7 囮作戦









        頼りない月明かりが、操の足元に輪郭のぼやけた影を落とす。
        「囮作戦」の夜である。




        日が落ちてから随分経つのに、空気はまだ昼間の熱を孕んでいる。だまって立っているだけでもじわりと汗が浮かんできそうだ。
        湿気を含んだぬるい風が髪を揺らし、操は不快そうに首を一振りした。

        「・・・・・・ああ、また陰っちゃった」
        夜空にはまだらに雲が散らばっていた。先程から月は雲間から顔を出したり隠したりの繰り返しで、なんとも落ち着かない。幾度めかに訪れた闇に目を慣
        らしながら、操は「でも、暗い方が都合がいいのかな」と思った。
        そのほうが例の「変質者」も騙されてくれやすいだろうから。この暗さと、自分のものではない借り物の着物が、上手く敵を欺いてくれるに違いない。



        「時間です、どうぞ」
        少し離れた生垣から声がした。護衛の警官のひとりである。
        操は頷いて、小さくひとつ息を吸う。からん、と下駄を鳴らして、狙われている娘が通う習い事の師匠の家の、門を出た。

        人通りの無い夜道へと、足を踏み出す。いや、人がいないように見せかけているが、実際は五人ほどの巡査がそこかしこに身を隠し、注意を払っていた。
        一定の速さで、操は歩く。からんころん、と、一見無人の夜道に足音が響く。
        いつもと違い、足首までの長い丈の着物を着ているから若干勝手が違う。やっぱりいつもの格好のほうが歩きやすいし闘いやすいよなぁとは思うのだが、
        そこは我慢するしかない。

        今晩、奴が動くかどうかはわからない。けれど向こうが常に娘の動向を把握しているのなら、この瞬間は奴にとって「好機」なはずだ。
        きっと来るに違いない。いつ来るか、いつ来るかと注意をはらいながら一町ほど歩いたところで―――空気が嫌な感じにざわめいた。



        誰かがいる。近づいてくる気配がする。
        操は歩調を変えず、その「誰か」の存在に気づいていないふりをして歩き続け―――

        肩に、手がかかった。
        操は心の中で「来たぁっ!」と叫ぶ。



        すぐにでも「とっ捕まえて懲らしめたい」という衝動を抑えつつ、操は首を回して振り向こうとした。
        しかし、その動作を完了する前に、背後から伸びた武骨な手が口を塞いだ。もう一本の手も動きを封じるように、操の細い腕ごと背中から抱きしめて拘束
        しようとする。
        が、男の優位はそこまでだった。
        操は慌てず騒がず、的確に狙いを定め、男の鳩尾に肘を叩き込む。

        「ぐっ・・・・・・!」
        錐を突き刺すような鋭い肘鉄に、男の腕が緩み力が抜ける。その瞬間を逃さず、操は身体を捻って男の襟首を掴んで―――

        「はぁぁぁぁっ!」
        肩を支点にし、背負い投げの要領で投げ飛ばす。
        どしゃ、と。重たげな音をたてて男の身体が地に叩きつけられる。


        操が肩でひとつ大きく息をつくのと同時に、潜んでいた警官たちがわらわらと姿を現した。
        「よし、現場は押さえたぞ! 観念して縄につけ!」
        警官たちは倒れた男に群がり、素早く拘束する。操は、男がたいした抵抗もせず、あっさりと縄と手錠を受け入れる様子を眺めながら、「ずいぶんとあっけ
        ないなぁ」といささか拍子抜けする思いでいた。
        署長の話を聞く限り、かなり偏執的な男だと思っていたのだが。しかし、大抵の人間はこんな荒事には慣れていないものだろうから、こういう痛い目に遭っ
        てしまえば案外こんなものなのかもしれない。

        何にせよ、成功してよかった。
        そう思ったところで―――悲鳴があがった。


        一瞬、その悲鳴が誰のものなのか判らなかった。捕らえられた犯人があげたのか、いや―――
        「みんな! 伏せてっ!」
        悲鳴が警官のものと判るや否や、操は一声叫んだ。袂で顔を覆いながら、自分も素早く身を低くする。
        叫び声は更に続いた。警官達が、次々に目を押さえてうずくまる。



        ―――やられた。
        なんてこと、目潰しだ。



        悲鳴に重なって、かしゃ、かしゃ、と軽い音が聞こえた。
        取り押さえられた「犯人」がやったのではない。目潰しは、誰かが別の場所から投げている。
        この音―――玉子の殻に、灰や唐辛子を仕込んだものだろうか。あれは素人でも簡単に作れて、しかも確実に効果のある目潰しだ。
        そんな事を考えた刹那、もっと重い、嫌な音と叫び声が響いた。硬いもので人間を殴りつけたような音だ。

        「・・・・・・きゃぁっ!」
        目潰しを防ぐために道にうずくまって身を小さくしていた操は、何者かに引き起こされた。それに続く浮遊感に、思わず悲鳴をあげる。
        月が翳っているため判然としないが、操の小柄な身体を抱き上げたのは若い男のようだ。
        「あはははは! よかったよかった、やっと捕まえたぁ!」
        けたたましい笑い声が、操の耳を叩く。
        目潰しで不意をつき、更には警官たちを殴りつけて沈黙させた男は、操を抱くと迷いなく夜道を走り出した。


        「あはははは、あんなふうに警護がついているなんて、桜ちゃんお姫様みたいだねぇ。まぁ、てんで役にたたなかったみたいだけど。情けないぁ」
        桜、というのは操が身代わりになった娘の名前だ。と、いうことはこの男が、つきまといをしている変質者ということか。しかし、それでは先程操に手をか
        け、お縄になった男は―――?
        「なんか嫌な予感がしたからね、うちの下男に手を貸してもらったんだよ。そうしたらあのとおり、警護の奴等もあっさり騙されてくれたねー。うーんよかった
        よかった、用心して正解だった!」
 
        尋ねるまでもなく、男はたった今のからくりを自ら明かす。
        つまり、先程捕まえた男は、囮。
        敵も、同じく身代わりを立てていたのだ。


        「でもでも、もう邪魔をする奴等はいないからね。僕の家に招待してあげる、これからはずっとずっとふたりっきりだよー、あははははは!」
        神経に障る声で、男が笑う。操を抱く腕は男性にしては細い部類で、体格も華奢なようだ。しかし、一体どこにそんな体力があるのか、操を抱きかかえな
        がら走るスピードはどんどん加速してゆき、息切れする様子もない。

        操は、ぞっとした。
        今まで、危険な場面に出くわしたことは何度もあった。
        蒼紫を捜すのに家出を繰り返していた頃は、しょっちゅう柄の悪いごろつきや追い剥ぎめいたチンピラに絡まれたりもしたが、その度に撃退してきたし怖い
        と感じたこともなかった。鎌足のような手強い相手と正面から闘ったこともあったが、信念を懸けて互いに力を尽くす事に、恐れは何も感じなかった。


        でも、この男は違う。
        今まで操が対峙してきた敵とは、本質的に何かが違う。

        得体の知れない恐怖が、操の中で頭をもたげる。
        いけない、このままこいつの好きにさせては―――


        操はすっと右手を着物の袷に滑り込ませた。念のため、と思い胸に一本忍ばせていたクナイを握る。
        「っ、痛ぁぁぁぁぁぁっ!」
        切先が男の肩を横に走った。調子の外れた叫び声が上がるのと同時に、腕の力が緩む。操は男の胸に、どん、と手を突き反動をつけるようにして、腕の
        中から飛び降りた。
        「い、痛いなぁ、びっくりしたなぁ。うわ、血が出てるじゃないかぁ」
        男は肩を押さえながら困惑の声をあげる。地面に逃れた操は素早く立ち上がり、腰を低くしクナイを構えたまま男に相対する。


        ・・・・・・どうしよう。


        迷いが生じた。この男は操が想像していた以上に常軌を逸しているようで、次にどういう行動に出るのかが全く読めない。このまま闘って倒してお縄にす
        ることが、はたして自分に出来るだろうか。
        身の安全のためには、逃げるのが正しい選択なのかもしれない。しかし、みすみすこの機会を逃すのも悔しいし―――

        「痛いなぁもう・・・・・・どうしたの、怖いの? 怯えてるの? 可愛いなぁ大丈夫だよ何も心配することなんてないんだよぉ。ほら、そんな危ないものは捨て
        て・・・・・・」
        立ち向かうか退くか躊躇している操に、男が血の滲む肩を押さえながらにじり寄る。
        操は反射的に一歩後退する。下駄が地面にこすれて、じゃり、と低い音をたてた。


        と、その時。雲が流れて月が顔を出した。
        白い光があたりを照らす。そこでようやく操は、自分の目の前にいる男の顔を視認することができた。まだ若く、操とそう変わらない年頃で、思ったとおりの
        痩せぎすの青年。尖った顎に頬骨の目立つ顔の中、ぎょろりと大きい目がまじまじとこちらを見ている。



        ―――しまった!
        こちらから顔が見えるということは、当然向こうも―――



        「・・・・・・お前、誰だ?」
        拉致しようとした娘は意中の人ではなかった。背格好や髪型はそっくりだが、まったくの別人である。
        窪んだ眼窩の奥にある目に、剣呑な光が宿った。まずい、と思った操が身を翻すより早く、男は操に踊りかかった。

        「うわぁぁぁぁ! なんだよお前誰なんだよ! 桜ちゃんを何処にやったんだよぉぉぉぉぉ!」
        反射的に、操はクナイを顔の前に構えて防御の姿勢をとる。しかし男はそれに構わず、がっしとクナイを素手のまま握りしめた。
        男の迫力に、「ひっ」と悲鳴が漏れそうになるのを操はすんでのところで押しとどめた。こんな、武芸者でもなんでもない変態男に怯むなど、操の自尊心が
        許さなかった。
        男は握った手にがむしゃらに力をこめて、操の手から無理矢理にクナイをもぎ取る。クナイを路上に投げ捨て、その手を操に向かって伸ばした。

        ぬるり、と温かく気色悪い感触が、頬を覆う。
        力任せにクナイを握った男の手のひらは、ざっくりと切り裂かれ血にまみれていた。しかし男はまるで痛みを感じていない様子で、激昂して操の頭をがくが
        くと揺する。
        「なんだよ何なんだよ折角せっかく成功したと思ったのに!お前誰だよ何なんだよなんでこんな酷いことするんだよ!」
        酷いことをしているのはお前のほうだ―――と言いたかったが言えなかった。滅茶苦茶に頭を揺さぶられ、うっかり喋ろうものなら舌を噛んでしまうだろう。
        操はなんとかして顔から引き剥がそうとして男の手に指をかけたが、枯れ枝のような指のくせにびくともしない。


        「・・・・・・ふざけやがって」
        と、男の手の動きが止まった。
        操はくらくらする頭を少しでもはっきりさせようとしてきつく眉を寄せ、ついでに男を睨みつける。男の手のひらから流れる血が、操の小さな顎を伝ってぽた
        ぽたと胸元に赤い模様を散らした。
        「ふざけやがって、ふざけやがってふざけやがって!よくも邪魔してくれたなお前なんて殺してやる殺してやる、殺してやる!」

        手が離れた、と思ったのはほんの一瞬のことだった。男はすぐさま操の細い首へとその手を移動させる。
        絞め殺されるのはまっぴらと、操は邪魔な着物の裾を跳ね上げるようにして、男の鳩尾を膝で突いた。げふっと嫌な咳をして男は一瞬動きを止めたが、操
        から離れようとはしなかった。
        繰り返し膝蹴りを叩き込む。攻撃は効いてはいるようなのだが、男は執念深く操の首を離さず、じわりじわりと力をこめてくる。



        ―――やだ、ちょっと。これってひょっとして―――このままだとあたし、殺されちゃう?



        それまで考えないようにしていた最悪の想像が、頭に浮かんだ。
        ―――やだやだ!よりによってこんな奴に殺されるなんて情けないし格好悪い!
        ってゆーか緋村は何をしているのよ、一緒に立ち会うって言ってたくせに何処に行ったのよー!

        本格的に、息苦しくなってきた。
        それとともに、繰り出す膝の力が弱まって、反比例して首を締め上げる力が強くなる。


        苦しい、空気が足りない。これはほんとにやばいかも。
        何だっけ、人間死ぬ前には生きているうちにあった出来事がぐるぐる脳裏を駆けめぐるってやつ・・・・・・そうだ走馬灯。そのうちそれが見えてくるのかな。
        だとすると、あたしの場合さぞかし蒼紫様の姿が沢山浮かぶのだろうな。あたしの人生の大半は葵屋のみんなと、そして蒼紫様と一緒だったんだもの。
        離ればなれの時だって、蒼紫様の事を考えない日なんて一日もなかったもの。

        あああ、蒼紫様にもう一度会いたいなぁ。
        再会してからこんなに長く離れていたのって、初めてだもんなぁ。せめて最期にもう一度―――



        「ぐえっ!」



        と、操の思考は男の奇声で中断させられた。
        男の背中を襲った衝撃が、首に絡みついた手を介して操にも伝わった。

        男の指から力が抜けて、操の喉に新鮮な空気が流れこんできた。
        突然、身体が自由になった操は、咄嗟に足に力を入れられずにかくんと地面に膝をつく。


        「・・・・・・え?」
        男は白眼をむいて、操に覆い被さるように倒れこんできた。こんな奴の下敷きになるのは勘弁と操が退けるのより早く、男の身体が宙に浮く。

        後ろから男の襟首を掴んで持ち上げた人物の顔を見て、操は「ひょっとして自分はもう死んじゃっているんじゃないだろうか」と思った。
        だって、こんなこと、夢か幻か走馬灯でもない限り、ありえない。






        男を背後から殴りつけて昏倒させた人物は―――蒼紫だった。















        
8 「落着、そして」へ 続く。