いつの間にか雲は晴れて、空には白々と月が輝いていた。
月明かりに照らされ、夜道にふたつの影が落ちる。からんころん、と操の下駄が鳴る。
着替え、持ってくるべきだったな、と。操は少し後悔していた。
いつもの服装なら、思いきり足を踏み出して歩ける。いつもの服装なら、少しでも蒼紫の歩調に近づくことができるのに。
普段あの短い丈の着物を着ている理由は、動きやすくて身軽でいられるからだけど―――自分よりずっと背が高い蒼紫と並んですいすい歩きたいか
ら、というのも理由のひとつなのだ。
今は、借り物の着物のせいで歩幅が小さい操に、蒼紫があわせてくれている。
やっぱり蒼紫様は優しいな、と操は思った。
いつもよりゆっくりと、ふたりは歩く。
そして、いつもと違って、ふたりとも口数が少ない。と、言うよりは、いつもは操が一方的に話しかけて、それに蒼紫が短い返事をかえすという感じなの
で―――つまりは、今は操の口数が極端に少ないということだ。
―――だって、何から訊けばいいのかわからないよ。
訊きたいことはいっぱいある。
いつ東京に来たのか、どうして自分があの場所にいたことがわかったのか。そして―――
「・・・・・・髪」
「え?」
沈黙を破ったのは、蒼紫からだった。
「驚いたぞ、いつ切ったんだ」
ああ、と操は納得した。
先程助けられたとき、蒼紫はひどく驚いていた様子だった。あれは、操が斬られたのではないかと思ったのと、もうひとつ、操の髪がばっさり短くなってい
たことに驚いたらしい。
「昨日切ってもらったの。身代わりをする女の子がこういう髪型だっていうから」
「そうか」
簡潔な反応が蒼紫らしくて、操はなんとなく安心する。この髪型に対する感想なども欲しいところだったが、それは贅沢というものだろうな。と思う。
「蒼紫様は・・・・・・いつ東京に来たの?」
今のが会話の糸口になったのを幸いに、操はまずそこから訊いてみる。
「つい先程だ。着いて直ぐ神谷道場に行ったのだが、緋村の嫁に叩き出された」
「は?」
「今から向かえば間に合うから、お前の手助けをしてやれ、と言われてな」
「そっか、薫さんが」
叩き出す、というのは比喩だろうが、おそらく薫はそのくらいの勢いで蒼紫を送り出したのだろう。東京の地理に明るい蒼紫に「作戦」の場所を教えて、急
いで行けば間に合うだろうから、操のもとに駆けつけてやれ―――と。そして、その場に到着した蒼紫は剣心から、操が現在どんな状況におかれている
か説明されて―――
「そっかぁ、それで蒼紫様が来てくれたんだ」
そういう訳なら、さっき緋村を殴り倒したのはちょっとやりすぎだったかなと、操は心の中で反省する。そして、良人の頬が腫れているのを見た薫の反応を
予想し、きっと後から怒られるであろうことを覚悟する。
「じゃあ、どうしてあたしが東京にいるってわかったの?」
「手紙が届いた」
「え」
「緋村から、お前は神谷道場に来ていると手紙があった。事情は聞いていないが、とりあえずしばらく滞在させるから心配するな、と」
「うわ、やだっ! 葵屋に知らせたなんて、緋村も薫さんもひとことも言ってなかったのに!」
しかし思い返してみると、東京に着いて神谷道場に転がりこんだとき、操は「しばらく置いてくれ」と頼みはしたが、「京都のみんなには居場所は知らせな
いでくれ」と釘をさしてはいなかった。いや、そんな口止めをしようがしまいが、剣心と薫ならば葵屋の面々をとりあえず安心させるため連絡を入れるのは
当然かもしれない。あのふたりは操の友人であると同時に、蒼紫や翁の知る辺でもあるのだから。
と、なると。
知らせを聞いて、わざわざ東京まで来てくれたのが、他の誰でもなく蒼紫だったことはとても嬉しい。
だって蒼紫様には今縁談が来ているというのに―――
「・・・・・・って、そーだよっ! 蒼紫様、こんなところまで来てていいのっ?!」
はっとして慌てた声をあげる操に、蒼紫は怪訝そうな顔をする。
「蒼紫様、今縁談が進んでる最中でしょっ! なのに、相手の人を放っておいて長いこと京都を離れたりしちゃ・・・・・・」
もどかしげに続ける操に、蒼紫はああ、と言うように頷いて「それなら問題ない」と言い切った。
「問題ないって、だって!」
「京を発つ前に破談にしておいたから、大丈夫だ」
予想外の一言に、操は絶句した。
★
蒼紫に一目惚れをしたという例の料亭の娘は、両親に「どうしてもあの人がいい」と訴え、娘の両親も「葵屋さんとならば」と乗り気になり、縁談はとんとん
拍子に進むかのように見えた。
設けられた見合いの席でも、娘は蒼紫の端整な容貌と洗練された物腰に終始うっとりと見惚れ―――と、ここまではよかったのだが。
二度三度と会う機会を重ねるうちに、娘は蒼紫の人柄に些か当惑するようになった。つかみどころが無いというか、何を考えているのかわからないという
か―――蒼紫のような人物には彼女はこれまでの人生で会ったことがなく、言葉を交わすたびに戸惑いは増していった。
しかし、そこも彼女は「物静かで謎めいた雰囲気もまた素敵」と、蒼紫の魅力としてとらえることにした。つかみどころのない彼であっても、夫婦になってか
らより理解を深めてゆくのもまた楽しいだろう、と思った。
そこまで前向きだった彼女に「やはりこの話はなかったことに」と言わしめた原因は、「御庭番衆」についての会話だった。
葵屋の面々が京都御庭番衆であることはいわば「公然の秘密」で、隠密といいながらも近隣の者達は彼らの御役目を知っていたし、時には心強い協力者
でもあった。なので彼女も蒼紫の正体については承知しており―――そんな彼女がつれづれに蒼紫に質問をした。
「御庭番衆とは『忍び』のような者と伺いましたが、それならば何か常人と違う術を使ったりもできるのでしょうか?」
彼女の邪気のない質問に、蒼紫は平生の彼らしく淡々と答えた。
「無論、できます」
「あら、例えばどのような?」
「例えば、変化の術とか」
「まぁ凄い! それは是非見てみたいですわ! 四乃森様はどんな姿に変化をできますの?」
「既にしておりますが」
「・・・・・・は?」
「よもや、今のこの顔が生来のものとお思いですか?」
彼女は蒼紫を穴があくほど見つめ、そして、さっと顔色を白く変えた。
★
「その後すぐ、先方から断りの知らせが届いて破談になった」
「って・・・・・・蒼紫様、それって嘘っぱちじゃん!」
「嘘も方便というだろう」
「いや、たしかに、それはそうかもしれないけど、でも・・・・・・」
「あの娘、なかなか諦めようとしなかったからな。あのままではいつまでたっても東京に向かえないと思い、ああ言わざるを得なかった」
その台詞に、操はぴくりと反応する。まじまじと顔をのぞきこまれて、蒼紫は「どうした?」と軽く眉をひそめた。
「諦めようとしなかった・・・・・・って」
それはつまり、彼女に諦めてほしかった、ということでは?
と、いうことは。
「ひょっとして・・・・・・蒼紫様、最初からこの縁談乗り気じゃなかったの?!」
「当たり前だろう」
勢い込んで尋ねた操に対し、蒼紫の返事はあっさりしたものだった。驚きに言葉を失う操に、蒼紫は補足するかのように続ける。
「店同士の付き合いもあるから、一方的に断って角が立つような真似は避けたかったからな。何をせずとも向こうから音をあげるとは思っていたが、どうも
時間がかかりそうだったから、あのように言う事にした」
効果は絶大だったな、と結ぶ蒼紫に、操はようやく固まったままの口を動かした。
「・・・・・・最初から、乗り気じゃなかったんだ・・・・・・」
あたしは、それが原因で家出してきたというのに。
京都から逃げ出さずにはいられないほど、あんなに苦しかったというのに―――
操は足を止めて呆然と呟く。操のそんな反応が意外だったのか、蒼紫はほんの僅かだが眉を動かした。
「乗り気だと思っていたのか?」
「だっ・・・・・・て! 蒼紫様あっさりお見合いに応じたから!向こうの反応もよかったっていうし、だから!」
「それは、言ったとおり、後々わだかまりを残すことがないよう―――」
「だったら! 最初からちゃんとそう言ってよ!」
急激に昂ぶった感情を抑えられず、操は泣きそうな声で叫んだ。
蒼紫相手にこんな声を出すのは、まだ彼に対しての想いを恋と気づく以前の―――子供の頃以来かもしれない。
「あたし、蒼紫様があの娘のこと好きになっちゃって、夫婦になるんじゃないかって、思って・・・・・・だから、あたしは・・・・・・」
ぐっと唇を噛みしめて、睨みつけるように蒼紫を見上げる。幾許かの沈黙の後、蒼紫は「すまなかった」と言った。
そんなふうに彼から謝罪をされるのもまた、滅多にない事だったが、操はそれを意識する余裕もないまま次の蒼紫の言葉を待った。
「お前のことだから、全部言わなくても解っていると思っていた」
「・・・・・・蒼紫様のことなら全部お見通し、って言いたいところだけど・・・・・・蒼紫様のことだからこそ、わからなくなっちゃうこともあるんだよ」
「・・・・・・そうか」
蒼紫はゆっくりと頷くと、もう一度「すまなかった」と謝った。
操はそこでようやく、自分が「蒼紫様に謝られる」という貴重な体験をしていることに気づき―――ふっと、力が抜けたように笑みをこぼした。
「手紙で居場所がわかったから、連れ戻しに来てくれたんだ」
「ああ」
「そのために、嘘ついて縁談を破談にして?」
「まぁ、そうなる」
「・・・・・・そっか」
連れ戻しに、来てくれたんだ。
わざわざ、こんなに遠い、東京まで。
いつもいつも、あなたの背中を追いかけていたけれど、あなたからこんなふうに追いかけてきてくれたのは、初めてだ。
・・・・・・どうしよう、今まで混乱していたから、その事実にすら気づかないでいた。
どうしよう、気づいてしまったらもう・・・・・・ちょっとこれは、やばいかもしれない。
「操?」
「な、なんでもないっ!」
急にこみ上げてきた涙を慌てたように手の甲で拭い、操は早足に歩き出した。歩調を合わせて、蒼紫がそれに続く。
月明かりが清かな夜道に、下駄の音が響く。
気がつくと、道場の門がもうすぐそこに見えていた。ふたりきりで歩けるのは、あと少し。
―――言わなくても、あたしは全部を理解していると思っていた蒼紫様。
でも、この度のあたしにはそんな余裕は全然なくて、挙句に家出までしてしまった。
そうだ、それと同じことだ。
あたしもちゃんと、口に出して言わなきゃ、伝わらないんだ。
操は、自分で自分の頬を軽く叩いて、深呼吸をする。
泣き出してしまいそうにたかぶった気持ちを、静かに静かに落ち着けて。
「・・・・・・蒼紫様、さっき、助けてくれてありがとう」
「ああ」
「それに、東京まで迎えに来てくれてありがとう」
「ああ」
「あたしだったら、もし蒼紫様の顔が化けてるものだったとしても、平気かなぁ」
「・・・・・・何の話だ?」
急に違う方向へと話が飛んで、蒼紫は怪訝そうに操に問う。しかし操はお構いなしに続けた。
「っていうか、ずーっと前から一緒にいたのに、ひょっとしたらきちんと言ったことはなかったもかも」
「だから何の話を・・・・・・」
たん、と小さく飛び跳ねるようにして蒼紫の少し先へと歩を進ませ、操はくるりと振り向いた。
それは、子供の頃には、何度となく口にした言葉だったけれど。
そんな事、彼はとっくの昔に承知していることだろうけれど。
でも、構うものか。ちゃんと改めて、口に出して言うことに意味があるんだ。
あたしも変わるって、決めたんだから。
「・・・・・・蒼紫様、好きだよ」
短くなった操の髪が、ふわりと揺れた。
月明かりの下でそう言った操は、何故だか初めて出会った知らない少女のように見えて、蒼紫は目を細めた。
道場の門から提灯を下げた薫がひょいと顔を出し、「おかえりなさーい」と言った。
操は蒼紫にむかってにこっと笑ってみせてから、回れ右をする。
「たっだいまー!」
元気な声で答えて、操は薫のもとへと駆け出した。
10 「会話二景」 へ続く。