8 落着、そして。










        蒼紫は気絶した男をぶら下げたまま、まじまじと操の顔を見下ろした。
        その鞘で男の背を殴りつけたのだろう、片手には小太刀が握られている。

        操は突然現れた蒼紫に混乱しながら、立ち上がる。
        そして、「どうして蒼紫様はこんなに驚いているんだろう」と思った。


        蒼紫は極端に表情の変化が乏しい男である。しかし操は、たとえば少しの瞳の変化や纏う雰囲気から、彼の感情を読み取るのが得意だった。操の目に
        は、今の蒼紫は彼にしては珍しいことに―――ひどく驚いているように映った。
        ぽい、と蒼紫は男を無造作に放り捨てた。痩せた身体は道なりにあった土塀にぶつかり、地面にのびたまま動かなくなる。


        「・・・・・・ひゃっ!」
        何も言わずに伸びてきた蒼紫の手が操の顎にかかり、くい、と上を向かされる。

        ―――や、やっぱりこれは夢か幻か走馬灯だ!
        だって蒼紫様がこんないきなり、あたしにこんなことするはずが―――

        「・・・・・・斬られたのか?」
        ますます混乱した操は、その一言で我に返る。そして蒼紫が驚いていた理由も理解する。
        操の顔半分と首筋、着物の胸元は、べっとりついた血で真っ赤に染められていた。それは一見すると、操が負傷して流血しているように見える。
        「あっ、違うの! これは全部あいつの血で―――大丈夫だよ、あたしは無傷だから」
        「そうか」
        蒼紫の表情が、ほんの僅かにだが、揺れた。操の説明と、その口調が思いのほかしっかりしていたことに安心したのか、顎から手を離し―――その
        手を、ぽん、と操の頭に乗せた。



        「怪我がなくて、何よりだ」



        大きな、手のひら。
        それを感じて操はようやく、今目の前に立っているのは夢でも幻でもなく、本当に蒼紫その人なのだということを実感した。
        そして改めて―――自分が助かったという事も、認識する。


        「・・・・・・あれ?」
        急速に、操の視界がぼやけた。
        頬を暖かな何かが、滑り落ちる。

        「あ、あれ?・・・・・・おかしいな、どうして、こんな・・・・・・」
        突然、ぽろぽろと瞳から零れだした涙に、操は困惑する。慌てて手の甲で拭ったが、涙はあとからあとから溢れて止まる気配がなかった。血と涙とで頬が
        まだらになるのが恥ずかしくて、操は蒼紫から顔を隠そうとして下を向く。と、地面を見下ろす操の視界に、すっと蒼紫のつま先が映りこんだ。旅ごしらえ
        の、土と草の染みに汚れたそれが、操の下駄に僅かに触れる。


        おずおずと顔を上げると、すぐ目の前に、蒼紫の胸があった。
        一瞬ためらった後、操は少しだけ身体を傾けるようにして、蒼紫の胸に額を預ける。
        蒼紫の手が、操の両肩に乗せられた。

        「あの男はまともな敵ではなかった。お前が恥じることは何もない」
        その言葉に、操は目を見開いた。そしてようやく、何故こんなに泣けて泣けて仕方がないのか、その理由を理解する。


        ・・・・・・世が世なら、あたしはくの一として蒼紫様の右腕になる筈だった。
        今の、明治の治世でだって、蒼紫様の御庭番衆の名に恥じない女でいようと思っていた。
        ただ好きな人に寄りかかっているだけではない、自分の身は自分で守れる女でいなくては、と。

        だから、あんな男に怯んだなんて認めたくなかった。「このままじゃ殺されるかも」と感じたときでさえ、怖いと感じるのは恥だと思った。
        だから―――本当は怖かったくせに、怖がっていることを認めたくなかった。怯えている自分に気づいていないフリをしていた。


        そんな、自分で自分の中に封じ込めていた恐怖が、蒼紫の顔を見た途端に溢れ出てきて。
        それに被さるように、懐かしい手の感触と彼の言葉に、一気に安堵感が押し寄せて―――




        「・・・・・・っく」
        そして何より、蒼紫がそこにいることで、胸がいっぱいになってしまった。
        何故、東京にいるのか。どうして此処に現れたのかはわからない。わからないけれど、この暖かさは本物の蒼紫様だ。



        「っあ、う・・・・・・うわぁぁぁぁぁぁぁぁん!」



        会いたかった。ずっとずっと。
        自分から逃げ出したのだったけれど、傍にいられないことが寂しくてたまらなかった。
        操は蒼紫の胸に顔をうずめ、ひとしきり声をあげて泣いた。




        こんなの、子供のとき以来だなぁと頭の隅でぼんやり考えながら。








        ★








        操の涙がようやくおさまったころ、救援の警察官がふたりのもとに駆けつけた。


        蒼紫から離れた操は、自分の着物の裾が乱れて膝下が覗いているのに気づき、あわてて直して脚を隠す。いつもはおおっぴらに足をむき出しにしている
        というのに、服装が変わると羞恥心の度合いも変わるものなんだな、と、自分の事ながら操は妙な具合に納得した。

        蒼紫にのされた変質者はあっさりお縄になった。目潰しをくらって殴りつけられた警官たちはいずれも軽傷だったそうで、全員無事に救出されていた。
        そして、後から駆けつけた警官に「怪我はないとの事ですが、ひとまずは・・・・・・」と促されて、操と蒼紫は警察署に向かうことになった。すでに遅い時間だ
        ったが、「囮作戦」で思いがけず怪我人などが出た所為か、署内にはまだ多く人が残っていた。
        ふたりは応接室に通されたが、操はまず水を貸してもらうことにして、乾いて顔にこびりついた血を洗い流した。人心地ついてから蒼紫のもとに戻ると、そ
        こには署長と、もうひとり見知った顔も待っていた。


        「おろ、操殿。怪我がなくてよかったでござるなぁ」
        呑気に笑う剣心にそう言われるなり、操は無言で彼にむかって突進し、かたく握った拳を顔に叩き込んだ。

        「何のほほんとほざいてるのよこの薄情者がぁぁぁっ!」
        普段の操なら怪鳥蹴りを見舞わせるところだが、格好が格好なのでそれは諦めた。しかし、怒りをたっぷり込めた拳の威力は充分すぎる程で、剣心はも
        のの見事に後ろにひっくり返る。操はそれだけでは許さず、仰向けになった剣心の胸のあたりに膝から飛び乗って、襟元をぎりぎりと締め上げた。


        「なぁにが『拙者も立ち会うから』だっ! 薫さんの前でだけいいとこ見せようと思って大見得切ったのはこの口かぁぁぁっ!」
        「ちょ、苦しっ、誤解でござるっ! ちゃんと現場にいたでござるよ!」
        「適当なこと言うなぁっ!」
        「痛たたたたっ! いやだからっ、拙者のかわりに蒼紫が駆けつけたでござろう?!」
        「・・・・・・は?」
        「緋村の言うとおりだ、弁明させてやれ」

        膝で踏みつけながら頬をぐいぐいつねって引っぱっていた操は、蒼紫の一言で大人しく剣心の上から退いた。「応対に差がありすぎる」とぶつくさ言いなが
        ら身を起こす剣心に、操は「そっちだって似たようなもんじゃん」と舌を出してやった。言うまでもなく、薫との扱いの差についての事だが、そこに言及してい
        たらいつまで経っても話が進まないと思った剣心は、無視をして説明を始めることにした。




        実際、剣心は最初から護衛の警官たちとともに身を隠してはいたのだ。が、いざ操が出発する段になって、後ろから肩を叩かれた。
        振り向くと、そこにいたのは―――蒼紫だった。

        「何か変事が起こったとしたら、その時助けに登場するのは拙者より蒼紫が適役でござろう? 操殿にとってはな」
        剣心は突然現れた蒼紫に「囮作戦」と現在の状況について手短に説明し―――そうこうしているうちに例の変質者の替え玉と、本物とが現れた。目潰し
        であたりが騒然となるなか、剣心は倒された警官たちを救けて増援を呼びに走り、蒼紫は連れ去られた操を追って―――そして、操に襲いかかった男を
        倒した、というわけだった。

        剣心は喋りながら何の気なしに操に殴られた頬に手をやって、顔をしかめてその指を引っこめる。これは腫れてしまうかな、と小さくため息をついた。


        「まったく、あそこまで異常な奴だったとは・・・・・・我々も楽観視しておりました、危ない目に遭わせてしまい巻町さんには申し訳ありません」
        署長に頭を下げられ、操はぶんぶんと両手を顔の前で振り「いやいやいや、やめてくださいっ! そんなあたし結局何もできなかったし!」と恐縮する。
        「いいえ、しっかり身代わりをつとめていただきましたよ。巻町さんが引き受けてくれたおかげで、犯人を逮捕することができたのですから」

        護衛の警察官に危害を加え、操に対しては殺意をもって襲いかかっている。証言と証人も充分であるし、さすがに今回は言い逃れる術はないだろう。
        今回の件に関しては署内でも、たかだか色恋のつきまといに人員を割くのはいかがなものかという声もあったのだが―――犯人の異常性からいって、放
        っておけば事態はもっと悪い方へ進んでいただろう。最悪の場合、つきまといに遭っていた少女が、あの男の狂気によって殺されていたかもしれない。
        どう考えても、彼の愛情の形はまともな人間のそれとは違っていた。


        「とにかく、ご協力誠に感謝いたします。すっかり遅くなってしまいましたね、今日はもう帰られても結構ですよ」
        と、言われたものの、操はまだ説明が足りないと訴えるようにちらりと蒼紫の方に目をやった。

        「あの、ってゆーか・・・・・・どうして蒼紫様が東京にいるのか、まだ聞いてないんだけど」
        「それは道々本人に聞けばよかろう、拙者はもう少し残ってすることがあるゆえ、操殿と蒼紫は先にふたりで帰るとよい」
        操は剣心の顔を見て、そして再び蒼紫にもの問いげな視線を送る。
        蒼紫は「では、そうさせてもらおう」と操を促した。








        剣心はふたりが応接室を後にするのを見送ってから、さてと、と息をついた。
        「手ぬぐいを絞ったのを持ってこさせましょうか。少し冷やしているうちにちょうどよい時間になるでしょう」
        「かたじけない、ではお言葉に甘えさせていただくでござる」

        実のところ、剣心に署に残る用などなかった。先程ああ言ったのは、操と蒼紫にふたりきりの時間をつくるための方便である。署長もそれを察して、何も言
        わずにいてくれた。



        「さて、何を話すのやら・・・・・・」
        程なく運ばれてきた冷たい手ぬぐいを殴られた頬にあてながら、剣心はひとりごちた。














        9 「帰り道」へ 続く。