともない俺に、いつか君は愛想を尽かしてしまうのではないかと心配だったが―――



        君が「俺ひとりにしか好きだと言われたくない」と思ってくれているならば、今後も遠慮なくこの姿勢を貫くことにしよう。





        やがて、自分の枕に頭を預けた薫は、すやすやと穏やかな寝息を立てはじめる。
        起こさないように注意深く顔を寄せて、おやすみの代わりにもう一度だけ「・・・・・・好き」と囁くと、眠る薫の唇がかすかにほころんだように見えた。







        これまでも、そしてこれからも。
        君に「好きだ」と言えるのは、未来永劫俺ひとりだけ。











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        モドル。