剣心は興味深そうに薫を見つめる。それは、自分の記憶には残っていない「質問」だ。
薫はたっぷり間を取って、「まずはね・・・・・・」と続けた。
「比古さんに、謝りに行きたい、って」
「師匠に?」
「そうよ。剣心ずーっと、喧嘩別れして飛び出してきた事を気にしていたもの」
「・・・・・・確かに、気にはしていたが」
確かに、当時自分がそんな感情を抱いていたことは覚えている。しかし、実際に師匠のもとを再び訪れることが出来たのは、年号が明治にかわって十一
年になってからだった。
「まぁ・・・・・・いろいろ後ろめたかったからな。謝りたいと思ってはいても、訪ねて行きづらかったのでござるよ」
「剣心、比古さんに怒られるのが怖かったんじゃないの?」
からかうように指摘された剣心は、ぱっと立ち上がると素早く薫に飛びかかった。
「きゃーっ!きゃーっ!苦しいー!」
背中からぎゅうぎゅうと容赦のない力で抱きしめられ、薫は首に回された剣心の腕を叩いて降参の意を示す。
「図星のくせにー・・・・・・」
「だから面白くないんでござるよ」
がぶ、と耳たぶに噛みつかれ、薫がまた悲鳴をあげる。
「ほかには・・・・・・何がしたいと言ったんでござるか?昔の拙者は」
ぴったりと耳に唇を寄せたまま、尋ねる。
薫は剣心の腕を掴んでいた手をぱらりとほどいて、今度は人差し指と中指とを伸ばして「ふたつ」の形をつくる。
「うちの道場に、行ってみたいって」
耳許で、剣心が「え」と空気で紡ぐように呟いたのを感じて、薫は目を閉じた。
「わたしが、どんなところで育ったのか見てみたいって。子供たちに稽古をつけるところも見てみたいって。そして・・・・・・弥彦にお灸を据えてやる、って」
「弥彦に?」
「うん、『減らず口をたたく門下生がいる』って言ったら、剣心怒っちゃって」
「おろ、それは・・・・・・」
今より血の気の多かったあの頃の自分ならば、それは無理からぬ反応だろう。腕の中で薫がくすくす笑い、剣心も口許をゆるめた。
「お灸はともかくとして、それも叶ったでござるな」
「うん、そうね。でも・・・・・・」
薫は目を開けると、もう一本、薬指を立てて「みっつ」の形をつくる。
「あともうひとつは『次に逢ったときに教える』って。剣心、そう言ってたの。でも、次に・・・・・・最後に逢ったとき、それを聞く前に、さよならをしてしまったの」
剣心は、腕をのばして薫の手をとった。指をほどかせて、そのまま優しく包み込む。
「あとひとつ、何がしたかったのか・・・・・・どうしても気になっちゃって。もし剣心の記憶が残っていたなら、今からでも教えてもらえたのにな」
かおる、と小さく囁かれて、振り向いた。
口づけられたから、瞳を閉じた。
永遠に知ることができなくなった、みっつめの願い。
知ることはできなくても―――あなたのその願いが、叶っていればいいな。
リボンがほどかれ髪を掻き乱されるのを感じながら、薫はそう思った。
★
薫は、いつも床に入る前に髪を結う。
緩く三つ編みをつくるのが子供の頃からの習慣になっており、そうしないとなんだか落ち着かないらしい。
結っても、かなりの確率で乱れてしまうのにな。
剣心としてはそう思うのだが、鏡に向かって髪に手を入れる薫の後ろ姿を眺めながら彼女を待つのも、それはそれで好きな時間だった。
「お待たせ」
髪を結い終わった薫が、布団の上に膝をつく。
剣心はいつものように寝間着姿の彼女を抱きしめようとしたが―――何故か、薫はするりとその腕をかわして、剣心の背後にまわった。
「・・・・・・薫?」
怪訝な色の滲んだ声で名を呼んだのは、後ろから目隠しをされたからだ。
小さな白い手でそっと視界を阻まれて、剣心は反射的に目を閉じた。
「かくれんぼ、しましょう?」
歌うように、薫はそう言った。
「え・・・・・・?」
「剣心が鬼ね。十数えたら、捜してちょうだい」
そして、手が離れる。
剣心は、素直に目を閉じたまま、口の端をあげた。
―――なるほど、かくれんぼか。
薫が何を思って突然こんなことを始めたのか、理由は察することができた。
それにしても、かくれんぼをするなんて何年ぶりだろうか。そう思いながら、剣心はゆっくりゆっくり数をかぞえる。
十まで数えて目を開けると、寝室に妻の姿は既にない。剣心は立ち上がると、部屋を出た。
廊下と、居間とを覗いて、客間に向かう。
彼女の気配を感じた。見ると、普段は押入れに仕舞っている客用の布団が、部屋の隅に積み上げられて置いてある。
剣心は、くすりと笑うと、押入れに歩み寄る。
取っ手に指をかけてゆっくりと横に引き、中をのぞきこむと―――長い三つ編みが目に入った。
「・・・・・・見ぃつけた」
声をかけると、膝を抱いてうずくまっている薫が顔を上げた。きらきらとした笑顔がこちらを向く。
押入れの暗がりにいるというのに、そこだけ光が差したようにくっきりと彼女の表情が判るのは、きっとこの、輝くような笑顔の所為だろう。
「見つかっちゃった」
嬉しそうにそう言った薫の腕を掴んで、押入れからぐいっと引っ張り出す。反動で胸の中に倒れこんできた細い身体を、剣心はぎゅっと抱きしめた。
「・・・・・・捕まえた」
わかっている。薫が何を思って突然「かくれんぼ」などを始めたのか。
彼女は、はなから姿を隠すつもりなどなかった。押入れから出した布団をご丁寧に見える場所に置いていたのが、その証拠だ。
俺が、女の子を見つけた男の子を「うらやましい」と言ったから。
その子供じみた発言を受けて、こんな真似をしてくれたのだろう。俺から君のことを「見つける」ために、わざわざ。
ああもう―――どうして君はこんなにも、可愛いことを思いつくんだろうか。
そして、どうしてこんなにも―――泣きたくなるほど、優しいんだろうか。
抱きしめた薫の身体を引きずるようにして、積み上げた客用の布団の前に移動させ、寄りかからせた。そのまま、逃げられないように覆い被さる。
「鬼に捕まったらどうなるのか―――覚悟は、出来ているでござるか?」
華奢な両手首をひとまとめに掴んで、頭の上で布団に押し付ける。白い喉に手をかけると、指に彼女の脈動を感じる。ぐっと首を反らせた姿勢をとらされた
薫は、それでも苦しそうな様子もなく、むしろ微笑んでされるがままになっていた。
「捕まっちゃったら、どうなるの?」
そう尋ねてくる薫の瞳は清らかに澄んで。それこそ、かくれんぼに興じる子供のように、邪気のない綺麗な目で。
「勿論・・・・・・食べられてしまうんでござるよ」
顔を近づけて、低い声で囁いた。
どうぞ、と言うように、薫は目を閉じた。
残さず彼女を味わい尽くすために、まずは噛みつくように口づけた。
3 へ続く。