10 会話二景







        操と蒼紫が道場に戻った後、程なくして剣心も帰宅した。
        警察署で冷やしてきたものの殴られた左頬はまだしっかり腫れており、当然薫はそれを見咎めて、操はがっつり叱られた。

        その後、風呂からあがった頃には夜もすっかり更けており、操は飛び込むようにして疲れた身体を布団の上へと投げ出した。
        東京に到着した日もこんな感じだったな、と、操はすっかり肌になじんでしまった客用の布団の柔らかさを感じながら、ひとり微笑んだ。



        急速に、目蓋が重くなる。
        同じ屋根の下に蒼紫様がいるのは久しぶりだなぁと思いながら、操は眠りに落ちていった。






        ★






        翌日、操が身代わりをした娘・桜が道場を訪ねてきた。


        「どうしても、直接お礼を言いたくて」と畳に手をつく桜は、なるほど背格好に体つきが操にそっくりだった。操が髪を切った今、確かに後ろ姿だけではどち
        らがどちらか判別がつかないだろう。
        「漸くこれからは、安心して外を歩くことができます。本当に・・・・・・ありがとうございました!」

        昨夜は「あんな男に臆してしまった」「結局、奴を倒したのは蒼紫様で、あたしはただ助けられただけだ(それはそれで嬉しかったりもするけれど)」と、少な
        からずへこんでいた操だったが―――感謝の言葉を繰り返す桜の顔を見ていると、やはり身代わりを引き受けて正解だったなと感じた。
        格好良く敵をやっつけることはできなかったけど、結果として桜はこうして「安心」を手に入れたのだから。
        彼女の役に立ててよかったと、操は心からそう思った。

        そして桜は「気に入っていただけるか、わかりませんが」と言って、菓子折りと一緒に風呂敷包みを差し出した。
        桜の通っている「習い事」はお針の稽古ということで、包みを開くと彼女が仕立てた夏着物がきちんと畳まれて収まっていた。
        鮮やかな青い朝顔の柄に、操は思わず目を輝かせた。








        「どうかな? 後ろおかしくないかな?」
        「大丈夫大丈夫・・・・・・うわぁ、ほんと丈も袖も操ちゃんにぴったりねぇ」

        その着物は、もともと桜が自分用に仕立てていたものらしい。しかし、この度の「作戦」について警察から聞かされた桜は、「せめて、危険な身代わりを引
        き受けてくれたひとへのお礼になれば」と思い、昨夜寝ないでその着物を仕上げたのだった。
        桜が道場を辞してから、操は早速贈られた着物に袖を通してみた。生成り色の地に大きな朝顔が散らされた柄は、あつらえたように操に似合っていた。


        「いいのかなぁ、こんな可愛いの貰っちゃって」
        「桜さん、気持ちですって言ってたじゃない。そのくらい、操ちゃんが助けてくれたことが嬉しかったのよ。それに、きっとすぐに新しいのにとりかかるでしょう
        し・・・・・・針仕事は縫えば縫うほど上達するんだから」
        「んー、じゃあ、あたしも少しは上達したのかな」
        首をひねった操に、薫は笑った。操はこの度道場に滞在している間、薫が着古した浴衣をほどいてお腹の子のための襁褓を作っているのを見て、「面白そ
        う、やってみたい!」と手伝ったりもしていたのだ。

        「帯はこれが合うと思わない? ほら」
        「わ! いいかも! 貸して貸してー!」
        薫の手を借りながら藍色の帯を締めつつ、操は「あたしもこれからは、こういう格好するようにしようかなぁ」と呟いた。


        「足って、普段隠しておいたほうが、いざって時にありがたみがあるものなのかな?」
        「あら、さらっと凄いこと言うわねー」
        「でも、あたしの場合今更かぁ。蒼紫様、あたしの足なんて見慣れてるだろうし」
        「だったら尚のこと、意外性が生まれていいじゃない」
        「そっか、けど歩きづらいのが難点だよね・・・・・・」
        「だったら、袴にするとかは?」
        「あ、それいいかも! 京都に戻ったら試してみる!」






        ★






        女ふたりがきゃあきゃあと喋りながら着替えをしているのを、男ふたりは茶の用意をしながら待っていた。


        「お、葛餅でござるな。これは涼しげだ」
        「・・・・・・この度は、操が迷惑をかけた」
        「いや、迷惑どころかむしろ薫殿が喜んでいたでござるよ。竹刀が持てないとどうにも退屈なようで、話し相手になってくれてよかったでござる」
        桜がくれた折から葛餅を小皿に取り分けながら、剣心が答えた。
        「しかし、それにしても長居をしてしまったからな。明日には出立することにしよう」
        「うちは全然構わぬが・・・・・・縁談は馬鹿げた嘘をついてまでして破談にしたのでござろう? ならば、慌てて帰ることもなかろう」
        「おい、何故お前がそれを知っている」
        「おろ?」

        剣心は、手元の菓子折りから顔をあげる。表情の変化が判りづらい蒼紫であるが、剣心の目から見ても、今の彼は顔が強張っているのがわかった。
        「操殿が薫殿に喋って、拙者はそれを薫殿から聞いた」
        「・・・・・・」
        蒼紫が久々に会った操に、破談の件を伝えたのは昨夜のことである。それから、まだ半日くらいしか経っていないのだが―――

        「よけいな世話と承知で言うが、いつも何も言わないでも操殿は全部わかってくれると思っていたら、大間違いでござるよ。今回の家出は何事もなく東京ま
        で来られたからよかったが、操殿もあれで一応若い娘なのだから―――」
        「待て、そんな事まで伝わっているのか?」
        忠告を遮られた剣心は、珍しく狼狽しているらしい様子の蒼紫を見て、些か人の悪い笑みを浮かべた。
        「色恋の話に関しての、御婦人方の伝達の素早さといったらないからな」
        「俺と操はそういう間柄ではない」
        「・・・・・・いつまでもそう言っていられないのは、おぬしも判っているだろうに」

        きっぱりと言い切った蒼紫に、剣心はこれ見よがしというふうにため息をついた。
        縁側に吹き込んできた風が、ちりん、と風鈴を涼やかに鳴らした。


        「いつまでも、操殿に甘えていてはいかんよ」


        もし傍らで彼らの話を聞いている者がいたとしたら、剣心の今の発言は奇妙なものと受け止められたに違いない。
        傍から見れば蒼紫に甘えているのが操で、蒼紫こそが頼られ甘えられる側であろう。
        しかし、剣心は大真面目だったし、蒼紫も彼の言わんとしていることを理解していた。今度は遮られることもなく、剣心は話を続ける。
        「何も言わなくても、傍にいてくれるのが当たり前になってしまうと、それがどれだけ特別なことであるのかを忘れてしまう―――拙者も、そうだったが」
        その頃の事を思い出してか、剣心は苦く笑った。

        それは、薫と夫婦になるずっと前のことだ。あの頃の自分は、何も言わなくても薫はいつも傍にいてくれると信じこんでいた。
        引き止めてくれたのも薫だったし、追いかけてきてくれたのも薫からだった。ずっと一緒にいたいと言ってくれたのも、やはり薫から。
        まっすぐに注がれる眼差しの心地よさに、甘えるだけ甘えていた。彼女が寄せてくれる親愛の情に、すっかり安心しきっていた。
        「与えられるという立場に、甘えていたのでござるな。拙者からは、何もしていなかったし何も言っていなかった。薫殿を繋ぎとめるようなことは、何ひとつ」


        そして、薫はいなくなってしまった。
        最悪の形で、自分は彼女を失った。


        結局、薫の死は手の込んだ狂言だったわけだが―――
        あの一件で剣心は今度こそ、「愛する人が隣にいてくれる日常」が如何に得難いものなのかを、骨身に染みて思い知らされた。

        そして、それまでの怠慢を猛省した。
        これからは薫と一緒に居られるために、出来ることをすべてしようと思った。
        伝えるべき気持ちは、ためらわず言葉で伝えようと思った。薫が、そうしてくれたように。



        「操殿がどれだけ根気強くとも、おぬしから繋ぎとめようとせねば、いつか愛想も尽かされよう。事実、今回はそれを苦に操殿は家出をしたのだし」
        「・・・・・・だから、こうして迎えに来ているだろう」
        「うん、それは、おぬしにすれば上出来だ」
        剣心は四人分の湯呑に冷えた麦湯を注ぎながら、からかうように「評価」をくだす。剣心としてはこの度操にさんざん蹴飛ばされたり殴られたりの八つ当た
        りをされたわけだから、ここで蒼紫に説教のひとつでも垂れて溜飲を下げておきたかったのだ。それこそ、蒼紫にとってはお門違いなのだが。

        「しかし、重ねて言うが俺と操はお前たちとは違う。俺は操がほんの子供のうちから面倒をみていたのだから、今更そういう―――」
        「年頃になれば、女子は変わるものでござろう? それこそ、子供の頃とは別人と言ってもいいくらいに。現に・・・・・・」
        と、近づいてきたふたつの足音に、剣心は言葉を止めた。
        軽やかな足音とともに姿を現したのは、桜の仕立てた夏物を身につけた操だった。


        「ねぇねぇ、どうかな? ほら、ぴったりでしょ」


        朝顔柄の夏着物に、深みのある藍の帯をしめて。
        大きな花柄は、まるで操に着られるのを待っていたかのように、彼女のもつ明るい雰囲気に馴染んでいた。
        「うん、似合っているでござるな」
        世辞でもなく、実際それは操によく似合っていたので剣心は素直に感想を述べる。そして蒼紫は例によって例のごとく表情を動かしはしなかったが、一言
        「・・・・・・そうだな」と短く同意した。それでも、操はその言葉だけで満足したらしく、遅れて居間に入ってきた薫と顔を見合わせて―――ふたりで目をきら
        きらさせながら、嬉しそうに忙しく頷きあった。


        「葛餅をいただいたでござるよ、麦湯が冷たいうちにいただこう」
        「うん、ありがとう緋村―――えっと、それで、ちょっと蒼紫様にお願いがあるんだけれど」
        操はぎこちなく裾をさばきながら腰をおろすと、おずおずと切り出した。
        「今ね、こっちで朝顔市が立っていて、明日が最終日なんだ。で、京都に帰る前に、見に行きたいなと思っていて・・・・・・」
        操の頼りなげな視線を受けて、蒼紫はわずかな間考えているふうだったが―――

        「わかった。出立は明後日に延びるが、それでもいいな」
        「・・・・・・ありがとう!」
        操は顔を真っ赤にして、何度も首を縦に振った。
        ふたりのやりとりを眺めていた剣心と薫は、目と目を合わせて、よく似た表情で柔らかく笑った。






        ★






        翌日、操と蒼紫は剣心と薫に送り出されて朝顔市へと出かけた。
        出掛けに蒼紫がぼそりと「・・・・・・二人でか?」と呟いたので、剣心は小さな声で「当たり前でござろう」と言い、刀の柄尻で蒼紫の腰を小突いてやった。

        「まぁ、それでも文句を言わず出かけて行ったのだから良しとするか・・・・・・」
        ふたりを見送った後、やれやれというように息をついた剣心に薫はくすりと笑みをこぼした。
        「来年は、わたしたちも一緒に行きましょうね」
        「うん。来年は三人で、でござるな」
        薫は大きく頷いて、大きなお腹をいとおしげに撫でた。






        ふたりで訪れた朝顔市。折角だからと、操が身につけているのはいつもの普段着ではなく、桜の仕立てた朝顔柄の着物である。
        いつもより小さい操の歩幅に合わせて、今日もまた、蒼紫はゆっくりと歩いてくれた。

        操にとっては、この度の滞在で朝顔市に来たのは二回目だったが―――
        蒼紫と眺める花たちの色は、なんだか前に見た時よりも数倍鮮やかに映った。















       
 11 「新しい目標」へ 続く。